55 丹下砦の兵と共に善照寺砦に入る

 

 桶狭間北側の狭間には、今川軍の歩兵の列が続いている。

 善照寺砦のより北側の山道を迂回し、ぼくたちは丹下砦に向かった。

 雨は降り続いているが、西の空が少しずつ明るくなっていく。


 善照寺砦には既に今川の兵が群がっていて、攻防戦が繰り広げられている。まだ堀の周りに張り巡らせた防護柵は破られていないようだ。わが軍の必死の抵抗が続いている。 


 雨が砦を守っている。

 今川軍は火攻めが出来ないのだ。善照寺砦が今もなお持ち堪えている、その大きな要因の一つに違いない。


 丹下砦の前で。権蔵が待っていた。ぼくを見上げ黙礼すると、馬の轡を持った。

 ぼくが下馬すると、緊張した面持ちで片膝をついて見上げる。

「申し訳ありませぬ。善照寺砦には入れませんでした」

「ウム」

 ぼくはそのまま砦に入る。


「服部一忠が負傷した。即刻手当せよ」

 一忠が兵たちに支えられて、陣屋に向かって行く。

「湯を沸かし、樽に入れよ。湯浴みをする。それから粥の用意をいたせ」

 ぼくはそう言って木台に腰を落とした。

 懐から陣羽織を出して広げる。その横に、毛利良勝が義元の首を並べた。


「皆の者、よく見よ。これは敵の総大将今川義元の首と、陣羽織であるぞ」

 ぼくは満面の笑みを浮かべて大声を上げる。

 集まってきた兵たちからどよめきが上がる。


 丹下砦の将、水野忠広が駆けつけてきた。

「殿、これは……」

 忠広は絶句する。

「首を掲げる長い竹竿を用意せよ。そして、首の下に陣羽織を吊るす横棒を取りつけるのだ」

「直ちに」

 忠広が即答する。


「水野、この砦には、何人の兵がおるか」

「二百九十ほどでございます」

「鉄砲は、何挺ある?」

「六挺でございます」

「六挺……」

「鉄砲は、ほとんど善照寺砦の方に……」

「そうか、やむをえない。一息ついたら、総出で善照寺に向かうぞ。雨が止む前に、義元の首を砦に掲げなければならぬ」

「ははっ」


 陣屋の前に大樽が置かれ、湯が注ぎこまれる。兵が湯加減を見ている間に、ぼくは松平の甲冑を脱ぎ棄て素っ裸になり、樽の中に体を沈める。もう一つの樽には、小六が入った。

 ぼくは十ほど数えて樽から出た。すかさず良勝が樽に飛び込む。新しいふんどしをしめ、湯帷子を着る。小姓に髪を整えさせている間に、ぼくは粥を喉に注ぎ込む。そして立ったまま粥を啜り続け、新しい甲冑を装着させる。


 ぼくは木台の上に飛び乗った。目の前に、丹下砦の兵二百九十が勢揃いしている。

 空に雲の切れ間が現れ、薄日が差し始めた。

「われは、これより敵将今川義元の首を持って善照寺砦に入る。皆の者、全力を挙げて、砦への活路を開くのだ。善照寺砦には、われらの勝利が待っておるぞ」

 砦の中に歓声が上がった。


 善照寺砦に辿り着いた時には、雨は上がり陽が差していた。

 今川軍は、攻撃の鉾先を丹下砦軍の方に変えた。

 ぼくは槍衾を構えさせ、鉄砲を撃たせた。僅か六挺であったが、その音は周囲に響き渡った。


 善照寺砦の前線から歓声が上がった。

 今川の数千の兵が一斉に押しかけて来る。

 同時に善照寺砦から、鉄砲の破裂音が鳴り響いた。見ると、数百挺の鉄砲の銃口が今川軍に向けられている。

 鉄砲の発射音は途切れることはない。みるまに、今川の負傷兵が転がって横たわった。砦から長槍を構えた数百の兵が出てきて、丹下砦軍の進路を確保する行動に出る。


 白兵戦になった。

 ぼくは兵に守られて、砦への道を走った。

 矢が唸りを上げて、次から次と飛んでくる。兵たちによって支えられた防御板を矢先が貫き、いくつも、ぼくの目先で止まる。ぼくは走りに走り、砦の防御柵の隙間から砦へ潜り込んだ。


 顔を上げると、帰蝶が笑顔で立っている。

「信長殿、お早いお着きで」

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