112 近江路中山道攻略戦(1)


 八月七日、和田惟正を筆頭とする六角承禎への懐柔使者が、主城観音寺城に向かった。文の内容は素っ気ないものだった。義昭が上洛する。人質を出したうえで相応の奉仕をすべし、というものである。六角父子の腹の内を探ったのである。一方的に拒否するか、それとも条件をつけてくるか。


 七月下旬に、権蔵を通じて織田方に内通する者がいた。

 その者によると、三好三人衆が観音寺城に出向き、織田軍の侵攻に対する策を協議していたという。だから、一度六角の腹の内を探ってみたかったのである。


 使者団はその日のうちに帰って来た。全面的な拒否であった。藤吉郎の話によると、承禎は文を読むなり破り捨てたという。


 ぼくはすぐ次の文を用意する。

 人質は必要ない。義昭が本意を遂げられたときには、天下の所司代に任ずるというものであった。

 二日後の八月九日、同じメンバーの使者団が観音寺城に向かった。


 翌日、使者団が帰って来た。

 今回は一晩待たされたという。だが結果は拒否であった。藤吉郎の話によると、一晩中身の危険を感じたという。


 二日後、ぼくが直々じきじき文をかいた。

 使者団は木下藤吉郎、蜂須賀小六と、兵百で構成した。ぼくの示した条件は、

 上洛軍に加われば、摂津国を与えたうえで、幕府の所司代に任命する。しかし拒否するならば、六万の兵をもって押し潰してでも通るまで、というものであった。最後通牒である。


 使節団はその日のうちに帰って来た。

 病気を理由に、門前払い食らったという。仕方なく、大手門前で藤吉郎が文の内容を大声で読み上げた。結果として徒労に終わったのだ。


 三好三人衆と六角との協議の結果は、徹底抗戦するというものだったのであろう。六角親子の腹のうちは、既に決まっていたのだ。


 八月末まで、ぼくは大和の国の松永久秀と協議を続け、同盟工作を続けた。久秀から人質を出させ、その上で息子信忠と久秀の娘の縁組を提案する。そして大和の国の支配権を認めるというものだった。

その結果両者の利害が一致し、足利将軍家を支えるという名目で織田と松永の同盟は成立した。

 九月一日、三好三人衆との戦いで戦況が不利だった松永久秀のもとに、滝川一益に命じ援軍として二千の兵を向かわせた。これで、三好三人衆は六角支援のため京を留守にすることはできなくなるであろう。



 上洛軍の準備が整った九月七日、ぼくは美濃立政寺の足利義昭の許に、出陣の挨拶に出向いた。

「足利義昭さま、公方さまの上洛を妨げようとする南近江の六角一族を蹴散らせるため、これより出陣いたします。勝利の暁には、公方様を京にお連れいたします」

 ぼくの言上に、義昭は上機嫌であった。

「そうか、そうか、信長、待っておるぞ」



 六万の我軍は、佐和山城を南下、高野瀬城をはじめとする十六の支城を次から次と包囲していく。徳川家康軍、美濃軍と北伊勢軍ら二万の兵が、包囲作戦に加わる。そして愛知川の手前に、北方ほっぽうの備えとして、予備軍一万の兵を配置する。


 九月十一日、織田精鋭軍、美濃軍、そして浅井軍、総勢三万の兵は、愛知川の畔に布陣した。目指すは主城観音寺城、支城の和田山城、箕作城である。



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