第509話 偽りの炎
少しずつ、少しずつその身体を傷つけられ、或いは竜鱗の上から削られてゆく。
鱗に十分な年輪を刻み、この地方の頂点に至ってからのち、これほどに手傷を負うのは彼にとって初めての経験であった。
だがこの時点の赤竜イクスク・ヴェクヲクスには未だ十分な余裕があった。
いつでも侵入者どもを殲滅できるとたかを括っていたのだ。
「
竜語でそう呟いた彼は軽く右の鉤爪を上げ、無造作に魔術の詠唱に入る。
通常魔導師は呪文を唱える際万全の準備をする。
高い集中力を必要とする呪文詠唱は強い苦痛などによって集中が乱されてしまえば簡単に
冒険などに於いて術師が常に戦士と組んでいるのは詠唱中の彼らの身を守ってもらう意味もあるのである。
だが竜にはそれが必要ない。
物理障壁と硬い竜鱗と膨大な体力のお陰で、いかな攻撃を受けても彼らの詠唱を中断させることができないからだ。
そしてそれは魔術戦に於いて圧倒的優位に働く。
「
「ッ!!」
詠唱の長さからすぐにネッカは察した。
それは己が詠唱できる限界を超えた呪文であると。
対抗魔術を使おうにも同一の呪文を詠唱して完全な打ち消しをすることはできぬ。
ネッカはその呪文を唱える域まで達していないし、そもそもその呪文自体を修得していないのだから。
対立属性の呪文で上書きすることもできぬ。
元の呪文ですら実力不足で詠唱できないのにそれを上回る位階の属性呪文など唱えられるはずもない。
そもそも相手が今唱えているのは定命の者に扱える最上位の呪文である。
それを上回る位階の呪文など存在しないのだ。
ならば〈解呪〉するか?
だが〈解呪〉を〈解呪〉するのと違ってそれには失敗のリスクが付きまとう。
もし打ち消しに失敗すれば相手の呪文が十全に効果を発揮してしまう。
そうなると味方が全滅しかねない。
だが他に方法がないのなら。
それしかないのなら。
(…違うでふ)
本当か?
本当にそうか?
失敗のリスクを抱えて博打を打つことしか、本当に
(違うでふ!)
ネッカは素早く左手を横に突き出し指を折った。
イエタとミエに向けたハンドサインである。
と同時に右手の杖を強く握りしめ、相手の詠唱に合わせて素早く呪文を詠唱した。
「
一瞬逡巡したネッカの詠唱の遅さをあざ笑うように、赤竜が己の鉤爪を振り下ろし、絶対の死と破壊をもたらす呪文を解き放った。
「〈
決戦の繰り広げられている火山の火口の底の底…
その上には火山の山頂と巨大な火口があり、さらにその上には暗雲立ち込める夜空が広がっている。
突如その雲海を突き破って六つの光が落ちてきた。
天より飛来する流星だ。
そしてそれら六つの赤熱する光弾は、狙い過たず火山の火口へと吸い込まれてゆく。
そう、その赤竜はあろうことか天空より隕石を召喚したのである。
たった一つで絶対防衛線たる大国の城塞の壁を容易く破壊し、街の一区画を容易く壊滅させる。
そんな破壊の槌たる流星を幾つも呼び出して叩きつける、まさに攻撃魔術の究極と言っていい呪文だ。
強い軍事力を持たぬエーランドラ魔法王国に対し軍事国家たるバクラダ王国が侵攻しないのも、この呪文を唱えられる魔導師を擁しているからだとすら噂される程の、まさに国家の存亡を左右しかねない域の魔術なのである。
「
ミエのオーク語の叫び。
あらかじめ示し合わせていたネッカのハンドサインからすぐにミエが全員に指示を出す。
そして隕石が火山の火口から降り注ぐその一瞬、ネッカはくわと目を見開き己の呪文を解放し、その杖で地面を打った。
「〈ユィロナグフ・イックィニック〉!!」
杖の先端から光が迸り、彼女の前方に光の魔法円が描かれる。
ただ何も起こらない。
魔法円の上に何が呼び出されるでもなく、何かが迸るでもない。
ただ……その上空、彼らの頭上で、隕石が宙に止まっている。
ネッカが唱えた呪文は何かを呼び出す呪文でもなければ何かを放つ呪文でもない。
ただ目の前の空間の重力を逆転させたののみだ。
今彼女の目の前…ネッカと赤竜の間の空間は、重力が下から上に向かって働いている。
そしてそこに落下し着弾するはずの隕石は、反転する重力によって急ブレーキがかかり、火口底に着弾せず、上方向に落ちようとしているのだ。
そう、これがネッカの選択した呪文。
『対抗魔術』ではないが『対抗できる呪文』。
彼女の唱え得る最大呪文のひとつ、〈
〈
とはいえその効果時間はとても短い。
せいぜいもって数秒と言ったところだろうか。
ゆえにその使い方は限定的で、例えば屋内や迷宮などで相手を天井に『落下』させ叩きつけ、そのまま呪文が切れて普通に地面に『再落下』させてさらにダメージを与える、などの使い方が主となる。
ただ〈
熱の方は≪竜の吐息≫対策で付与された〈
隕石六つ分の衝撃波などこの逃げ場のない火山の火口で喰らえばひとたまりもないだろう。
けれどその逃げ場のない火山の火口であることこそがネッカの突破口だった。
隕石の衝撃波ら落下地点から周囲に広がる。
つまり端に落とすより中心部に落とした方がいい。
そして赤竜が自らの上にそれを降らせることはないだろう。
魔術障壁で防げるのはあくまで呪文であって、呼び出した隕石自体は単なる巨大質量に過ぎぬ。
それをまともに食らえば竜といえども無傷ではすむまい。
となれば最も効果的に落とすなら赤竜の前方に集中して落とすしかない。
落下地点がわかっているなら…その場の重力を一瞬だけ反転させ隕石の落下方向を変えてしまえばいい。
無論先述の通りネッカの呪文の効果時間は短く、隕石は再び落ちてくる。
だがそれは天空より飛来した超高速超重力の破壊の塊ではない。
ほんの30ウィールブ(約27m)の高さから落ちてきた、ただの熱い岩の塊である。
「うおっ!?」
「これは……!」
どしん、どしんと地響きを上げて落ちてくる岩の塊。
クラスクとキャスは驚きながらもおそらくより甚大な被害をもたらしかねない何かをネッカがここまでの被害に抑えてくれたのだと察し、再び戦場へと飛び込んでゆく。
一方のコルキは空から降ってきたその大きな岩の塊に尻尾を振りながら興味深そうに近づいて、けれど臭いを嗅いで顔をしかめ、そのままクラスクの後に続いた。
「〈
そしてそれと同時に、ネッカのハンドサインで呪文の詠唱をしていたイエタが味方全員に補助呪文をかける。
対象に魔力による疑似的な体力を与え、ダメージを受けた時そちらの魔術的な体力から先に消耗させるという聖職者の比較的初歩の呪文、〈
「ほう。ほほう」
面白い。
面白い。
赤竜は感嘆し、驚嘆した。
己の手の届かぬ域の呪文を、己に手の届く呪文で最小限の被害で抑え込む。
まさかこんな対処の仕方をしてくるとは完全に予想外だった。
だがそれはそれで構わない。
今のは単なる時間稼ぎに過ぎぬ。
己の術と相手の対処で十分に時間は稼げた。
さて、次のこれはどう対処する…?
「≪竜の吐息≫…?!」
キャスがそれを見上げて怪訝そうに眉をひそめた。
赤竜が口を大きく開けてその喉奥を光らせている。
≪竜の吐息≫の構えである。
だが≪竜の吐息≫が効かないことは既に証明済みだ。
未だ〈解呪〉もされていないはずで、自分達を護っている火炎耐性も生きたままのはずだ。。
単純に考えて、その行動は単なる無駄に終わる。
むしろクラスクらが攻撃する大きな隙になり得る。
だというのに一体何を…?
だがキャスはその竜の挙動に強い違和感を覚えた。
見た目ではない。
『音』だ。
あの炎が燃え立つような『音』が聞こえない。
むしろ聞こえてくるのは、もっとこう…
「しまった! 間に合うか……!」
キャスが慌てて呪文詠唱に入る。
攻撃呪文の詠唱のようだ。
ダメージで相手の詠唱を呪文消散でもさせるつもりだろうか。
だが遅い。
竜の喉奥に光るのは赤熱ではなく黄金に輝く閃光だった。
竜の口が開くと……そこから吐息が迸る。
ただし炎ではない。
その口から迸ったのは…稲妻。
炎の化身たる赤竜の口から放射状に広がる稲妻の吐息が、クラスク達をまとめて飲み込んでいった。
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