73 武田信玄の影が見える 西美濃神戸町侵攻

 


 その日のうちに、ばくは墨俣の砦に入った。

 砦の兵は総勢三千を超している。明日は一挙に稲葉山城に侵攻する。


 すぐ木下藤吉郎、前田利家を呼び、太田信定、蜂須賀小六も交えて軍議を開いた。どうしたわけか、藤吉郎も利家も元気がない。

 最初に口を開いたのは、利家であった。

「龍興が筆頭家老に長井隼人をつけました。やつは、甲斐の武田と通じております」

「ウム……」

 ぼくは出鼻を挫かれた。


 隼人というのは長井道利(みちとし)の通称である。彼は義龍の懐刀であった。斎藤道三寵愛の異母弟孫四郎と喜平次の謀殺を提言し、実行させた人物である。これを機に、長良川の父子戦が始まり、義父道三が殺されてしまったのだ。

 ぼくにとって、長井隼人は許しがたい人物であった。


「面倒なのは、武田信玄が、長井隼人の要請を受けて、東美濃に侵攻の気配を見せておることでございます」藤吉郎がぼくを真正面から見詰めて、呻くように言葉を発した。

「信玄は、東美濃を、虎視眈々と狙っております」

「ウム……」

 ぼくは言葉を失った。美濃一国に手を焼いておるときに、美濃甲斐連合軍と戦う余裕などあろうはずがない。


「それに、龍興は、越前の朝倉と手を組み、さらに義龍時代交戦状態だった近江の浅井とも和睦を企てておるそうにございます」

 利家がさらに厳しい状況を話し続ける。

「ウム……」

 ぼくは歯ぎしりする。


「殿、いかがいたします」

 利家がそう訊くと、藤吉郎もぼくの顔を覗き込んだ。

 ぼくは背筋を伸ばし深呼吸する。


「稲葉山城を攻撃している場合ではなさそうだ。今は龍興と浅井長政との和睦を止めるのが先決だ。国境の安八郡(あんぱちぐん)神戸町(ごうどちょう)に兵を進め、禁制の制札(せいさつ)を立てる。美濃軍の行動を禁止するのだ。さすれば、長政は安堵するであろう」

「良きお考えにございます」

 信定が真っ先に賛成した。

「サルよ、長政の居城に出向き、われの書状を渡すのだ」

「はっ」


 翌朝早朝、ぼくは千の兵を墨俣の砦に残し、二千の兵を引き連れて北上、揖斐川(いびがわ)を渡り、安八郡に入った。ここ大垣には、氏家、曽根、稲葉、池尻などの有力武将がいる。小競り合いになるのは、承知の内である。

 さらに軍を進め、濃尾平野の最北端神戸に到達した。


 軍は日吉神社で休息をとった。

 美濃方の城からは、一兵も現れなかった。恐ろしく静かで、かえって不気味であった。

 制札を担いだ十名ほどの兵を引き連れて、信定が現れた。

「これより、制札を立てます」

「迅速に、かかれぃ」

 ぼくは気合を入れる。

 

「殿、朗報があります」信定がぼくの耳元で囁いた。

「美濃の筆頭家老長井隼人は、他の重臣たちと仲が悪いとのことです。この地の武将たちも、龍興の人事に不満を持ったのでございましょう」

「うん」ぼくは思わず笑みをこぼした。

「たしかに、朗報だ」


 帰路、ぼくは墨俣の砦に火を放ち、美濃方にも使えない状態にした。そして、わが軍全員、美濃の地から撤退した。

 武田信玄が東美濃に侵攻してくるかどうかは、わからない。少なくとも、美濃侵攻の大義名分がなくなったことは紛れもない事実だ。



 北尾張に入り、小口城に到着したとき、激しい攻城戦の真最中であった。大手門から攻め入り、城内で乱戦になっていた。あれほど戦の趣旨を説明したのに、なんたることか。


 小六が戦況の報告に来た。

「我が軍は、敵の策略にのり、罠にはまったようです。城内の我が軍は、取り囲まれ、櫓の上からの攻撃に晒されております。攻撃隊を出しますか」

「今、兵を入れても、犠牲者を増すだけだ。中の兵を撤退させるのだ。鉄砲隊を大手門に向かって、陣立てせよ。兵に防御板を持たせ、城内の兵の撤退を支えよ。陣太鼓を用意いたせ」

「はっ」

 小六は美濃から帰還してきたばかりの兵に命令を発した。


 防御板部隊、陣太鼓部隊が勢揃いした。

「備え太鼓を打ち鳴らせ。備え太鼓を打ち鳴らせ」

 ぼくは叫び声を上げ続ける。


 この攻城戦で、わが軍は多くの若者を失った。

 清州城への帰路、指揮を委ねた岩室重休が討ち死にしたことを知らされた。ぼくは、彼に指揮を委ねたことを悔やんだ。責めているわけでは、自分の不甲斐なさが悔やまれたのだ。


 当分、美濃攻撃は控えよう。出来れば、美濃との和睦交渉を進めよう。

 領内を固め、三河の情勢を松平元康と共に安寧にしよう。

 ぼくは馬上で思いをめぐらせ続けた。

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