100 運に見離されたか 河野島の戦い
吉乃の葬儀を終えた日の夜、ぼくは睡眠時幻覚に襲われた。信長が現れたのである。彼は狂ったように泣き叫び、ぼくの首元を掴んで締め上げた。ぼくは悲鳴を上げ続ける。
「殿……」帰蝶が枕元にいた。
「信長さまが現れましたか」
ぼくは胸を押さえて頷く。
「仲間を集めましょう」
車座の面々に向かって、帰蝶は小声で言った。
「体の中の信長さまが、覚醒しました。吉乃さま亡くなられて、悲しみのあまり、目覚めたのでございましょう」
「もう、用向きは分かったであろう。これからの、われの、言動と行動のことであ る。われは、これより、いつ理不尽な言動、行動を起こすやもしれぬ。もし、そのような事態となったときは、われを無視せよ。後日、そのことをわれが咎めたら、そなたたち全員が、そのような命令がなかったと、われに申し立てるのだ」
五人の仲間は全員腕を組み、目を閉じた。
沈黙が続いた。
「殿」藤吉郎秀吉が口を開いた。
「殿の命令は、われら以外の者が聞いていることもありましょう。そこは、大筋、殿の命令に従い、多少の修正をわれら五人で考えて、対処することも、ご考慮くだされ」
「任せる」
「後は、いつ起こるかもしれぬ、癲癇にございます」帰蝶が言った。
「城内にいる場合は、わたしが対処いたしましょう。問題は、城外、とくに戦の最中でございます」
「われら、五人が殿の傍に控えておることしか、方策はありますまい。殿には、われらが、傍に控えるよう、公式に宣言くだされ」
太田牛一が目を閉じたまま言った。
「わかった。そのようにいたそう。だが、緊急の事態が起こったときは、そなたらの内一人は、われの命じる任務に、単独で励んでもらわねばならない。皆の者、どうだ?」
「仰せのとおりに」
五人の仲間は異口同音に言葉を発した。
八月二十八日早朝、上洛に向けての陣立てが整った。一万を超える大軍である。
後はぼくの号令を待つだけである。
ぼくが仲間と共に大手門を通ろうとした時である。
一頭の母衣武者が飛び込んできて、ぼくの面前で下馬した。
「殿、一大事にございます」
「何事か?」
「斎藤龍興さまが、裏切りました。六角義賢さまが離反し、龍興さまを唆せたとのことにございます。進路を、六角軍と斎藤軍が封鎖しております。関ヶ原は通ることができませぬ」
「ウム……」
「作戦の練り直しにございますな」
太田牛一が、ぼくの耳元で囁いた。
「兵を暫し休息させる。その旨、各軍侍大将に伝えよ」
ぼくは近習にその旨を伝える。
だが、振り上げた拳を容易く下ろすことなどできない。思い知らせてやらねば、気が治まらぬ。
ぼくは本丸の広間に戻って胡坐をかいた。
午後になって、滝川一益が駈けつけてきた。
「義秋さまが、殿の動向を見守っております。今は、細川殿、和田殿の手勢が義秋さまを敵から守っております」
「ウム……」
「先の将軍足利義輝さまを亡き者にした、三好三人衆が、六角義賢、義治親子と内通し、足利義勝さまを擁立することで、まとまったとのことでございます」
「それに。龍興も同調したということか」
「はっ」
「一刻も早く、龍興を打たねばならぬ。釣った魚に逃げられてしまう。こうなった以上、自力で道を切り開かねばならぬ」
その夜、旗本から指揮官三人を選抜し、広間に集めた。
「明日早朝出立し美濃に攻め込む。そなたらに千ずつの兵を委ねる。総勢三千の陣立てである。稲葉山城へ最短の道を通り、明日中に城を籠城に追い込む。心してかかれ」
ぼくが独断で決めた。
この決断に、仲間たちも口を挟まなかった。
八月二十九日、三千の兵は木曽川に向かって北上する。
木曽川は各務原の南あたりから幾筋にも流が分かれ、その主流は境川であった。目の前に中州が広がり、いくつもの島が川の中に浮かんでいる。
ここを渡るのは美濃への最短コースであったが、今までぼくはこのルートを通ったことがない。
いくつもの流を越えるのは大変だったので、南の流路のまとまった所か、あるいは分流する手前の所を渡って美濃に侵入していたのである。
「殿、ここは縁起が悪うございます。二十年ほどまえ、父上信秀さまが、わが父道三と戦われたときに、通った道にございます」
「ウム……」
その戦は知っている。ぼくが戦国時代にやってきたとき、父信秀が惨敗した戦のことだ。だが、それは、このルートのせいではない。戦況を見誤ったのだ。
ぼくはその様に自分に言い聞かせる。
雨が降ってきた。雨は我が軍にとって吉兆の証である。
ぼくは軍を率いて、木曽川の中州に入っていく。
対岸に斎藤軍が現れた。彼らは主流境川の岸辺に陣を張った。
雨は降り続き、両軍とも身動きできなくなった。日一日と水嵩が多くなる。やがて、前にも進めず、後ろにも退くことができなくなった。
やがて本陣は水浸しになった。兵の士気は下がり続けている。
そして、十日が経った。その日の午後、雨が小降りになった。
「殿、お退きくだされ。お伴仕ります」
牛一が助言した。
「殿、お早く」
帰蝶も急かす。
「殿、われがしんがりを務めます。早くいかれませ」
蜂須賀小六が大声を上げた。
ぼくは鎧を脱ぎ捨て、刀剣も投げ捨てて馬に跨った。
そして、激流の中に馬を進める。
岸に辿り着いた時、雨が上がり陽が差してきた。
境川の斎藤軍が大挙して追い寄せてくるのが見えた。
我軍の兵は着物を脱ぎ、武器を捨て、ふんどし姿で川を渡って来る。渡り切った兵たちは、大の字になって天を仰ぐ。一方、多くの兵が激流に呑み込まれていく。
陣を張っていた河野島では、少数となったわが将兵が、敵の刃にかかって倒されていくのが見えた。
「なんと、愚かな、ことを……してしまった」ぼくは呟いた。
雨が吉兆という、わが軍の伝説は、幻となって消え去ってしまったか……。
それから一か月、ぼくは小牧山城の書院に閉じ籠った。
その最中、九月一日権蔵が現れた。
「義秋さまは、八月二十九日妹婿の武田義統殿を頼り、若狭の国に移ったとのことでございます」
彼は淡々と報告する。
「そうか……」
細川藤孝も和田惟政も、われを見限ったか。
十一月に入ると、新たな情報が届いた。
義秋が朝倉義景の一乗谷に入ったという知らせである。
次期将軍が、ぼくの手の届かぬところへ行ってしまったか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます