第532話 馬車に揺られて
「いやーいい仕事させていただきました!」
会心の笑顔で伸びをするミエ。
隣で嬉しそうに拍手するイエタ。
二人は今馬車に揺られて花のクラスク村…かつてのオークの集落に向かっていた。
客は二人だけであり、馬車の中は広々としている。
と言っても街から村への観光が減っているというわけではない。
むしろ二人が乗っている馬車の前後にも馬車が走っているし、そのいずれもが満席ですらある。
この構成は単に街の重要人物であるミエとイエタを守らんとする衛兵の機転と説得によるものだ。
二人の馬車の横には馬に乗った男が並走していた。
急ぎ私服に着替えた衛兵の一人、ゴェドゥフである。
ものものしい雰囲気にならぬよう気を利かせたのだろう。
「いやーゴェドゥフさんも大袈裟ですねえ。馬車なんていっつも利用してるのに」
などとミエは軽く言うけれどそれは少々現在の己の価値を測り間違えている。
なにせ彼女ら二人は外から見れば赤竜退治のパーティの一員なのだ。
当然ながら皆かの赤竜をいかに討伐したのか興味津々で、ことに観光目的の旅の者ともなれば是が非でも聞き出したいところだろう。
なにせ物語でしか耳にすることのないレベルの英雄が目の前に生身でいるのである。
もし普通の乗合馬車などに乗ったらそれこそ馬車が倒れかねないレベルで質問攻めにあうこと請け合いである。
だがイエタはクラスクらが大活躍する後方で些少の奇跡の御業で支援していたとしか思っていないし、ミエに至っては壁際で声を張り上げて応援していた意識しかない(そして彼女の自己認識に於いてこれは完全に正しい)。
無論赤竜が倒れるまでにはそれこそあの場にいた全員の力が必須だったのだけれど、どうにもこの二人はそのあたりの認識が希薄なようである。
「あ、イエタさんはすいません私につきあわせちゃって」
「いえ大丈夫です。ゆくゆくはこういうものにも慣れてゆかなくてはなりませんし」
ミエが謝ったのは馬車の件だ。
なにせ普段のイエタであればわざわざ南門に向かって乗合馬車に乗る必要はない。
教会を出てすぐ脇の西門から下町を抜け、城壁の外に出てから羽を広げてそのまま南の森までひとっ飛びすればいいだけなのだから。
より正確に言えば本来はそこまでする必要すらない。
彼女はクラスク市に於いて現状唯一市内での飛行が許されている
ただイエタ自身は滅多に街中で羽を広げることはなかった。
無論街はずれなどの遠い場所に動かせぬ怪我人がおり、一刻を争うような場合であればその限りではないけれど、普段は可能な限り目的地には徒歩で向かう。
イエタに与えられたのはいわば彼女にのみ許された『特権』だ。
そしてイエタはそうした特権を己の利便性のために活用するのをあまり好まぬ娘なのである。
ともあれイエタは一人での移動であれば馬車は使わない。
空を飛ぶよりだいぶ遅いし、そもそも揺れが酷い。
空気圧式のゴムタイヤではなく金属製の車輪だし、街道もアスファルトによる舗装ではなく単なる石ころ混じりの剥き出しの地面である。
まあそれでも街道部分だけは草が抜かれているし、大きな岩はどかされているだけだいぶマシな部類だ。
なにせこの世界、この時代に於いて『馬車が通れる』というだけでも大きなアドバンテージなのだから。
だがいかに他よりマシと言われようが揺れるものは揺れる。
そしてイエタはその揺れが少々…いやだいぶ苦手であった。
不規則な揺れに一向に慣れる事ができず、時に悪酔いまでしてしまう。
ミエが謝っているのはそのためだ。
「大丈夫です。話をしていれば気は紛れますから…」
「そうですか? 気分が悪くなったらすぐに言ってくださいね。馬車止めてもらいますから」
「お心遣い感謝いたします、ミエ様」
にこ、と微笑みながらも顔色はやや青白く、肌がじっとりと汗ばんでいる。
口に出さないだけで少々無理をしているのかもしれない。
「ミエ様は平気なのですか?」
「うーん…平気って言うか…割と好きかもですね」
「ええ……?」
信じられない、といった表情でイエタがミエを見つめる。
無論ミエとてガタガタと激しく揺れる事には辟易しなくもない。
だが馬車に乗っている時、彼女にはそれ以上に強い感情によって包まれているのだ。
喜び、である。
かつて病弱で実家より病院暮らしの方が長かったミエ。
当時車と言えば病院から自宅、或いは学校、時にショッピングに出かける程度しか利用したことがなかったけれど、病床にいて動かぬ窓の向こうの景色ばかり見ていた彼女には、車窓から眺める流れるような景色はとても新鮮で、いつも窓に張り付いては興奮していたものだった。
彼女が車に乗った記憶の多くは父の運転によるものだ。
まあたまに発作を起こした時などに救急車を利用したこともあったけれど。
ただいずれにせよその頃の彼女が車両に乗り込む際は両親や看護師さんなどに介護してもらう必要があった。
そんな彼女にとって、自らの健康な体で、自らの足で馬車に乗り込み、好きなだけ外の景色を眺める事ができる、というのはそれだけでもう大きな喜びであり、大概のことは許容できてしまうのである。
「ミエ様はすごいですね…」
「いえそんな。ただこうして家族と一緒に車に乗るのっていいなって、それだけです。ずっと……夢でしたから」
その口調は年の割にはどこか達観していて、イエタは思わずまじまじとミエを見直してしまう。
だがイエタの方に顔を向けたミエはもういつもの彼女で、先ほどのような気配はまるで感じられなかった。
「あ、果樹園まで来ましたよ。もう歩きましょうか。御者さーん、すいませーん!」
森が開け果樹園に辿り着いたあたりで馬車を降り、散歩がてらわが家へと向かう二人。
とは言ってもイエタにとってはつい先日我が家となったばかりである。
まだまだこの村に不慣れなところは否めまい。
そのあたりの事情もあって、ミエの方から彼女を誘ったわけだ。
「わあ! お花畑が鮮烈ですねえ!」
「すごい真っ赤ですね…奇麗…」
花畑に広がっているのは一面の紅蓮。
燃え立つような赤い花。
それは字の如く
以前は多様な花が植えられ色とりどりの美しさで訪れるものを楽しませていたが、今はそのほとんどが火輪草となり、まるで深紅の絨毯のようになっていた
観光客たちもその光景に目を丸くして、赤い花のカーペットの上を花を踏まないように気を付けながら楽しげに散策している。
「うーん奇麗なのはいいんですけどすぐに抜かれちゃうのがなあ」
「そうですね…この光景を見られるのもあと数日でしょうか」
二人が言っているのはこの花の行く末の話である。
花畑が一面紅くなったのは単に景観の問題などではなく、実に切実な事情がある。
この街で新たに売りに出された冷蔵庫……その重要なパーツである蓄熱池の素材として大量に火輪草が必要なのだ。
その生産工場としてここの花畑が一時的に利用されているのである。
本来であればここの花畑は観光用に利用され、そうした商業上のものとは区別されていた。
蓄熱池の材料としての花畑は北の開拓村で栽培される予定だったのだ。
だがそこに例の赤竜の襲撃が痛手を与えた。
北の村が全て焼かれ、その際花畑も幾つも焼かれてしまったんだ。
いつ竜の再襲撃があるかわからなかったから花畑はすぐに復旧できない。
だが冷蔵庫の需要自体は逼迫している。
そこで仕方なく赤竜討伐の準備を進めつつこちらの花畑の植え替えをしていたのだ。
「次に育てるときはもっと色とりどりの花を植えたいですねえ」
「はい! 今から楽しみです!」
そんな会話を交わしながら二人は村の中へと消えてゆく。
村ではすっかり商業的な見世物として、蜂蜜採取の実演が行われていた。
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