第920話 執念

そう、ネッカはずっとクラスクのそばにいた。


攻撃を喰らえばちゃんと傷つく(ように見える)幻影を城壁の上に配置し、強力な魔導術でドルム正規軍を援護しながら、自らを魔族どもの標的として。

本体は姿を消してずっとクラスクのそばにおり、彼とグライフの目まぐるしく移り変わる戦場を必死に追いながら、じっと機会を窺い続けていたのだ。


ただこれは言うほど簡単な事ではない。

なぜなら彼女の見た目、出す音、放つ臭い……すなわち眼境きょう耳境にきょう鼻境びきょうは全て幻影の方へと移されているのである。


それは逆に言えば本体であるネッカは誰の目にも見えず、放つ音は誰にも聞こえず、漂う臭いすら誰一人気づかないということを意味している。

それはつまり、のとほぼ同義だ。


騎士達の馬による突撃。

魔術や妖術による範囲攻撃。

乱戦の中目まぐるしく変わる戦況。

そうしたものに巻き込まれ、うち倒され、そのまま馬蹄に踏み潰される危険すらある。


それも敵も味方もない。

魔族だろうと騎士だろうと冒険者だろうと彼女をとして扱う。

それはこと戦場に於いてはとてもとても危険な事だ。


さらにネッカはこれを遠隔にある己の幻像が本物であると魔族に誤解させたまま行わなければならぬ。

そのためには強い精神集中をしながら己の視覚や聴覚を幻影の方に移し、そちらから周囲を認識しつつ幻影を始点に魔術を行使しなければならぬ。


その時本体であるネッカ自身の視覚や聴覚は失われている。

眼も見えず、耳も聞こえず、血の臭いすら感じない。

そんな状態で戦場のただ中に立ち尽くしているわけだ。


それでは周囲の危険に気を配る事などできようはずもない。

いかにドワーフ族として戦士の心得があろうとて、簡単に周囲の攻撃に巻き込まれてしまうだろう。


そう述べると随分とリスクの高い呪文に思えるかもしれない。

ならば何故そんな呪文があるのかと疑問に思うかもしれない。


だがこの呪文はそもそも本来のがネッカの実行しているそれと違う。


ネッカが唱えたオリジナル呪文〈イアラーク・ファーサイズクブ〉。

その元となった〈投幻イヒューヲ・ファーサイズクブ〉は、そも戦場で唱えることなど考慮されていないのだ。


例えば魔導師が迷宮の最下層、そのさらに奥の隠し部屋にいたとしよう。


彼が〈投幻イヒューヲ・ファーサイズクブ〉の呪文を唱え己そのものといっていい幻像を生み出し、精神を集中させ視覚や聴覚をそちらに移す。

そして迷宮の内部を幻影のまま闊歩する……というのがこの呪文の本来の用途である。


そうすれば幻像に移した視覚や聴覚であたかも本人が迷宮を自由に歩いているかのように周囲を認識できる上、こんきょうも幻像側に移しているため術の起点が幻像の方に移る。

つまり移動しながら周囲を知覚し、判断し、魔術の行使も可能で、そのうえ幻影ゆえ相手の攻撃で一切傷つかず、それでいて幻影と疑われなければ本物としてしか認識されぬ、なんとも強大で厄介な存在が誕生するのだ。


無論魔術である以上魔力には限度があり、持続時間があり、射程距離がある。

ゆえに遠方まで幻影を送り出し無理無体をする事はできない。

けれど迷宮や己の塔などを有している魔導師がそこに引きこもり己の縄張りを守らんとする時、この呪文は幻影という領分を越えた危険な呪文に変貌する。


ただし欠点もある。

幻影を操っている間本人がほぼ無防備になってしまうのだ。


例えば盗賊などに隠し扉を発見され、侵入者検知用の罠を無効化され、こっそり隠し部屋に侵入されて、幻影を操り迷宮に挑んできた愚かな冒険者を前に己の幻像を不死身の魔導師かのように装って彼らをいたぶり悦に浸っている魔導師を背後から突き刺したとしよう。


瀕死の冒険者の前でその魔導師(の幻像)が突然『ぐえええええ!』と断末魔の絶叫を上げ、呆然としている彼らの前で倒れ、そのまま消えることになる。

視覚も聴覚も幻影の方に移しているのだからこれは当然のリスクと言えるだろう。


それをネッカは戦場のただ中で行ったのだ。


敵の攻撃に巻き込まれ、味方であるはずの者達の遠慮ない体当たりを喰らって。

ぶつかられ、切りつけられ、倒され、踏まれ、激しい痛みを受けながら悲鳴を押し殺し、石像を操作し続けた。


魔族達にバレぬよう。

怪しまれぬよう。

彼らの精神感応による報告が、グライフに届けられぬよう。


彼女の左半身は痛々しい程にひしゃげ、血塗れだ。

本来仲間であるはずの冒険者に肩からぶつかられ、吹き飛ばされ、地面に転がって、そこを巨大な魔族に踏まれたのだ。


けれど彼女はその呪文を解かなかった。

激痛で精神集中を乱し術の効果を失うようなことはなかったし。自ら術を解除して瀕死の己を守ろうともしなかった。


時間停止ベルクアイウォー〉によってクラスクを見失った時も、クラスクの思考を読み、グライフの目的を予測し、遠くの幻影を操作しながらよたよたと移り変わった戦場の先へと歩を進めた。



すべてはこのため。

『旧き死』を殺し滅ぼすため。



竜種も魔族も、ただ強いだけでなく高度な知性を有する存在だ。

そして高い知性を持つ相手は戦いながらも常に逃げ道を用意する。

その場での戦術的敗北を受け入れ、けれどその長い寿命で策謀を巡らせ対策を練り、己の敗北を一時の敗走へと低減させ、やがては己の勝利の中途で起きた路傍の石へと変えてしまう。


だが

クラスク市の要であるミエは人間族であり、その寿命は竜種や魔族どもより遥かに短い。

そしてクラスク市の太守クラスクはオーク族であり、彼の寿命は人間族ファネムであるミエよりさらに短い。


ゆえに、クラスク市の敵となる相手は決して逃がしてはならぬ。

倒せる好機があるならばその時点で討ち滅ぼさねばならぬ。

スペックのはるかに劣る人型生物フェインミューブだと相手が油断しているその初戦に於いて、必死に対策を練り対抗できている数少ない好機に、相手に逃げられ対策を取られる前に、


それがクラスクの考えであり、同時にネッカの行動方針でもある。


ネッカはドワーフ族である。

ドワーフは人見知りが激しく疑い深く容易に他種族を信用しない。

恩を忘れず義理堅く、だが同時に恨みを決して忘れず執念深い。


こうした負の側面を魔族などに利用され、ドワーフ族は幾度も邪にいざなわれ闇に堕ちたり、或いは故郷を竜に奪われ復讐に駆られ、幾度も挑み屍の山を築いたりしてきた。

そうした暗さは一見するとネッカには見出せない。

魔導の巧みな、思慮深い女性という側面ばかりが他者の目に映るだろう。


けれどそれでも彼女はドワーフ族である。

心に決めたことを実行する、断行しきるその意思の強さと行動力……彼女のは、紛れもなくドワーフ族のものだ。


かの赤竜イクスク・ヴェクヲクスを前に、幾度も危機に陥って、それどころか夫であるクラスクを一時的に喪ってすら、彼女は撤退のために〈転移ルケビガー〉の呪文を用いなかった。

それは赤竜が撤退し逃げ出すその瞬間、それを確実に阻止するために準備した呪文だったからだ、


彼女はと決めたら、迷わない。

敵がどんなに強かろうが、味方にどんな被害が出ようが。

そして……己にどんな負担がかかろうが、それを成し遂げるまで一切ブレることがない。



クラスクの『強さ』に力を与えるのがミエだとしたら、クラスクの『強さ』の根底を支えているのは間違いなく彼女の魔術とその強靭な意思なのだ。



それがこの一手。

高位魔族グライフの撤退を阻止する、ただそれだけのためだけに己の一切の気配をそこから消して、あらゆる被弾を、被害を、苦痛を、激痛をドワーフ族の強靭さと無類の意志の強さで耐え抜いて、その瞬間をひたすら待ち続けた。

クラスクが幾度も危機に陥り命を落としかけた時も、唇を噛みしめ血を噴き出して、己の膝を血が滲むほどに掴んで耐え抜いて。


魔族もかくやという精神感応魔術で周囲の魔導師達と連絡を取り合い、常識を超えたその作戦に大量の非難と抗議を受けながら説得し協力を取り付けて、遂には戦場で短い部類とはいえ儀式魔術を完遂し、今こうして『旧き死』グライフをこの地に繋ぎとめている。






クラスク市に、そしてクラスクに仇為す存在を、この地で仕留めるために。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る