109 近江路での密議
五月から六月にかけて、前田利家、素っ破の権六と共に、ぼくは行商人の姿で京への道、六角が支配する近江路中山道を何度も行き来した。桶狭間までとはいかなかったが、地理、風土、住民の生活を丹念に調べ上げた。
権六が育て上げた三十人余の素っ破どもが、見え隠れにぼくの行き先で守備についている。権六は使える忍びである。
六月最後の日、ぼくは利家、権六と共に、主城観音寺城の守城である箕作城山麓にあるあばら家で、木下藤吉郎、滝川一益と落ち合った。
外は小雨が降っている。肌寒い日であった。
あの日も激しい豪雨であった。桶狭間の戦いの前年、桶狭間のあばら家でイヌ、サル、ハチ、ウシの四人の仲間と打ち合わせをした時のことだ。あの時期、動員できる兵数はおよそ三千、今は徳川、浅井軍も含め六万を超えている。九年の間に積み上げてきた巨大な数字だ。
あの時、食べた焼きおにぎりの味は今でも忘れられない。
権六がしたくした
目の前には、利家が用意した南近江路中山道の絵図面がある。
「この城が佐和山城です」
利家は扇子でその位置を指し示した。そして、扇子の先を南にずらしていく。そこに二つの城があった。
「西が種村城、東が高野瀬城です」
更に、南に扇子の先を滑らす。
「高野瀬城の南に目加田城、さらに南に栗田城」
高野瀬城の西を指し示す。
「ここが、和田山城です」
我軍の中山道の進軍を東西から挟み撃ちにする構えである。
「愛知川を渡りますと、西に主城観音寺城があります。そして東に強力な守城としての
「権蔵、どの城が一番手強いと思うか」
「ここです」権蔵は箕作城を指さした。
「守りに易く、責め難い城です」
「サル、おまえは、どうだ」
「やはり、箕作城でございましょう。攻め口は一本道の上り坂、難攻不落に見えますが」
「それでは、一挙に主城観音寺を落とすのはどうだ」
ぼくが提案する。
「主城も山城、簡単にはいきませぬ。もたついていますと、背後から箕作城からの攻撃に晒されます」
一益が佐和山城から中山道の
「この道は、左右が支城に囲まれた、いわば谷底の道にございます。この狭い場所に大軍を進めれば、今川の二の舞になりかねません」
「たしかに」ぼくは呟く。そして、一益に視線を送る。
「
同名中とは、甲賀の小領主たちが結成した一族集団のことである。
「しかとは分かりませぬが、今までの経緯からそうなるものと思われます」
「権蔵、そなたの考えはどうだ」
「甲賀は負け戦には参戦しません。勝ちそうな方に加勢するでありましょう」
「ウム……」
「ここは、浅井勢に、箕作城と観音寺城の間、中山道に布陣させたらいかがでしょう」藤吉郎が大真面目な顔付で言った。
ぼくは笑い出した。
「何のために?」
「ひとつに、六角の出方を見るため。ふたつに浅井の忠義心をみるために」
「サルは、浅井を信じられぬとみておるのか」
「いえ、そうでは、ありませぬが、あの風貌が気に入りませぬ」
「そうか、よく分かった」
サルは市を長政にとられて妬いておるのだ。
「もし、浅井が断ったなら、われに箕作城攻撃をお命じ下され」
彼の顔が赤くなった。まことにサルらしい。
「よく申した。その時には、そなたに命じよう」
「有難きしあわせ」
「ところで藤吉郎、京の様子はどうであった?」
利家が訊いた。
「戦に次ぐ戦で、市内は荒れております。将軍足利義栄さまは、まだ上洛しておりませぬ。聞くところによりますと、重い病にかかっておられるとか。三好三人衆が支配しておりますが、市中の
「三好と六角は、連絡をとっておるのか」
ぼくが訊く。
「南近江と京の間を、密使が頻繁に行き来しております。おそらく、支援の態勢を整えていると考えるべきです」
「ところで、われの噂はあるか? 京の民はわれのことをどう思っておる?」
「それが……」
「われに気をつかうな。遠慮なく申せ」
「恐ろしく乱暴者で、気に食わなければ、直ちに首を斬る野蛮人だ、と」
「ウム……」
「殿、ここは、殿の懐の大きさを示す時でございますな」
一益は恐る恐る僕の顔を見詰める。
「われは、軍の統率と治安を重んじているだけだ。京に入っても、その方針は変えぬ。禁制をもって不法は徹底的に取り締まる。尾張、美濃同様にだ。町人も商人も、われらが軍兵士たちに対してもだ」
禁制とは権力者が禁止事項を公示することである。
「殿、岐阜城から、帰蝶さまの使いの者が参りました。足利義昭さまが一乗谷を出、美濃に向かう由にございます」
権蔵がぼくの耳元で囁いた。
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