42 三人の信長と二匹のイヌ
「殿、もう喜八は限界でございます」
ぼくが清州城に戻り、信定と共に廊下を歩いて行くと、大広間の前で帰蝶が待ち受けていた。
「どうしたのだ」
ぼくは大広間に入り、腰を落として胡坐をかく。
「宿老どもが、何かと申してくるのです。今の喜八では、信長の影を務まりません。風邪をひいたことにして、表に出さないようにしております」
「宿老たちとは、誰と誰だ」
「林秀貞と佐久間信盛でございます」
「あいつらか……」
ぼくはうんざりして呟いた。
「それから、もう一つ厄介なことが」帰蝶は腰を落とすと、ぼくの耳に囁いた。
「イヌ殿のことです。同朋衆の拾阿弥と争いを起こして斬殺、出奔いたしました」
「何を言っておる。イヌは今緒川城に行っておるのだぞ」
「分かっております。時空の歪みで、史実の欠片が零れ落ちたのでございましょう。イヌ殿の処分は、勝家と可成の取りなしがありましたので、喜八がなんとか出仕停止処分にとどめております」
ウム……。利家のその史実は、本で読んだことがある。有名な逸話だ。
「それは、もう一人のイヌがいるというのか」
「はい。殿が史実を変えたからだと、思います」
「われの行いは、すべて史実に取り込まれているというのか」
「そうとしか、思えません」
「われは、いちいち、史実通りにことを進めなければならないのか。そんなことは、われに出来るはずがないではないか」
ぼくは不安に陥った。桶狭間の戦のことが、頭をよぎったからだ。ぼくの考えている作戦は、大丈夫なのか。
「でも、なんとか、取り繕っていかねばなりません」帰蝶は胡坐をかいた。
「殿」信定が口を挟んだ。
「ことの次第のことは、よく呑み込めませんが、とりあえずイヌ殿に、ことの次第を伝え、これからの行動を導いていかなければなりません」
ぼくは唇を噛みしめて頷いた。
「ウシよ、帰ってきたばかりで悪いが、明日にでも緒川城に出向き、イヌにことの次第を知らせ、暫くの間は尾張に戻ってくるではない、とわれの言葉を伝えてくれ。今は史実に立ち返らねばなるまい。二匹のイヌを一匹にしなければならないからな」
「畏まりました」
ぼくが六天魔王によってこの時代に送り込まれたのは、信長の予期せぬ死によってもたらされた時空の歪みを取り繕うためだ。この時代の時空は、まだ不安定で、もしかするとぼくの意思で動く世界と、史実の世界との、二重構造になっているのかもしれない。
ぼくは、今川義元のほかに時空とも戦わなければならないのか。
ぼくはその夜、悪夢を見た。
信長が抜刀してぼくに襲いかかってきたのだ。油断していたぼくは真っ二つに切り裂かれた。何度も何度も、切り裂かれた。ぼくは悲鳴を上げ続ける。信長の肉体は長い禁欲によって怒り狂っているのだ。
ぼくは、その夜は一睡もできなかった。
「昨夜は、酷くうなされていましたな」
朝食をとりながら帰蝶が言った。
「信長が、暴れまくったのだ」
「三か月も、ご無沙汰でしたからな」
「うん……」
「生駒屋敷に行って参りませ。奇妙丸と茶筅丸に会われてきてはいかがですか」
奇妙丸(信忠)は嫡男、二歳になる。茶筅丸(信雄)は次男、一歳である。
「そうするか」
ぼくは同意した。
「信定でございます」
廊下から声がした。
「入れ」
信定が襖を開けた。
「これより、緒川城に行って参ります」
ぼくは箸の手を休め、信定に視線を向けた。
「われは、これより、生駒屋敷に行って参る。イヌとハチに伝えてくれ。水野信元殿との話が整ったならば、われはすぐ出向くので、生駒屋敷に連絡せよ、と」
「畏まりました」
襖戸が静かに閉じられる。
「殿、秀貞、信盛にお会いになりますか」
気が進まぬが、会っておかねばなるまい。
「会おう」
「その前に、その顔をなんとかしなければなりません。顔が日焼けして真っ黒でございます。顔を白く塗り、口に覆面をなさいませ。殿は風邪を召されていることになっておりますゆえ」
「時々、咳をすればいいのであろう」
「はい」
帰蝶は微笑みを浮かべた。
ぼくが大広間に入って行くと、立膝姿の帰蝶が静かに頭を下げた。
その前方に二人の武将が控えている。林秀貞と、佐久間信盛である。
秀貞は村木砦攻撃の際、筆頭家老であるのにも拘わらず、兵を引いた人物である。しかも、弟信行との戦においても信行側に加わり、ぼくに反抗した人物である。
信盛は今や筆頭家老である。信行との戦いにおいては、ぼくに従い貢献した武将である。ただ、守山城攻撃の戦後処理、叔父信光の怪死事件においては、ぼくは不審を抱いている。とにもかくにも、腹に一物を持っている人物にしか思えない。
この二人、ぼくにとっては、心を開くことのできない要注意人物である。
ぼくは胡坐をかき、咳を一つした。
「お体、いかがですか」
信盛が訊いた。
「ああ、だいぶ良くなった。われに申したきことがあるそうだが、話すがよい」
「美濃の動きに、怪しげな気配がございます。もし、今川との戦になれば、それに乗じて戦を仕掛けてくるやもしれません」
「あそこには、犬山城があるではないか。信清はどうしておるのだ」
「殿、その信清殿が怪しいのでございます。斉藤側と密議を交わしておる、との知らせがあります」
「何か妙案はあるのか」
「今は、殿の頭に入れておいていただきたく、申し上げました」
「ウム……」
確かに的を得ている。だが解決策がないのが残念だ。
「他に、何かあるのか」
「今川との、ことでございます」今度は秀貞が言った。
「美濃とのこともございます。今川とは、和議を結んでおかれたほうが、よろしかろうと存じます」
「ウム……。それで、どうするのだ」
「鳴海城に使者をたて、山口教継殿に、今川側との仲介を申し入れるのが、如何かと」
何が今川側との和議だ。しかも、山口教継に仲介を頼むとは言語同断である。
ぼくは笑みを浮かべた。
「面白いではないか。その策、もっと詰めてみたらどうだ」
「はああ」
秀貞は今川側と通じているかもしれない。ここは慎重にいくべきだ。裏工作に、秀貞は利用できるかもしれない。
「これより、われは静養をかねて、生駒に行こうと思う。その際、信清に会ってこよう」
「ははあ」
二人は同時に頭を下げた。
「留守の間、清州を頼むぞ」
「ははあ」
二人は再び額を畳に擦りつけた。
ぼくと帰蝶は書院に戻った。藤吉郎が戻っていた。
「サルよ、これから、われは生駒屋敷に行く。供をせよ」
「畏まりました」
「チョウよ、喜八を頼むぞ。久しぶりに、影から解放してやれ。その代わり、今川との戦いに備え、体と心を鍛えてくれ」
「畏まりました」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます