第63話 はじまりの洋梨タルト

 もうすぐ、その日がやってくる。

 わたしはカレンダーを見ながらぼーっとしていた。

 その日。それは、わたしが初めて教育する新人さんがやってくる日。


「落ち着いてやれば大丈夫。あなたなら」

 わたしの先輩……桜庭先輩はしっかりとした口調で励ましてくれたし、

「やれんものは任せん」

 課長は短くもそう言って私を鼓舞してくれる。

 わたしのやる気は十分、あふれている。でも不安もちょっと、ある。


 暖かくなってきた夜風に背中を押されながら、久しぶりにずいぶん遅い時間のまれぼし菓子店に足を運んだ。

 お店の前のランプが優しい光を放っているのを見て、何だか懐かしい気持ちになる。

 そういえば、わたしが初めてこの店を訪れたのは春。イヤイヤと参加した飲み会の帰りだったなあなんて思い出す。

 ステンドグラスみたいなパーツのついた扉をあけると、その時と全く同じ笑顔で、手嶌さんがわたしを迎えてくれる。


「いらっしゃいませ」

「こんばんは!」

「今日は遅いんですね。お水をどうぞ」


 遅い時間というのもあって、店に出ているのは手嶌さんひとりだ。

 あの時もそうだったな、なんて思い出して。

 メニューを目でなぞるうちにふと、あるものの上で視線がストップする。


「洋梨のタルト」

「タルトですね。通年のオススメメニューです。コンポートした、みずみずしくも甘みのぎゅっと詰まった洋梨と、アーモンドクリームのタルト生地がよく合う品です……覚えてますか?」

「はい。いちばん最初に頼んだメニューでしたよね。それとダージリン。なんか……すごく昔のことみたいだなあ」

「実際、いろいろなことがありましたね。いつもありがとうございます」


 こちらこそ、とわたしと彼はおじぎし合う。

 ああ、なんだか長いようで短いようで不思議な日々を過ごしたんだなあ。

 そう思いながら、座り心地の良いソファに寄りかかる。

 音楽に耳を傾けているうちに、その音楽みたいに心地の良い声で、手嶌さんが告げてくれる。


「お待たせいたしました。〝星の涙〟洋梨のタルト、それとダージリンティです」

「最初、いろんなことにずいぶんびっくりしたものでした」

「ええ、よく伝わってきておりましたよ」


 わたしの百面相は今も昔もかわらない。

 洋梨のタルトにフォークをいれる。タルト生地のほろりとした触感と食感。強い甘みを持ちながら、それでいて洋梨と打ち消し合わず、引き立て合う。

 抜群においしいコンポートは木森さんまた腕を上げたのかな、と思わせるようなもの。

 この部分だけ食べてももちろんおいしい。

 でもちゃんと調和を考えて作られているのだなあとしみじみ思う。

 爽やかな紅茶で口をリフレッシュして。

 お皿の上の幸せは、あっという間になくなってしまう。かわりに、わたしの心に、おなかに残るのだ。


「今度……後輩ができるんですけど」

「それはそれは。おめでたいですが、気負うことも多いでしょうね」


 さらりといいながら、お茶のおかわりを注いでくれる手嶌さん。

 そうなのだ。気負い……そう、それ。気持ちがまさに形を得た気分だった。

 彼を見上げると、柔らかな微笑をたたえていた。


「お話なら、わたしたちが聞きますよ、いつでも。ですから今まで通り、肩の力を抜いて」

「……手嶌さんに、星原さんに、ちょっと頼りないけど木森さんもいますもんね」

「木森が聞いたらへこみますよ。でもそうです。皆、あなたのことを応援していますから」


 澄んだ瞳を見つめていると、少し大仰にも思える言葉がすっと素直に入ってきた。



「今夜は、風が暖かくて。月が良く見えますよ」


 帰り際に、手嶌さんがなにか手渡してくれた。

 それは桜の色をした金平糖たち。それとまあるい、飴玉が入っていた。


「ありがとうございます。手嶌さん……あの、」

「はい」

「……おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 わたしはなんとかそれだけ伝えると、おみやげを手に家路についた。

 もっと、たくさん話したいこと伝えたいことがあったんだけど……。上手く言葉にならなくて。


 でも空に浮かぶ朧月はそんなわたしを優しく見守ってくれる。

 夜吹く風は、背中を押してくれる。

 肩の力を抜いて。

 わたしは、歩き出すのだった。

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