第十三章 エィレの大冒険

第640話 クラスク市の一日

がば、とベッドから飛び起きたエィレはその脚で即風呂場へと向かった。

脱衣所で手早く衣服を脱ぎ棄て全裸になると手にした蓄熱池を壁の穴にはめ込み温度を調節、シャワー口から身を避けて蛇口をひねる。

構造上出てくる水がすぐには温まらないからだ。


少し待って十分温水になったことを確認したエィレは、その中にえいやっと飛び込み全身でシャワーを堪能する。


心地いい。

とても気持ちいい。


こんな素敵なものを今まで知らなかったなんて信じられない。

この街に外交官として駐在を初めてまだほんの数日だというのに、彼女はもう温水シャワーなしの生活なんて考えられなかった。


というか、その理屈だと私もう王都に戻れないんじゃ?

などといらぬことを考え不安を覚えてしまう。


どうにかして自国でもこれを実現できないものかと水道の仕組みを頑張って理解してみたけれど、要するにこれはである。

いざ実現しようとしたら街の構造そのものを変える必要がある。

となれば相当面倒な政治的駆け引きと予算の捻出をしないといけない。


無論上水道と下水道を導入すれば伝染病や疫病の蔓延頻度などが大幅に減るだろうし、そうなれば治療のための教会への寄付金も減るし、王都では常識となっているの数が減ればその分生産性も上がり、最終的には投資分を大幅に上回るプラスになるはずだ。

だがそれを大臣たちに納得させることは難しい。

この世界の殆どの人は『衛生』の概念をそもそも理解できていないからだ。


「さて、と…」


きゅ、と蛇口を締めてシャワーを止める。

これまた便利でいい。


エィレはそのまま蓄熱池を壁から外すと浴室から出た。

どうやら彼女は朝には浴槽に浸からぬ派のようだ。


手早く体を拭いて服を着た彼女は蓄熱池を応接間の箱にしまって鍵をかけそのまま大使館から飛び出してゆく。

早朝だが既に大使館街の正門…『大使館門』と呼ぶらしい…は開いている時間のはずだ。

街に繰り出すのも簡単だろう。


エィレは大使館門で門番に首に下げた身分証を見せ、軽く魔術的なチェックを受けるとそのまま外に小走りで駆けてゆく。

南外大門は既に開かれていて、次々に馬車が飛び込んでくる。

もしかしたら中には街の外、門の前で夜を明かした馬車もあったのかもしれない。


そうした開門待ちの連中のために門外には現在食事や寝泊まりする場所を勝手に建てて生計を立てている者達もいるようだ。

いずれはそこにも集落ができ。やがてこの街に吸収されてゆくのだろう。


だが彼女の目的地はそちらではない。

この辺りの食堂が開くのは人通りが増えるもう少し後だ。

むしろこの時間、彼らは仕入れと仕込みに忙しいはず。


つまり…


「おっはようございまーす!」

「おはよう! 今日も元気な挨拶で大変結構!」


南中大門を抜けて中街へ。

そのまま初日に通り過ぎた朝市へとやってきた。


彼女の知る王都の朝市は公園などで布を敷いたいわゆる露店のそれだったが、ここの朝市は大きな建物の中で行われる屋内市場である。

設備投資こそ必要だが雨露をしのげるというのはかなり大きい。


市場の中は当然の如く喧騒に包まれていた。

なにせこの街は飲食店が多い。

王都育ちのエィレがびっくりするほど多い。

クラスク市は食の街でもあるのだ。


それはとても重要な事。

そうエィレは感じた。


なぜなら飲食店が多いという事はそれだけ外食の需要があるということだ。

つまりこの街には地元の人間以外の客層…観光客が多いのである。


多くの観光客が訪れるから外食の機会が増える。

外食の需要が高まればそれだけ供給…すなわち食事をする飲食店が増える。


これは第二の要素である隊商についても同じことだ。

ここは王国南西部にある交通の要衝であり、多くの隊商が行きかっている。

そしてこの近在には(オークのせいで)クラスク市以外に街がなく、ここを中継点として寝泊まりする者も多い。


さらにはここの市場(エィレが足を踏み入れているここがまさにそうだ)で商品を仕入れたりもする。

そんな彼らが観光客同様この街で食事を摂るのは実に自然な事だろう。


そして第三の需要…それは街の住人そのものだ。

まず周囲にある広大な農地から多種多様な食料品が大量に入って来る。

今エィレの周りで売り買いされている野菜などがそれである。


街で収穫した材料を用いるのだから当然安く上がる。

さらに食堂が増えたことで価格競争が勃発し、食事の値段がより安価になった。

手頃な値段で食事できるようになったことで街の住人達にも気軽に利用するようになり、利用客が増えたことにより店側はよりリーズナブルな価格で提供できるようになる。

まさに正のスパイラルである。


だがこの話の肝はそこではない。

重要なのは庶民が、という点である。


この街の主な仕事先は街の周囲に広がる広大な農地だ。

その農地で働いた者は作物でなく給金をもらえる。

以前にも述べたが、彼らは農民から賃金労働者への変化したのだ。


賃金労働なのだから収穫期でなくとも常に金がある。

金があるのだから街で金を使い、外食をし、様々な物を購入する。

そして彼らが金を使うことが需要の増大につながり、経済が廻る。

実に考えられたシステムではないか。


「おじさんこれとこれとこれ!」

「ヘイ毎度!」


市場でほしいもの物色し、自前のバッグに仕舞って駆け足で帰宅する。

…大使館邸に帰宅というのも妙な話だが。


そして蓄熱池で熱コンロに火を入れ、フライパンに油を引いて買ってきたばかりの卵を割って落とす。

目玉焼きである。


それを二つ作りつつ合間に野菜を刻み、次々に皿に乗せ、二つ目の目玉焼きが完成すると同時にさっとよそって食堂へ。

最後にパンと牛乳をテーブルの上に並べて完成である。


「じいや! じいや! 準備できたわよ! 朝餉にしましょ!」

「おお姫様…!」


どうしても自分で食事が作りたいという彼女の熱意に負けエィレに任せてみたのがほんの数日前。

最初は壊滅的な出来だったというのにたった数日で見違えるほどに上達した。

じいやは感動のあまり思わず涙をぬぐう。


「ちょっと大げさね。早く食べましょ」

「ええ、ええ、もちろんですとも!」


二人で席について朝食を取る。

パンにバターを塗って、薄く切ったチーズをのせて、さらにその上に目玉焼きを乗せて、最後にさっとこの街の調味料だという『ショーユ』を数滴かけ、そのままかじる。


街で造られたバターとチーズ、さっきできたてのパン、産みたての卵。

たったこれだけで驚くほどに美味しい。

エィレは感動のあまりその身をぶるりと震わせた。


「今度はスープも作りたいなー」


確かに素晴らしく美味しいけれど、今回彼女が調理をした、というのはほぼ目玉焼きくらいで、後はほとんど素材の美味さである。

次に手間をかけるならベーコンかスープかな…などと考えながらパンを噛み千切った。


城でこんな食事をしたらは王族の身でしたないと怒られるかもしれないけれど、ここは窮屈なお城ではない。

エィレはこの数日でまるでくびきから解き放たれたかのように生き生きとしていた。


まあこの街での毎日がお忍びで城を抜け出したお転婆そのもののような生活なのだから当たり前といえば当たり前かもしれないが。


「姫様。本日の御予定は」

「当然、外交官としての視察任務よ!」

「承知いたしました」


じいやがぺこりと頭を下げる。

そう、外交の重責を担うためには相手の国…いやこの場合は街か…についてしっかりと知り、学んでいなければならぬ。

そのためにはここがどういう街か自分の目で、足で確かめなければ。


「それじゃあいってきます!」


そんなことを言い訳に…エィレは今日も今日とて街へと飛び出してゆく。






……洗い物を、しっかり片づけた後で。






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