52 桶狭間に雨が降る

 

 

 今川軍の前軍五千が、桶狭間山を下り、桶狭間を通って中嶋砦に向かっている。まだ織田の本軍は善照寺に辿り着いていない。手薄な中嶋砦はこのままでは、今川の大軍に呑み込まれしまう。


 陣幕の中で、ぼくたち七人は腰を落とし、車座になって胡坐をかいている。近衛兵が差し入れてくれた水を飲み、干し肉にかぶりつく。


 どうしたものか。ぼくは思案にくれていた。

 現在、桶狭間山に残っているのは、今川義元の近衛兵を中心とした一万の兵である。この一万の兵を打ち破って義元を討ち取るのは、至難の業である。目的を達成させるためには、二つの条件を満たさなければならない。


 一つは、義元の守備兵を少なくとも五千まで減らすこと。二つは、善照寺からこの桶狭間山まで、桶狭間の北側の迂回路を通って、本軍を無事到着させることである。


 一つ目の条件を満たすためには、さらに五千の兵を桶狭間に送り込むように仕向けなければならない。信定(ウシ)が提案した突撃隊も、一万を超える前軍と南軍に対しては焼石に水であろう。

 千の兵を善照寺砦に残し、二千の兵を今川方に気付かれずに迂回路を進めさせるのも、容易いことではない。

 

 もし勝利があるとするならば、時空の定めがどう信長に味方するかであった。それは、今のぼくには皆目見当がつかない。


「織田の本隊が来たぞ」

 天幕の外から兵士たちの叫び声が聞こえてくる。

 ぼくたちは一斉に立ち上がり、天幕の外に飛び出した。西の大地が見渡せる山の先端まで駆け足で行く。


 善照寺砦から中嶋砦に向けて、兵士たちと、高く掲げられた旗印が進んでいくのが見える。

「旗印は、木瓜でございます」

 物見の近衛兵が義元に言った。

「数は、なんぼじゃ」

「およそ、三千」

「三千? 三千で、わしに歯向かってきおったのか」

「はあぁ」

「やはり、信長は、たわけじゃな」

 義元は愉快そうに笑った。


「大殿、いかがいたします」

 筆頭武将が伺いをたてる。

「しばし、うつけが、何を企んでおるか、高見の見物といこうではないか。ただし、北側の幾筋もの狭間には、目を光らせておけ、うつけの活路は、あの迂回路しかないであろうからな」

「北側の一帯には、五百の間者を張り廻らせております。織田軍の動きは、手の中にあるがごとき、緻密につかんでおります」


 さすが、義元、ぼくの考えを見通している。だが、勝つためには、その迂回路に頼るしか道はない。


 それから二時間ほど、義元はその場で床几に腰を落とし、餅を食らいながら見世物見物のように、西の戦場を眺めていた。

 正午、中島砦の東側の狭間で小競り合いが起きた。

「大殿、織田の軍勢が、われらの前軍に切り込んでまいりました」

 物見の近衛兵が報告する。

「その数は、なんぼじゃ」

「およそ、三百」

「三百? まことに三百か」

「ははぁ」

「織田の子倅は、正気か。それとも血気盛んな阿呆どもの跳ね上がりか。まことに、指揮の統制がとれておらぬな」

 義元はそう言って、餅を一口噛むと、にやりと筆頭武将に同意を求めた。

「まことに、うつけに、ございます」


 三十分ほど経った。

 桶狭間から騎馬武者が二騎駆け上がってきた。義元の傍で下馬し、片膝をついて麻袋を差し出した。

「敵の兜首、二つ、討ち取りました」

「そうか、そうか」

 義元は満足そうに頷く。

 近衛兵が、麻袋から、首を出して、義元の前に掲げる。

「ウム、でかした。褒めてとらす」


「誰の首だ」

 ぼくは小六の耳元に小声で尋ねる。

「佐々政次と千秋四郎にございます」

「イヌではあるまいな」

「はい」


 織田軍が中嶋砦を撤退、善照寺砦の高台に上がっていく。

 中島砦を占拠した信貞軍と桶狭間前軍は追撃し、善照寺砦への坂道を上がっていく。

 坂の上から、織田軍の鉄砲隊が一斉に火を噴いた。

 今川の兵が坂道を転がり落ちる。


 義元は立ち上がった。

「全軍に伝えよ。無理攻めはやめよ、と。鉄砲は撃たせるだけ、撃たせておけ。これより、交互に昼めしを食らい、腹を満たすのだ。戦いは全員食らい終わってからだ。全軍団上げて、じわりじわりと、織田の軍を締め上げていくのだ」


 義元は天幕に向かって歩き出す。

 筆頭家老に笑顔を向けた。

「これで、勝ったも同然。酒でも飲みながら、吉報を待つとしよう」


 ぼくたちは、茫然と中嶋砦を見下ろした。

「殿、いかがいたします」権蔵が尋ねた。

「善照寺砦に伝えることは……」


 ぼくは空を見上げた。

 音がしたような気がしたからだ。

 ぽつり、と雨粒が一つ落ちてきた。


 雷鳴が轟き、天空に光のギザギザが流れた。

 初陣帰りの信長を殺し、ぼくを仮死状態にした、あのギザギザだ。


 大粒の雨が落ちてくる。それが見る間に激しくなっていく。

 ぼくは天を見上げた。

「六天魔王……」

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