53 いざ桶狭間、参るぞ
これで勝ったも同然。織田の軍の自慢の鉄砲も、おもちゃ同然。
天幕の中から、雨宿りしている兵士たちの声が聞こえる。
「殿、如何されますか」権蔵がぼくを急き立てる。
「今川軍が、休息している、今こそが好機かと」
「待て、その前に試しておきたいことがある。たしかに、雨は今川にとっては恵みかもしれぬ。同時に、われらにとっても、恵みになるやもしれぬではないか」
ぼくは天幕を出て、今川義元の天幕を覗き込んだ。義元は武将たちと酒を酌み交わし、談笑している。護衛の近衛兵は、七、八人にすぎない。
「よいか、われが叫んだら、お前たちも、大声で同じように、口々に叫ぶのだ」
ぼくは四人の仲間に告げ、天幕を少し開ける。
「この雨は、天の恵み。織田自慢の鉄砲は、オモチャ同然。全軍あげて一気に攻めれば、勝ったも同然」
雨は天の恵み。
織田の鉄砲はおもちゃ同然。
一気に攻めれば、勝ったも同然。
仲間たちは、口々に囃し立てる。
兵士たちの天幕からも、同じような声が響いてくる。
義元は盃を置いて立ち上がった。
「何事だ、見て参れ」
近衛兵に命じる。
ぼくたちは、再び天幕に身を潜める。
近衛兵は各自軍団ごとの天幕に向かって行った。ぼくは息を殺して、彼らが戻って来るのを待った。
一人の近衛兵が戻って来る。
「大殿、われらの軍は、血気盛んでございます。この雨で、織田の鉄砲はおもちゃ同然と、囃し立てております」
「おもちゃ、同然、か……」
義元は呟く。
次に戻ってきた近衛兵も、同じように報告していく。
「平岩殿、頼みがござる」ぼくは平岩親吉に声をかけた。
「義元に申していただきたい」
「何をでござる」
「これより松平本陣に立ち戻り、わが主に、雨が止む前に、織田軍を攻撃するように進言したく存じます。大殿には、なにとぞ、そのように下知されますよう、お願い奉ります、と」
ぼくはそう言って、ぼくは親吉の顔色を窺った。
暫く、彼はぼくの顔を見詰め続けた。
「分かりました。やってみましょう」
親吉は唇を強く噛みしめる。
親吉は天幕に転がりこむと、義元の前で両手をついた。
「大殿、お願いがございます」
「なんだ、七之助(親吉の幼名)、申してみよ」
「われは、これより、松平本陣に立ち戻り、わが主に、この雨が止む前に、織田軍を総攻撃するよう進言したく存じます。大殿には、なにとぞ、そのように下知されますよう、お願い奉ります」
義元は立ち上がると、天幕を出て行った。八人の近衛兵がすかさず付いて行く。ぼくは天幕を回り、義元の姿を捜した。
彼は雨で煙る桶狭間を見下ろしている。
ぼくは元の場所に戻り、息を殺して天幕の中に義元が戻ってくるのを待った。
義元は天幕に戻るやいなや、武将たちに向かって大声を出した。
「北の狭間に、織田の軍勢はいないか」
「織田の軍勢は、善照寺砦に立て籠もっております」
末席の武将が言った。
「殿、織田は雨を止むのをまっているのでありましょう。今のままでは、鉄砲も使えず、たかが三千の兵では、身動きできるはずがございません」
筆頭武将が口添えする。
「七之助、元康に伝えよ、直ちに、総攻撃せよ、と」
「有難き幸せ」
親吉は跳ね上がるように立ち上がると、天幕を出た。
笑みを浮かべてぼくの所に歩いてくる。ぼくは大きく頷く。
「全軍、善照寺砦を総攻撃する。力でねじ伏せるのだ。わしの命令を、前軍、南軍に伝えよ。それから、ここにおる一万の兵は、桶狭間には五千、北の狭間に五千に振り分け、ただちに、善照寺砦に向かって進撃するのだ」
義元はそう言って、頭から湯気を上げた。
「ただちに、かかれいっ。信長の首を上げた者には、城一つ与えるぞ」
ぼくたち七人は、もとの天幕に戻り、身を潜めた。
「殿、これでは、北の迂回路は今川の軍勢で埋まります。善照寺砦は見動きできませぬ」
権蔵が苦り切った口調で言った。
「方針変更だ。ここで、義元を討つ」
ぼくの決断で、緊張が一気に高まった。
「われの計画を話すゆえ、意見があったらなんなりと申せ。この雨は降り続く限り、近衛兵は五十ずつ二つの天幕に控えるであろう。義元の天幕には、おそらく近衛兵が八名。この八名を、われら、五名で一気に倒し、義元の首を取る。平岩殿には、二人で、一分間、誰も天幕に入れないでいただきたい。もし、逃げ出す者がいたならば、切り捨てて頂きたい」
親吉とその部下は無言で頷く。
「事が成就した時には、元康殿の本陣に戻り、事の次第を伝えていただきたい。そして、善照寺砦に義元の首が掲げられたら、大殿が討ち取られたと、ふれまわっていただきたい」
「承知」
「元康殿には、もう一つ。直ちに戦陣を離れ、緒川城に向かっていただきたい。水野殿には、すでに伝えてござる。於大の方も、待っておるでありましょう」
「承知いたした」
天幕の外が騒がしくなっていく。指揮官の大声、甲冑の擦れ合う音、馬の蹄の音などが、雨音の中に溶け合って聞こえてくる。
「権蔵、義元の首を取ったら、おまえには、善照寺砦に向かってもらう。チョウ(帰蝶)にことの次第を伝え、丹下砦でわれを待つように言うのだ」
「承知いたしました」
権蔵はそう言うと、姿を消した。
「われら、四名は、義元の首を抱えて、この山を駆け降りる。騎乗し、北の狭間をぬって、善照寺砦を見ながら、その先の丹下砦に向かう」
「承知」
雨はさらに激しく降り注いでくる。
その嵐の中を、長槍を抱えた歩兵の軍団が桶狭間に向かって下りていく。北の狭間には、五百の騎馬軍団が駈け下りていった。その後を、四千を超える歩兵が延々と続く。
三十分ほど経った。
桶狭間山から兵の姿は消えていた。
権蔵が戻ってきた。蓑を身に付け、両手に母衣を抱え、背中には旗指物を二つ差している。彼は母衣を天幕の中に隠し、旗指物を外し、蓑を脱いだ。
「わしは、母衣武者に化けて、善照寺砦に向かいます。蓑と旗指物は、二つずつしかありませんでした。お使いくだされ」
ぼくは深呼吸した。
「いざ、桶狭間。参るぞ」
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