58 戦場に絶対的正義などない 勝った者が正義なのだ 桶狭間戦後処理
桶狭間山で勝どきをあげた二日後の夕暮れ、ぼくは太田信定と桶狭間山の山頂にいた。
昨年の九月、信定とは、ここから戦場となる桶狭間を見下ろしていた。あの日から八か月経っている。ここから見える風景も、状況もまったく様変わりしている。
鳴海城は、和睦が成立し、城主岡部元信が義元の首と交換に城を明け渡すことに同意していた。佐久間信盛が、今その細部を詰めている。
鳴海城の南、大高城は今や主が不在である。災いの元となるこの城を廃城にするつもりだ。
ぼくは東の沓掛城を眺めた。
沓掛城は、我が軍が包囲し、激しく攻め立てていた。城主近藤景春は頑として城の明け渡しを拒んだため、全面的な闘いになっていたのだ。ぼくは沓掛城攻撃の将に簗田政綱(やなだまさつな)を起用した。帰蝶が中嶋砦と善照寺砦の戦いにおいて、影武者喜八を支え、兵たちを鼓舞した功績を褒めたたえていたからだ。
信定は、腰を落とし半紙と筆を出し、筆を舐めなめ、何かを書きだした。
信定はまことにメモ魔である。いつも、こまめに記録をとっている。
「何を書いておる」
「この地での、殿の戦いぶりでございます」
「まさか、われが、義元を暗殺したと、書いておるまいな」
「書いております」
彼は筆を動かしながら答えた。
「書いては、ならぬ」
信定はぼくを見上げた。
「何故でございます」
「それでは、われが困るのだ」
「何故、困るのです」
信定が珍しく聞き返してきた。
「困るから、困るのだ。いいか、ウシよ、こう書くのだ。信長は桶狭間をまっすぐ進んで、正面から義元を討った、と」
信定が溜息をついた。
「それが、無理筋なことは、殿が一番ご存じではありませぬか」
「そうだが、それをやるのが、信長なのだ」
信定は筆を休めて、ぼくを見上げた。
「それから、ウシよ、松平元康が、われに味方して、今川を裏切ったとは書いてはならぬ。元康の名誉のためだ」
「はぁぁ」
「それから、もう一つ、ついでに言っておく。帰蝶のことも書いてはならぬ。まして男だったと書くのはもってのほか。今までに、書いおるものがあるならば、すべて焼き捨てよ。もし、そなたが、帰蝶について記してあるものを見つけたならば、それも即刻焼き捨てるのだ」
信定は口を開けたまま、ぼくを見上げている。
「ウシよ、分かってくれ。帰蝶の幸せのためだ」
信定はぼくを見上げたまま頷いた。
「殿の仰せであるならば、そのように」
桶狭間山に、黒母衣武者が駆け上がってきた。
ぼくの前で下馬し、見上げる。
「殿、沓掛城を攻め落としました。敵将近藤景春は討死いたしてございます」
「ウム……。簗田政綱に、われの言葉を伝えよ。われが褒めていた、と」
「はっ」
母衣武者は騎乗し、桶狭間山を下りていった。
「殿、終わりましたな」
「ウム……」
ぼくは唇を噛みしめた。
戦場に絶対的な正義などない。勝った者が正義なのだ。
ぼくは、火の手が上がる沓掛城を見ながら呟いた。
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