第386話 発酵食品
「ネッカさんとイエタさんには本当にお世話になりました」
背後でやいのやいのと発酵食品の味や酒との相性を巡って品評会が開かれている中、ミエが今回の功労者に深々と頭を下げる。
「ネッカは慣れてるから別にいいでふけど…イエタ様は色々心中お察ししまふ」
「最初は少し抵抗がありましたが…まさかこうして様々な食を作るためとは…」
ぽり、と近くにあったキャベツを口にしてその酸味と旨味に驚く。
「あー、お試しのザワークラフトですね、それ」
ミエが二人に頼んだのは魔具の作成である。
イエタが唱える禁断の〈
簡単に言えばこのテーブルクロスの上に置いたもの、あるいはこれで包んだものは他より早く腐るわけだ。
これにより手早く発酵食品がお試しで作れるようになったのである。
ピクルス、キムチ、ザワークラフトなど、野菜を原料にした発酵食品はたくさんある。
本来であれば発酵させる手間がかかるため仕込みにそれなりの時間が必要だが、それらをまるで台所で料理するような手間で簡単に作れるようになったわけだ。
「ピクルスとかザワークラフトなら気軽にご家庭で作っててもおかしくない気がするんですけど…この世界地産地消じゃない時は大体〈
村などで採れた新鮮な野菜は街に出荷される、或いは各家庭で長期保存する際にまとめて〈
そのお陰で野菜が萎びたり駄目になったりする心配なくいつまでも新鮮なままで味わえる一方、野菜が腐りかけ…そしてその過程で発酵することがほとんどなかったようなのだ。
「あとは鮒鮨とかアンチョビとかナンプラーとかも作ってみたいですけど、そもそものお魚が手に入りにくいんですよねえ」
「??」
「聞いたことのない単語ですね…食べ物なのですか?」
ネッカが不思議そうに首を捻り、イエタが興味深そうに身を乗り出した。
この辺りは内陸の盆地であり、魚を入手する手段が限られている。
ミエが呟いたものは全て魚を発酵させた食べ物や調味料であり、この地では気軽に作ることができぬ。
あえて作ろうとするならまず海で採れた魚などを〈
つまり腐らせるために保存する、というなんとも無駄な工程が発生してしまうのだ。
「う~ん…川魚でいけるんですかね…今度
さてミエが悩んでいる一方、背後のテーブルには
「お、酸っぱい」
「いいですねこれ。食べやすいです」
ゲルダとエモニモが口にしているのは野菜の漬物のようだ。
妊婦ゆえに酸味を欲しているのだろうか。
「ナンダコレ。イケルナ」
一方でラオクィクが野菜に茶色いものを付着させて齧り、目を大きく見開いた。
「タダ見タ目ガナー。コレッテウン…」
「味噌です! お味噌!」
「ミソカー」
禁句を口走りそうになったリーパグを戻ってきたミエが慌てて止める。
そう、卓上には彼女にとってなんとも懐かしい発酵食品の代表格…味噌もお出しされていたのである。
「いやーなんか懐かしくて涙が出ちゃいますねえ」
ミエも少しほろりとしながら蕪に味噌を付けて口にする。
まさかに異世界に来てまで味噌が食べられるとは思ってもみなかったのだ。
が…
「あれなんか風味が違うような…?」
美味い。
確かに間違いなく味噌である。
味噌なのだが…
ただ違う。
自分が知っている味噌とは明らかに風味が違う。
かつて自分が口にしていたそれに比べると少し甘味が少なくすっきりした味わいのように感じるのだ。
「ミエ! お主の言う通り作るの大変だったんじゃからな! 麦をいちいち細かく剥いて剥いて剥いて剥いて剥いて剥いて…ええい今後も作ろうというのならなにか錬金術の装置でも作らんとやっておれんからな!」
「あー! そっか!
味噌は大豆と塩で発酵させて作るものだが、通常そこに加えるのは米麹である。
だが現状米はミエが栽培実験をしている段階であり、種籾は貴重なため種麹に転用することができぬ。
ゆえに種麹…つまり味噌の基本となる麹菌を生成する際、シャミルは米ではなく麦を使用せざるを得なかった。
いわば米麹ならぬ麦麹を作ったわけだ。
つまりミエが口にしたのは彼女が食べ慣れた米味噌ではなく、麦味噌だったわけだ。
同じ味噌でも米味噌と麦味噌とではやや風味が異なる。
ミエが違和感を感じたのもそのせいだろう。
ただ麦麹と米麹では製法に若干の違いがある。
米の場合
つまり『米=食べ物』はほぼ直結して考えることが可能だし、ミエの故郷でも基本その考え方だ。
一方麦の場合はどうだろうか。
こと中世に於いて麦をそのまま炊いて食べるのはかなり難しい。
硬くて煮えにくいためだ。
ゆえに西欧では麦はまず粉にしてからパンかパスタにするのが基本である。
『麦=食べ物』は直結しにくい。
『麦→麦粉→麦粉生成物→食べ物』と、麦の粉末…代表的なものは小麦粉だが…を捏ねたり焼いたり揚げたりして初めて食べ物となる認識なのだ。
かつて中世に於いて籠城戦の折、ミエの故国では米さえあれば百年は戦えると豪語されていたそうだが、同じ時代の麦が主食の地域ではなかなかそうはゆかぬ。
麦と河川と水車による製粉所と、その近くにパン屋かパスタの店がなければ百年どころかひと月ももたぬのだ。
もちろん麦を麦粥などにして直接食べることもできるが、これは児童文学などを紐解くと「美味しくない食べ物」「貧しい食べ物」などとして語られることが多い。
一応ミエの故国にも麦飯なるものは存在するし、ミエの暮らす時代に於いては健康のため好んで食べられてもいるが、それは『押し麦』と呼ばれる技法が広まったことで煮炊きが容易になった後の話である。
それ以前は石臼で挽割したものを米と一緒に炊いたり、或いは一度麦だけ煮立てた後水切りして放置し、その後米と一緒に再度炊いたり、といった手間をかける必要があった。
簡単に言ってしまえば、麦は硬いのだ。
つまり米のように炊いて柔らかくして発酵させて麹菌を繁殖させる…といったことを麦でやろうとしても、麦が硬すぎてまともに麹菌が繁殖してくれないのである。
ゆえに麦麹を作るためには麦の周りを多めに削る作業…いわゆる精麦が必須となる。
それをまともな器具のない状態で行ったのだとしたら、シャミルは相当な手間だっただろう。
それでは愚痴の一つも出ようというものだ。
「ハッコウショクヒン、イイナ! 酒によく合う!」
「ワカル」
「ソレハソウナー」
「ウメ! ウメ!」
クラスクをはじめラオクィク、リーパグ、ワッフ達が酒と肉を食いながら盛り上がっている。
まあ発酵食品がというよりも新たな食味で肉が食えるということと、酒のつまみに丁度いい、といった比重が大きそうではあるが。
「で、アーリさん、商品として使えそうですかね」
先刻からずっと壁際で皿を片手にぽりぽりと漬物を食べている街の御用商人に声をかけるミエ。
「ミエ…これすっごいことニャ…?」
「ふぇ? なにがです?」
「ショーユ、ミソ、どっちも調味料の革命になるニャ。この風味は大きな武器になるニャ」
「調味料の方ですか? じゃあもっと種類増やします?」
「増えるのかニャ?!」
瞳孔を縦に裂いて尻尾を立てるアーリ。
「はい。要は種麹を何と組み合わせて発酵させるかの問題ですから。お肉で作ったりお野菜で作ったりお魚で作ったりもできますけど…」
ミエが言っているのは要は
肉を発酵させれば
醤油や味噌も米や麦から製造するのだから分類としては
要は種麹と何かの食べ物を組み合わせればそれでなんらかの原始的な調味料にできてしまうのだ。
ミエの説明を聞きながらふおおおおお…とその身を震わせ興奮するアーリ。
「原料は大豆と米と麦なのでこの街で全部賄えますから、あとは乾燥しがちなこの地域用にあのテーブルクロスと…麹を量産できる態勢さえ作れればですね」
背後からシャミルの強い視線を感じながら最後の言葉を付け足すミエ。
「これはでっかい商機ニャ! なんかミエと会ってからそればっかり言ってる気がするんニャけどでっかい商機ニャ! すぐに予算を計上するニャー!」
おおー、と一堂がどよめくが、皆その手にはフォークが握られていてやや緊迫感に欠けるのは如何ともしがたい。
ともあれこれで…この街の名物がまたひとつ増えることとなったのだ。
のちに食の都クラスクと呼ばれる……これはその萌芽のひとつである。
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