第880話 最後の一手
「ハァ、ハァ……!」
外から聞こえる戦いの喧騒がとても小さく聞こえる。
戦いの趨勢が決まったからだろうか。
いや違う。
聞いている己の意識が遠のいていたからだ。
キャスはかぶりを振って目の前の戦いに集中する。
この街の襲撃者としては間違いなく最高位にして最強格。
魔族全体でも頂点に近い大幹部。
黒き竜の姿にも似た戦闘と殺戮のプロフェッショナルである。
『旧き死』と呼ばれる個体固有種グライフ・クィフィキの姿は、翼がないことを除けば
フォルムがやや横に太い
だからもしかしたら彼は
それを四つん這いで這うように避けたキャスは、そのまま上半身を起こし魔術で足元に風を集めながら一気に加速する。
あの鉄鎖を喰らえばたとえ死に至らなくとも眩暈と立ち眩みと止まらぬ出血でそのまま戦闘不能となってしまうだろう。
魔族得意の呪われた武器である。
喰らう事がイコールほぼ死と同義。
クラスクと違って決して打たれ強いわけではないキャスが決して受けてはならぬ攻撃なのだ。
キャスが横に回り込んだタイミングで、
〈
狙いはキャスではない。
祭壇の奥にいる天翼族とエルフ族の娘ども…イエタとサフィナである。
「お、お、お……っ?」
「大丈夫です、このくらいなら……!」
わたわたおろおろするサフィナの横でイエタが何かを唱え、両掌を前に突き出した。
学院の魔導師が唱えるそれに比べ遥かに太い電光が二人を襲うが、稲妻は二人の前で上下左右に拡散し、それでもなお貫かんとした幾条かの電流がイエタの突き出した両手の前で霧散した。
祭壇の周囲に張ってある結界が攻撃魔術の威力を減衰させ、残ったダメージをイエタが防いだのだ。
「ハァ、ハァ……お前の相手は……こちらだと言っているだろう!!」
ふぉん、と掻き消えるような速度で一気に速度を上げ、真横から
ぶわさ、と広げられた羽がキャスの視界を覆った。
その先端には鉤爪が付いており、羽に吹き飛ばれても爪に引き裂かれてもキャスに助かる目はなかろう。
ゆえに彼女は体勢を一気に低く、野生の豹のように四肢を溜めると、地面すれすれを四足獣のようにして駆け抜けさらに距離を縮めた。
直後に響く空を切り裂く音。
それが何かと考えるより早くキャスは床を蹴り横っ飛びに音をかわす。
次の瞬間彼女がいた場所を天より貫いたのは
羽で視界を塞ぎ、羽を喰らえばよし、それを避けても死角から尾の一撃を見舞う作戦だったのだ。
だがキャスの脅威の知覚力と戦闘勘の前にその必殺は不発に終わった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
キャスの手にした愛剣から鋭い斬撃が放たれた。
風の魔術で加速しての一撃は威力も格段に跳ね上がり、物理障壁越しにすら
速度を威力に変換し放った凄まじい威力の一撃。
接敵していれば死。
キャスは着地と同時に足を強引に動かしてその場から離れる。
だがキャスが距離を取るその目の前で、彼女が決死の覚悟でつけた傷が見る間に塞がっていった。
≪再生≫である。
これまでの攻撃もそうだった。
キャスが己の身体を無理矢理魔術で動かして大きな一撃を入れたとしても、瞬く間に再生されてしまいまともなダメージとして残らない。
今のところ
これらの傷に関しては彼の物理障壁を無効化する攻撃だったため≪再生≫が効いていないのだ。
だが今のキャスの剣は違う。
塗布することで一時的に剣に銀の属性を付与し、イエタがキャスの剣に付与した補助魔術も合わさって
だがこの方法は幾度も使えるわけではない。
武器に塗布した錬金術銀は数回斬り付ければすぐに気化して効果を失ってしまうし、元が小瓶でも普段から大量に持ち歩いているわけではない。
キャスとて今日魔族が襲撃してくるとまでは想定していなかったのだ。
それでも万が一を考えてそうした準備をしていたところが実に彼女らしいが。
ただいずれにせよこのままでは不味い。
キャスの攻撃がこれ以上の脅威にならぬとなれば彼はイエタの殺害を優先するだろう。
これまではまだ疑ってくれた。
だが今の一撃で物理障壁を貫通できなかったことで完全に見極めたはずだ。
もうこのエルフに気を使う価値はない。
最優先であの忌まわしい結界の向こうに引きこもっている
キャスから視線を切り、その太い脚を祭壇の方に向ける。
「そうは……行くか!!」
だがそれを許すキャスではない。
「〈
足元に巻き起こる風が一層強くなる。
床を強く蹴ったキャスは、背後から一気に
だがキャスはもう彼の興味の範疇ではない。
己を傷つけられぬ、傷つけてもすぐに塞がる程度の傷しかつけられぬ相手など魔族にとって気にする存在ではないからだ
キャスが全力で駆けながら、だが
背後から横、そして斜め前へ。
最短距離ではなく、ほんの少しその横をすり抜けて。
そしてすれ違いざまに彼女は懐から何かを取り出すと同時に
反射的に腕で払いのけた
瓶である。
液体の入った瓶である。
それが彼の振り払った腕によって景気よく割れて、中に入っていた液体が
「ッ!?」
その液体は銀色だった。
銀の液体が身体に付着し、そして先刻つけられた傷口に入った時鋭い痛みを伴った。
単なる銀色の液体ではない。
それは本物の銀だ。
彼を、上位魔族たる
錬金術銀……キャスはまだ持っていたのだ。
もし皮膚に付着したその液体を武器に塗布していれば、これまでの攻撃の内一、二撃は十分な量のダメージを与えることができたはず。
それが理解できるだけに
なぜ?
なぜだ?
なぜ持っていたなら今まで使わなかった?
遠隔に飛ばせる回復魔術は数少ない。
その上あの
実際キャスはこれまで幾度かイエタから遠隔の回復魔術を受けていたが、回復量よりも受けた傷の方がはるかに重く、満身創痍と言っても過言ではない状態である。
物理障壁を無効化する攻撃でない限り傷を≪再生≫させてしまう
これまでの戦いも知的で合理的、実に見事な腕前で、
だから己の取って来た戦術の不利が理解できぬ相手とは思えない。
ならばなぜ≪再生≫を阻害し得る、物理障壁を貫通できる素材を持っていてこれまで使わなかった?
いや違う。
気にすべきはそこではない。
気にするべきは……なぜそれを今になって使ったか、である。
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