第724話 次代の獣
「え……?」
「きゃんっ!」
エィレの目の前に、顔があった。
狼の顔である。
ただコルキほど巨大なものではない。
それこそ仔犬サイズの、コルキに比べれば小さな小さな狼の顔である。
まあこの世界にはそもそも仔犬自体が存在しないのだが。
「きゃんっ!」
「きゃんきゃんっ!」
「きゃんきゃんきゃんっ!」
「くぅんくぅん」
「え? ちょっとまって、なになになにー?!」
もこっ。
もこもこもこっ。
伏せたコルキの背中辺りから、次々と。
仔犬……もとい子狼が顔を出した。
どうやら背中の毛の中に隠れていたようだ。
「ちっこい! すごいちっこい!」
「わー、なにこれかわいい!」
「ほんと、ほんとにかわいい……!」
ふおおおおおおおおお……と娘三人が興奮する中、仔狼がもぞもぞとコルキの体毛をかき分けながら這い出てきて、そのままぼたぼたぼたと畑に落ちた。
柔らかな畑の土に落下した仔狼たちは、甲高い鳴き声を上げながらその上でもぞもぞと転げまわり、やがて伸びをして己の足で立ち上がる。
たちまち周囲から黄色い歓声が上がってエィレ達だけでなく休憩中の娘達が群れ集まってきた。
「やだ! かわいい!」
「初めて見たわあ!」
「あたしゃ前に一度みたことあるけどちょっと遠くからだったからねえ。こんな間近で見るのは初めてだよー」
きゃいきゃいと騒ぎながら仔狼の頭を撫でたり背中を撫でたり。
仔狼の方も構われるのが嬉しいのか甲高い鳴き声を上げながらその場でごろごろと転がって腹を見せ、腹を撫でられるとまた甘い鳴き声を上げた。
あまりの可愛さに黄色い悲鳴を上げる女性陣。
仔犬は可愛い。
いや仔犬だけでなく子猫だって可愛い。
ミエの世界の人間なら誰だって知っている事だ。
だがそれは彼らがペットとして人間社会に定着しているからこそである。
この世界では違う。
肉食獣は魔物になる危険が高く、経験則によってそれを知る
無論彼ら獣たちもまた神の創り給うた生物であり、わざわざ遠方に出向いてまで全ての肉食獣を絶滅させようとする輩はごく少数だけれど、少なくとも人里近くで見かけたら率先して狩り殺そうとする。
それがわかっているから彼らも人里には好んで近寄らない。
ゆえに
例外は獣の言葉を介する種族や職業の者達だけである。
彼らは獣に語り掛ける事であらかじめ
ゆえに…この世界の人間族にとっては初めてなのである。
獣の子供を目の当たりにすることも、そのあどけない可愛さを脳髄に叩きこまれてしまうのも。
「かわわわわわわわわ」
「うそやだどうしよう持って帰りたい」
エィレとシャルが正気を失ったように仔犬…もとい仔狼たちを撫でつける。
彼女たちの手の下で小さな小さな狼たちがころんころんと転がりながらその手にじゃれついていた。
二人は頬を真っ赤にしながら激しく興奮していた。
そのせいでヴィラだけが蚊帳の外にいる事に気づけなかった。
ヴィラは巨人族だがその感性やセンスは
それは彼女の天性によるものもあるのだろうが、彼女自身の努力によって培われたものだ。
ゆえに当然ながら彼女もその仔狼たちを可愛いと感じたし、愛らしいとも思った。
だが彼女は仔犬たちに触れない。
いや触ろうとしない。
彼女は巨人族であり、仔狼に対しサイズが大きすぎる。
その指先だけで彼らを簡単にぷちっと潰せてしまいかねない。
それが理解できてしまうがゆえに、ヴィラは狼たちを撫でる事ができぬ。
「う~~~、あ~~~」
呻き声を出して訴えるも誰も気づかない。
皆愛らしい仔狼たちに夢中なのだ。
遂に我慢できなくなったヴィラは、できる限りそっとそうっと指の一本を子狼の一匹に伸ばし……
「ぎゃんっ!」
そして、強くつつきすぎた。
悲鳴を上げる子狼。
その場が一瞬で静まり返る。
慌てて指をどけようとしたヴィラは……だがその指先に小さな痛みを感じた・
仔狼がヴィラの指先に噛みついたのだ。
「あ、う…っ」
急いで振り払わなければ。
でも思いっきり指を振れば子狼が吹き飛んでしまう。
集まる視線が、怖い。
自分が彼らと異なる種族なのだとまざまざと思い知らされる。
どうしよう。
どうしよう。
どうしたらいいの。
ヴィラは半泣きになりながら指先に噛みつきぶら下がる仔狼を持て余す。
「落ち着いてヴィラ!」
エィレが急いで声をかけた。
彼女は仔狼を可愛がるのに夢中でヴィラの様子がおかしかったことに気づけなかった己の不明を恥じた。
そして急いでヴィラの指先から仔狼の牙を外そうとする。
だがその仔狼は小さく唸り声を上げ、険しい目つきで己を攻撃した主…指先を睨めつけている。
彼らはどんなに愛らしくても犬ではない。
野生の狼なのだ。
(ど、どうしよう、もしかして魔物に…!?)
エィレは一瞬凄まじい緊張と恐怖を感じたが、すぐにかぶりを振った。
問題ない。
問題ないはずだ。
なぜならヴィラは
神々が己の似姿として生み出した
神の加護を失うこともないはずだ。
だがだからといって今の事態が改善するわけでもない。
仔狼は低く唸りながらヴィラの指に噛みついたままだ。
一体、一体どうすれば……
…と、その時。
「え……?」
その仔狼の首根っこをはむ、と咥えた別の狼が、噛みどころのせいなのか仔狼の口を簡単に開けさせてヴィラの指から離すと、そのまま地面に放り落とした。
「きゃんっ!?」
そして次の瞬間、コルキの前脚がその噛みついた仔狼をむんずと踏んづける。
痛みのあまり悲鳴を上げる仔狼。
一瞬の出来事にぎょっとして目を丸くする娘達。
勿論エィレも驚いた……が、すぐに察した。
この踏み方は本気ではない。
コルキが本気で体重を乗せたら喩え畑の土の上だろうと簡単に仔狼など平らかにプレスされてしまうだろう。
だからこれはあくまで手加減した一撃…ただししっかりと痛みは与えている。
(あ………)
ならばこれは教育だ。
これは簡単なようでいて存外難しい。
例えば仔犬が粗相をした時…トイレの場所を間違えたとか、帰ってきたら戸棚を引っ掻き回していたとか、そういう時に人間が叱ってもあまり効果がなかったりする。
なぜなら彼らが不始末をしでかしてから人間が気づいて叱るまでにタイムラグがてきてしまうからだ。
そうなると仔犬側には主人の叱責の理由がわからない。
怒られていること自体は理解できるし縮こまりもするけれど、時間が経ちすぎていた場合自分のどの行為に対しての怒りなのか紐づけられないのである。
けれどコルキのそれは違う。
しでかした瞬間に即叱っている。
それも同じ狼なのだからちゃんと言葉も通じている。
つまり何がよくて何が駄目なのかを的確に教育できているわけだ。
こうして幼いうちからしっかりと教育を受けていれば、彼らはそうそう道を踏み外すまい。
それはつまり狼がペット化する算段がついた、ということであり、もしかしたらここからこの世界初めての『犬』が生まれてくるかもしれないという事だ。
ただエィレがいかに賢かろうと彼女には『人間族の隣人たる犬』という概念自体がないため流石にそこまでは気づき得ない。
彼女にわかるのはあくまで同じ狼同士であれば適切なタイミングで躾が行えるであろうというところまでだ。
「くぅ~~ん」
「あらこんにちわ。ええっとあなたは……?」
己の前までやって来て鼻を鳴らす狼にエィレは興味深そうに微笑んだ。
先ほどヴィラの指に噛みついた仔狼を咥え、引き剥がした狼である。
仔狼ではない。
明らかな成狼である。
だがコルキほどに大きくはない。
体長はだいたい4フース(約120cm)に満たないほど。
唸り声などを上げておらず、大人しそうな印象を受ける。
尻尾をさかんに振っているが、それが何を意味するのかはエィレにはわからなかった。
その狼はしばらくエィレの前に留まっていたがやがて尻尾を振りながらコルキと隣に並び、その身体をコルキに擦り付け甘い鳴き声を上げた。
コルキもまた目を細め、その狼の背中のをそっと舐め毛づくろいをする。
「あ、もしかして…」
エィレはハッとしてラルゥの方に顔を向けた。
「ええ。コルキちゃんのつがいのようです」
「へえ……!」
つまり今畑仕事をしていた娘達にじゃれついている仔狼たちは、皆彼女が産んだもの、ということだろうか。
「あれ? ってことは大きさ的に普通の狼……?」
だいぶサイズに差があるけれど、コルキは普通の狼とつがって狼の子を産んだ、ということだろうか。
だとするならコルキはただの狼ということになるが……
「……あれ?」
何か気づいてはいけないことに気づいたような気がする。
エィレはぶんぶんと首を振ってラルゥへの取材を続ける事にした。
まあエィレが気づいていないだけで、その仔狼たちはただの狼ではないのだけれど、それはまた別の話。
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