第641話 書店

大使館街を飛び出したエィレはぽんぽんと掌で己の装備を確認する。


肩にかけるバッグがひとつ。

そのバッグの中に畳まれたショルダーバッグがもうふたつ。

なかなかに大がかりな準備である。


これは彼女がつい先日侵した痛恨のミスの反省からきていた。


その日エィレは街の北の物見遊山…もとい調査に向かっていた。

そしてそこで信じられないものを目にしてしまったのだ。


「本! 本が売ってる! 本が売ってるお店!?」


そう、エィレが目をまん丸く見開いて驚愕したのはだった。


何を大袈裟な…と思うかもしれないが、これまでのこの世界の書物は複写が基本の一点物であり、その全てが一冊一冊手作りであるということを念頭に置かねばならない。

当然ながら一冊まるまる複写するには膨大な時間と手間がかかり、その手間賃の分どうしたって値段は高くならざるを得ない。

そして貴重なものなのだから紙も上質となり、王侯貴族に売りつけるために装丁も上品なものが選ばれ、結果として本は非常に高価なものとして流通していたのである。


そんな貴重な書物ゆえ、旅の商人…それも王族や貴族を相手にするような富商などが馬車の中に数冊から多くて十冊程度用意しているのがせいぜいであり、それでも貴族どもが争うように買い漁る。

だからといって儲けを大きくするために装丁に手を抜いたり複写する人材をケチり誤字を増やせば商人としてなにより大切な信用を失ってしまう。


魔導術の中には書物の内容をまるごと転写するような呪文があり、彼らに頼めばそうした複写の手間をほぼ無視する事ができる。

だが己の研究のために金貨一枚でも金が欲しい魔導師にそうした仕事を依頼するという事は当然高値を吹っかけられると同義であり、これまた書物の値段を下げる突破口にはなり得ない。


となれば当然の帰結としてこの世界の書物は『高価』かつ『少数』出回るのみの存在とならざるを得ない。

だから書物を集めた店など出せようはずがない。

そも発想自体が浮かぶまい。


もしそんなものを他国で開こうものならたちまち盗難と窃盗と強盗と万引きが溢れ返り、瞬く間に潰れてしまうことだろう。


だがクラスク市の場合いささか事情が違う。

活版印刷の導入によって紙質と印刷の質は下がった反面同じ内容の本が大量に作れるようになった。

これに加えて郵便制度による手紙の流行と義務教育による識字率の向上、さらに賃金労働制により自由に使用できる金銭が各家庭にあるという状況から本の人気が一気に爆発。

工場で印刷するそばから売り切れる異例の事態となってしまったのだ。


そこでミエがアイデアを出し、本を専門で売る店…『書店』が誕生した、というわけである。

まあ彼女にとっては『本ならば本屋』は当たり前の発想の部類だったのだろうが、それを最初に聞いた街の重鎮どもはさぞや驚いたことだろう。


ただミエとしてはあまり深く考えずに出した意見だったのだが、この世界でそれを実現させるには結構ハードルが高い。

大量生産できるために単価が下がり、結果として盗難などのリスクが減ったクラスク市だからこそ可能な業態と言えるだろう。


「なんて言ったっけ。確か書店ディークツィロ…ホニャザーン?」


エィレの読みは誤っている。

そのように読むこともできるが、命名主として読んで欲しい発音はこうだ。



書店『ホンヤサーン』。



少し頭を抱えるレベルの命名だが、これには深い…いやあまり深くはないがわけがある。

当初ミエが円卓会議にて書店に関する発案を行った際シャミルやアーリが激しく食いついた。

とんでもなく素晴らしいアイデアだと思ったからである。


この時ミエが迂闊に


「いやー、前々から欲しかったんですよねー。!」


なんぞとつい母国語で口走ってしまったため、それがその店の店名だと誤解されてしまったのだ。

この世界には『本屋さん』という概念自体がなく、その部分だけ母国語にならざるを得なかったミエのうっかりと言えるだろう。


慌てて否定するももう遅い。

賛成多数で店名が決定され、この世界初の書店の名は『ホンヤサン』に決定されてしまった。


シャミル的にもお気に入りの店の名だったようだ。

なにやら語感が書物を扱う店っぽく感じたかららしい。

まあその感覚自体は何も間違っていないのだが…


ともあれエィレは初めて書店を発見した日、興奮のあまりその店に飛び込んで夢中になって書物を物色した。

そしてどうしてもどうしても(そしてどうしても!)欲しいという本を吟味に吟味を重ねてなんとか五冊まで絞り、さらに買ったはいいが手持ちの小さなショルダーバッグに全部しまう事ができず、結果両手で抱えてえっちらおっちら大使館まで運ぶ羽目となってしまったのである。


なにせ書店があるのは印刷所のほど近く、すなわち北の下街である北クラスク工業地帯だ。

一方で彼女の暮らしているのは南クラスクの大使館街、街の北の端と南の端である。

その距離を重い書物を抱えて歩くのは結構な難儀であり、彼女の両腕にこの街の大きさを改めて知らしめた。


そして…その反省を踏まえて彼女は荷袋を多めに用意する事となったわけだ。


「よーし、まずは何を調べるべきかなー」


メモ帳…この街で売っていたもので、安紙を束ねて色々メモできるようになっていてさらに紐で繋がれた筆記具までついていてとても便利な代物だ…を取り出しこの街の住人達から聞いた様々な話を読み返す。


知りたいものは色々あるけれど、目下気になるのは中央の噴水の真ん中にあるあの美しい女神像の作者、イズカルクの正体だろうか。

何せ街の者に聞いてもその工房の場所が判然としないのだ。

なんともそそる調査対象ではないか。


「えーっと他には…と」


ぺらぺら、とメモ帳をめくる。

たった数日なのにかなりびっしり書き込まれたそれは、彼女がかなり丹念に街を廻ったであろうことを物語っている。


それが彼女の外交官としての使命ゆえなのか、それとも純然たる好奇心からくるものなのかは判然としないけれど。


「あ、あったあったこれこれ。謎の歌声! これも気になるなー」


最近この街ではうっとりする程美しい声音の歌声がどこからともなく聞こえてくることがあるという。

毎日というわけではなく、また時刻も一定していないけれど、大体において夕刻頃、というのは共通している。


「よーし、じゃああの彫刻家の工房を探しながら街中を探索! で夕方になったら門が閉じる前に謎の歌姫を捜索! そんなところかな!」


…正直あまり外交官として必要な調査とも思えないけれど、今の彼女を止めるすべはない。

彼女は肩にかけられたバッグの持ち手をかけ直し、ぱたぱたと駆けだした。


その進路は北。

当座の目的地は中央の噴水である・


「…それにしても水路が多いよね、この街」


街のあちこちに水路が走っていて、小さなせせらぎが流れ見る者を愉しませている。

取水口を確かめたけれど、主に上街と中街の周囲の堀から取られているようだ。


おそらくこの街は上街という中心部がまず先にあってその周囲に掘りが引かれ、その後中街と呼ばれる部分まで街が広がってそこにこれまで外堀だった場所から水が引かれ、中街の外側の城壁の周囲に掘りが引かれる。

そこからさらに下街ができることでその中街の周囲の堀から下街へ水が引かれるようになって…といった流れなのだろう。


この街は現在上水道と下水道の敷設及び利用工事を行っているけれど、以前ミエから聞いた話では完全に水道が利用可能となっているのは上街の居館と下街の大使館街のみで、それ以外は上街の住居から順次導入中だという話だった。


とするならそれ以外の地域では未だにこの水を生活用水に使っているのだろうか。


「その割には用水路を汲み上げてる人全然いないような…ああ!」


エィレは街の一角にそれを見つけすぐにその理由に気づいた。

水道である。


広場などに設置された公共の蛇口から水を入れ、そのバケツなどを家に持ち帰っているのだ。

各家庭への普及はまだ先だけれど、水道管自体は既に各地に伸びているという事だろう。




こうして彼女が見ている間にも進んでいる、発展しているこの街を、エィレは感嘆を以て見直した。




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