第六章 ありがとう

     1

「うわ、でか」


 この会場に訪れた彼女らを見たわたしの、それが第一声だった。

 次の瞬間、脇腹を肘で突かれていた。


「なんでわざわざ、あたしの頭越しにいう?」


 はやしばらかなえだ。目の前にいるのだけど、身長低すぎて気付かなかった。


「ああ、別にそういうわけじゃ。というか、いたの? 勝手に人の前に立って自虐ギャグかましてくるのやめてよ」

「むっかああああっ! 誰がギャグなんかいった? それにねえ、フットサルは背の高さでやるわけじゃないんだよ!」


 かなえがなにに怒っているのか知らないけど、フットサルのことに関していえば確かにその通り。


 フットサルは、基本は床を転がすスポーツであり、また接触プレーにも非常に厳しい。だからサッカーと比較するのであれば、身長やフィジカルが勝敗に占める割合は少ない。


 フットサルからサッカーに転向した、わたしの親友であるはまむしひさは、こういったことがある。「サッカーはさすがに身長が低いことのデメリットが多いのだが、それによってどれだけフットサルがそういう面で公平なスポーツかを知った」、と。


 タイプとしては、かなえも久樹と同様だろう。

 小柄故の俊敏さを生かす選手だ。


 フットサルは体格差によりどちらが優位ということでなく、それぞれの長所短所が上手く相殺されて、常にエキセントリックなゲームになる競技なのだ。もちろん基本的な体力や技術はなければならないが。


 なにがいいたいのかよく分からないって?

 この会場についに姿を見せたスペイン代表の選手たち、彼女らがあまりに大きくて、わたしは圧倒されていたのである。


 体格でやる競技じゃないのだから、と、必死に焦る自分の心を押さえていたのである。


 かなえも同じようなことを思っていたらしく、それでちょっとカリカリとしてしまっていたようなのである。


 スペイン代表の選手たちは、みな身長百七十台はあろうか。何人か、百八十に届いているのもいるかも知れない。

 帰化人なのか、何人か黒人もいる。

 小柄で機動性に富むという日本に似たタイプのイメージがあったのだけど、完全に予想を覆された。


 身長が高いだけではない。

 シャツの袖をまくった腕は実に太く逞しい。

 全身筋肉の塊のようであった。

 まるで、男子だ。


 これが、世界なんだ。

 こんなのと戦うんだ。


 あまり自覚のなかったわたしが、自分も代表であるという現実をまざまざと感じさせられた瞬間であった。


     2

 はスペイン代表の5番と向き合ったまま目をそらすことなく、後ろにいる味方からのボールを踵で受けたその瞬間、踵でこんと押すように右と蹴り、追うように自身も右へと動いていた。


 長いリーチの脚が槍のように佐治ケ江を追って鋭い勢いで伸びてきたが、その足先は虚しく空を切っただけでなにも捉えることは出来なかった。

 佐治ケ江が、その長い脚の上をボールと共に飛び越えていたのである。


 個人技による突破からスペースを作り出した佐治ケ江はゴール前までドリブルでボールを運び、ゴレイロのタイミングをずらすようにシュートを放った。


 運が悪かったのとスペイン代表ゴレイロの立ち位置が良かったのとで、シュートはブロックされた。ゴレイロの胸に当たったのだ。


 だが床に落ちたボールをゴレイロが拾おうと腰を屈めた瞬間、後ろから駆け上がってきていたおかが詰め寄り足を伸ばして押し込んでいた。


 ゴールネットが揺れたが、日本代表の得点は認められなかった。

 茂岡真理花は勢い余ってゴレイロにぶつかって転ばせてしまい、ファールを取られたのである。


 現在はこのように日本の時間帯が続いているが、しかしながらスコアは1-2とリードを許している状況だ。

 立ち上がりに連係ミスを突かれて二失点、その後に茂岡真理花のシュートが決まって一点を返したものだ。


 いつ追い付いて逆転してもおかしくないくらいに、日本代表が攻め続けている。


 十五分、十五分、五分、という三セットマッチの、現在二セット目である。


 ピッチに立つ日本代表は主力組。佐治ケ江もいる。

 この試合のために、体力無しの佐治ケ江は昨日一人別メニューで調整しており、おかげで実に動きが良かった。茂岡真理花のゴールも、佐治ケ江の突破から生まれたものだ。


 わたしはベンチに座り、主力の戦いをしっかりと目に焼き付けていた。


 日本代表には何十人という選手がいるのだし、紅白戦ならともかく対外試合で自分が使われることはおそらくないだろう。例え練習試合といえども。

 もしも出られることがあるとしても、ほとんど試合も終わりというところでちょこっと試してみるという程度だろう。


 それでもわたしは、日本代表として、しっかりと考えながら試合を見る。

 当たり前だ。

 チームコンセプトを理解することは当然として、あとは味方に助言出来ることや自分が出たらするべきことを探す。日本の、外国との戦い方をしっかり学ぶ。外国人の、日本との戦い方をしっかり学ぶ。

 こうやって下の者が頑張ることで、日本代表全体のレベルが上がって行くのだ。

 いわゆる、チームの底上げである。

 だからわたしはとりあえず普段会社でやっている時と同じような観察テーマを当てはめて、いわゆる外国人の…


「つんぼか、てめえ!」

「あいたああっ!」


 いきなり頭をブン殴られた。

 誰だ、と見上げるまでもなく監督であった。

 どうやら、わたしが自分の世界に入っていて監督の呼び掛けを無視し続けていたらしい。


「タカ、出るぞ」

「へ、タカ? ああ、は、はい!」


 まだ慣れない、その呼ばれ方。

 とにかく、出番だ。

 予期せぬことではあったが、代表としてここに来ている以上、可能性は常に考えている。わたしはさして驚くことなく立ち上がると、膝屈伸、腿上げその場ダッシュ、そして交代ゾーンへと向かった。

 日本代表 第二セットが始まってから初めての選手交代である。


 ばり アウト

 たか イン


「せいぜい頑張んな、おばさん」


 入れ代わる際、お局の毛針奈津子に思い切り背中を叩かれた。

 毛針は三十二歳なのでわたしの方が遥かに年下だ。でもわたしは二人の子持ちなので、代表の先輩たちからはこのようにおばさんなどと呼ばれからかわれていた。

 要するに主婦を楽な身分だと思い、そんな楽な人生送っているやつが代表に選ばれてしまっていることが気に入らないのだろう。


 経験したことない者にどうこう説明するつもりもない。とにかくわたしはピッチへと入った。



 振り返ってみればわたしにとって、これが日本代表として初めてで、そして最後の対外試合であった。



 じまうめがスペイン6番へと身体を突っ込ませた。6番は背中を使ってキープしようとしたが間に合わず、二人の間に挟まれてボールが高く上がった。

 放物線を描いてスペインゴールの方へ。


 わたしは走り寄り、開いた腿を高く上げて受けた。

 しかし落ちたところを横から伸びてきた長い足に、奪われていた。


 くそ、身体がでかいだけでなくリーチも妙に長いな。大学同期のないとうさちなんかでかいだけで短足だったのに、さすが外国人。


 ベンチからしっかりと観察していたはずなのに、見るのとやるのではこうも違うか。

 考えるのは後だ。とにかくわたしは、8番の背中を追った。


「違うよタカ! そうなったら全体逆周りにしてマークを一個ずつずらすんだっていったろ!」


 監督の怒鳴り声。

 ああ、そうだった。全体戦術練習で腐るほどいわれていたことなのに、素でうっかりしていた。


 わたしの守備力の無さから奪われたボールは、8番からピヴォの9番へ繋げられ、ゴール前でゴレイロむろてるとの一対一を作られてしまったが、シュートを打たれる寸前に佐治ケ江が横から滑り込んでブロックした。


 佐治ケ江は自分の身体に当たって宙へ上がったボールを、滑りながら高く上げた足を大きく振ってクリアした。

 クリアが精一杯であまり飛ばず、7番に拾われてしまった。


 しかしクリア体勢から軌道を予測していたわたしが、すぐ7番に寄せてぐっと身体を入れて奪い取った。

 だがそこへすかさず、8番が迫力あるプレッシャーをかけてきた。


 わたしはサイドライン際で、相手に背を向けてラインを使ってボールをキープ。すっと首を回してパスを出せる味方を確認しようとしたのであるが、


「おばさん邪魔!」


 その叫びと同時に、わたしはどうんと衝撃を受け、よろめいていた。

 能島梅子に肩をぶつけられたのだ。

 よろめいている一瞬の間に、能島梅子はボールを掻っ攫っていた。


 日本代表の仲間割れのような光景に半ば唖然としているスペイン8番を、茂岡真理花とのワンツーで突破した梅子は、斜めに切り込んでゴール前へと向かった。

 距離を詰めてくる5番の姿に、能島梅子はドリブルの速度を少し落とした。


 打つかパスするか考えているのだろうが、次に起きた事実は、おそらく彼女の想定選択肢にはなかったものだったことだろう。


 わたしが全力で能島梅子の脇を駆け抜け追い越し、追い越しざまにちょいと足を伸ばして、ボールを掻っ攫っていたのである。正確には、掻っ攫い返したのである。


 そのままわたしは、S字を描くように走って5番を抜いた。

 いや、横から伸びた5番の長い足に転ばされ、ごろごろ転がっていた。

 ここを抜けたら大チャンス、向こうにとっては大ピンチだったからな。


「なにすんだよ!」


 怒鳴り声が響いた。

 わたしの声かと思った? 残念。怒鳴り声の主は、わたしからボールを掻っ攫われた能島梅子だ。


「すみません、チャンスだと思ったんで」


 わたしはそういうと立ち上がった。


「ふざけんなよ」

「以後、注意します」


 ったく、自分がされた時だけ怒るんかよ。


 この後のFKは茂岡真理花が蹴ったが、味方に合わずゴールラインを割った。


 スペイン代表ゴレイロのゴールクリアランス。

 軽く助走し、放り投げた。


 5番の選手が胸で受けようとするが、横からわたしが跳躍しながら掻っ攫っていた。

 床に落ちたボールをすぐさま右足で押さえ付け、背後に5番を背負ったまま周囲の様子をうかがう。


「こっち!」


 左後ろから佐治ケ江の声が聞こえた。

 わたしはくるり振り向くと、自分に密着していた5番を抜きにかかる振りをし、ボールを引き戻しつつ靴のアウトサイドでちょんと押し出し、股の間を通した。


 相手のリーチが長いことを利用した股抜きパスであるが、残念ながら繋がらなかった。佐治ケ江が受け取ろうとする寸前に、読んでいた7番がダッシュで軌道へ入り込み、インターセプトしたのだ。


 7番はゴレイロの位置を見て、遠目から冷静に右足を振り抜いた。


 ゴレイロの小室照江は驚いた表情をしながらも咄嗟に伸ばした腕でボールを弾き上げた。そして落ちてくるところを自分でキャッチした。


「ナイスセーブ、照江さん!」


 わたしは、大きな声でゴレイロのファインプレーを褒めた。

 その時である。

 後ろから、背中をどんと激しく押されていた。


「あんまりさあ、ふざけんなよな、おばさん」


 能島梅子がわたしにぐっと顔を寄せ、耳元で囁いた。


「ごめん、耳悪くてよく聞こえない」


 わたしはにやにやとした笑みを浮かべながら、人差し指で耳の穴をぐりぐりほじくる真似をした。

 いけないと思いつつ、つい人をおちょくってしまうのがわたしの悪い癖だ。


「ウメ、交代!」


 監督の声に能島梅子は舌打ちしつつも、指示に従って交代ゾーンへ向かった。

 その交代ゾーンには、はやしばらかなえが立って能島梅子が来るのを待ち構えている。


「梅子さん、はやくっ、はやくっ、はやくっ」


 かなえは早くプレーしたくてうずうずしているようで、せわしなくジョギングポーズで腿上げしている。


「うるせえバカ!」


 わたしにおちょくられてカリカリしていた能島梅子は、怒りの矛先を林原かなえに向けて、ボカンと思い切り頭をブン殴った。


「いったあ!」

「うるさい、いいから早く入れよ!」

「はあい」


 この第二セット、日本代表はわたしに続いて二人目の選手交代。林原かなえがピッチへと入った。


「ビューーーン」


 林原かなえは、両腕を横に広げて飛行機ポーズでピッチへと入った。

 入るなり、早速と見せ場を作った。茂岡真理花とスペイン7番の衝突によりぽとりと落ちたボール、それをまさに予測していたかのように走り抜けながら拾い、素早いドリブルでパスコースを作り出して佐治ケ江へとパスを出したのだ。


 佐治ケ江に繋がった。

 そこへ猛然と9番が飛び込んできたが、既に佐治ケ江はボールを持っていなかった。パスをワンタッチではたき、踵で斜め後ろへと転がしていたのだ。

 わたしの方へ。


 意外性のあるパスに驚きながらも、わたしは反射的に足を出してボールを受けた。

 5番と7番が佐治ケ江へと引き付けられていることを瞬時に認識したわたしは、一気に速度を上げてゴール前へと迫った。


 目の前にはゴレイロだけだ。

 わたしは横へちらりと視線を向け、その瞬間に右足を振り抜いていた。

 パスを出すかも知れないというフェイントを仕掛けたのだが、さすがスペイン代表ゴレイロ、まったく引っ掛かることなくわたしのシュートは両手でしっかりとキャッチされた。

 いや、掴みきれず落としていた。


 わたしはそこへ自らの身体を突っ込ませると、足をちょこんと出してボールを蹴り上げた。

 ゴレイロが慌てて屈み込むようにブロックしようとしたが、既にそこにボールはなく、既にゴールネットは揺れていた。


 わたしは右腕を高く突き上げた。

 これで2-2。日本代表は、わたしのゴールが決まって同点に追い付いた。


 スペイン代表の選手たちは悔しそうな表情を隠すことなく床を蹴ったり、自虐的な笑みを浮かべたり、とにかく腹立たしいという様子が伝わってくる。

 さすが闘牛とカルメンの国、気性が激しいな。ゴレイロなどはよほど悔しかったのか、味方を糾弾するような怒鳴り声を張り上げている。


 スペイン代表の反応は悔しさという点で統一されているが、反対に日本代表の側は様々な感情が渦巻いているようであった。


 様々というか、スタッフや多くの選手は日本のゴールに歓声を上げたのであるが、何人か、苦虫かみつぶしたような顔の選手がいたのである。


 要するにわたしを嫌う何人かにとっては、このゴールは面白くなかったということである。


 だが彼女らのそうした感情や反応は、拍子抜けするほどにあっさりと終息することになった。


「おばさん、やるじゃん」


 ベンチにいた日本代表主将のはたなかこうが、勝手にピッチに入ってきてわたしの背後からどんと肩をぶつけてきた。

 一見普段通りの新人いじめのようにも見えたが、だけど彼女はわたしの髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回すと、にっと微笑んだのであった。


 それはきっと、わたしが主将に認められた瞬間だったのではないかと思う。


「どうも」


 わたしは淡々とした口調でそういうと、唇の端をきゅっと釣り上げて笑みを返した。


 スペイン代表のキックオフで試合再開だ。

 先ほどと変わらぬペースで攻める日本代表であるが、なんだかさっきまでとは雰囲気が違うような……


 その疑問の答え、すぐに分かった。

 わたしの動きが、よくなっているのである。


 ゴールにより自信を付けたためか、味方がわたしを見てくれるようになったためか、それは分からない。


 とにかくわたしは、異次元の存在だと思っていた代表の戦いで悪く目立つこともなく溶け込んで、普通に試合をこなしていたのである。

 そしてついに、わたしのアシストによる林原かなえの逆転弾が生まれた。


「ナイスゴール、かなえちゃん。さすが師匠の弟子っ!」


 照れてわたしの背中に小さく隠れているかなえに、わたしは背中越しに賞賛の言葉を投げ掛けてやった。

 反応がなく無言のかなえであったが、やがて、


「ナイスアシスト。……さっすが師匠の師匠っ!」


 かなえは、わたしのお尻をばしんと思い切り叩いた。

 なんか、こいつのこと可愛くなってきたよ。

 さ、もっと点を取るぞ。


     3


 と思ったものの、さほど見せ場の生じることなく第二セット終了の笛が鳴った。

 残るは五分だけの第三セットを残すのみだ。


 第二セット終盤からずっとスペイン代表監督と話し合っていた吉田監督であるが、戻ってくるなりわたしの前に立ち、こういった。


「タカ、お前三セット目はスペイン側に入れや」


 はあ、そう来たか。

 それが、監督の言葉を聞いたわたしの心の第一声だった。


「ええっ!」


 と、周囲はみんな驚いている。主将も、佐治ケ江も。

 それはそうか。


 昨日、わたしの泊まる部屋に深夜、監督が尋ねてきたのだ。

 その部屋には林原かなえが既に眠っていたから、わたしたちは一階へ降りてロビーで話をした。


 日本代表をどうしたいか、どうするべきか、わたしと監督は話し合った。

 どうして追加召集された程度の身分であるわたしに監督がそのような話を持ちかけてきたのか。

 それには理由があった。


 監督は、日本代表がさらなる高みを目指すためには、ある一人の選手が秘めた能力を開花させる必要があるという考えを持っているのであるが、そのある一人というのがわたしのよーーーく知っている人物なのである。


 まだキーとなるには程遠い、しかしとてつもないポテンシャルを秘めるその選手、それをどうやってキー足りえる存在にするか。それを監督と話し合ったが、答えは出なかった。


 この第三セットを使ってその選手、佐治ケ江優を覚醒させろということか。


「それとお前、ゲームキャプテンもやれな」

「はい」


 わたしは頷いた。

 ……やってやろうじゃん。

 日本の、ために。


 わたしは先日佐治ケ江とシャワールームで会話した時の、わたし自身の言葉を思い出していた。




 あたしは敗北感という悔しさがすなわち達成感という奇妙な精神状態で、この合宿を去ることになるような気がする。で、それがサジの率いる日本代表を強くするんだ。




 という言葉を。

 預言者だな、わたし。

 あの時にはこのようなことになるなど、予想もしていなかった。

 いや、

 まだだ。この自ら吐いてしまった予言を成就させるべく、しっかりとやらねば。


 かくして、わたしは驚く周囲を尻目にスペイン代表の選手たちに入って日本代表と戦うことになったのである。


     4

 ゆう、こうまでわたしと対極の存在なのにこうまでわたしと縁があるのというのも珍しいよな。


 努力のわたしに対して、天才型の佐治ケ江。

 A型なのに他人を気にしないわたしに対して、B型のくせに気が小さく繊細で優しい佐治ケ江。


 わたしが高二の時に新入部員として入ってきて、それから常に佐治ケ江は意識させられる存在だった。

 人を信じず、人の輪に決して飛び込もうとしない。

 ボールを蹴るのは信じられないくらいに上手なのに、でも人間相手だと畏縮してまともに蹴ることが出来なかった。


 関サルで、出場可能な選手が怪我や病気であまりにも少なくて、仕方なく佐治ケ江をメンバー登録した。

 結果的に、これが佐治ケ江が自分の殻を破ってついに外へと飛び出した記念すべき試合になった。

 王子たち良い仲間に囲まれて、さらに成長し、そして広島へ帰った。


 わたしと佐治ケ江が大学在学中に、それぞれの地域リーグの覇者としてトーナメントで対決したことがある。練習では何度となく戦ったことのあるわたしたちだが、これが初めての真剣勝負だった。

 疲労困憊で立っていることもままならない。そうとしか見えない佐治ケ江から、繰り出される超人的な技の数々。

 亡くなった友達に優勝を届けたい一心で戦っていたらしい。

 あの試合で佐治ケ江は、人間は自分の限界を越えられるということを学んだのではないだろうか。


 秘めた能力がどれほどあるのか計り知れない佐治ケ江であるが、だが、まだだ。まだ大きな欠点が残っている。

 この合宿の初日で、わたしはそれに気づいていた。


 気づいていたが、気づいていることに気づいていなかった。

 先日の監督との話し合いで、わたしは佐治ケ江の欠点について確信を持った。


 それを取り除くのが、これから始まる第三セットにおいてわたしにかせられたミッション。

 たかが五分の勝負であるが、五分あれば充分だ。


 だけど自分が率いることになる選手たちには、しっかりと戦術を落とし込まなければならない。

 そんなわけで、たかだか五分間の試合だというのにもう二十分以上もミーティングを続けているというわけである。


 待たされるだけの日本代表側は、すっかりだらけてしまっているようであったが、佐治ケ江だけは違っていた。時間が経つほどに、顔に浮かぶ緊張の色が濃くなっていた。


 わたしが通訳を通してスペイン代表の選手たちと話をしながら、ちらりちらりと佐治ケ江に視線を送っているからだ。気の弱い佐治ケ江である、それが気になって仕方がないのだろう。


 ……まったくこいつは。

 わたしは、佐治ケ江を見つめ思わず苦笑してしまっていた。


 その苦笑をどう受けたか、びくびくおどおどとした佐治ケ江の表情がより強まった。

 まるで蛇に睨まれた蛙だ。

 きっと唾を飲むのも一苦労といった状態だろう。


 凄いよなあ。

 あんな華奢で気弱なくせに、フットサルがあんなに上手なんだもんなあ。

 羨ましいなあ。


 ああ、可哀想に、佐治ケ江ったらあまりに緊張して主将の声が耳に入ってなかったのか、思い切り耳を引っ張られているよ。取れたらどうすんだよ、バカ主将。


「遅くなりましたー、こっち準備オッケーなんで、始めましょうか!」


 わたしは叫んだ。

 佐治ケ江をもっと緊張させてやろうと、ミーティング終了後もしばらくにやにや顔で見つめていたかったが、それで佐治ケ江の耳が引きちぎられでもしたら可哀想だからな。


「ほんとおせーよバカ!」


 畑中主将がわたしを睨み付け、怒鳴った。


「どうもすみませんね」


 わたしは全然気にせずすました顔。

 こうして三十分近いミーティングが終わって、改めてスペインと日本の選手たち十人がピッチに入り、散らばった。


 わたしは通訳のスペイン人男性と肩を並べ、ピッチ脇に立っている。


 佐治ケ江はピッチの中。すました顔で前を向いているが、長年の付き合いであるわたしには、緊張で押し潰されそうな雰囲気がひしひしと伝わってくる。


 わたしの率いるチームと戦う。

 これが、佐治ケ江がそこまでに緊張している理由だろう。


 ちらり、と佐治ケ江がこちらを見た。

 その瞬間、笛の音が鳴り響いた。


 こうして日本代表とスペイン代表との練習試合最終セットが始まったのである。


 それは、わたしと佐治ケ江との最終決戦でもあった。

 もちろんそうであることなど、この時点ではお互いに知るよしもなかったのであるが。


     5

 キックオフと同時に日本代表7番であるづくえわかがちょんと前に蹴り、すぐさま横へパスを出した。


 走りながら5番、ゆうがそれを受けた。


 スペイン代表2番のバネーサが激しいプレスをかけたが、佐治ケ江はそれを引き付けかわし、抜いた。

 だが、伸ばしたバネーサの足にボールが引っ掛って、跳ね上がった。


 佐治ケ江はぐらりと前へよろけたが、すっと後ろへ脚を伸ばし、バネーサが収めるよりも前に踵でボールを蹴り上げていた。放物線を描いて自身の頭上を飛び越えたボールを、ダイレクトに蹴り上げて前線へと送った。

 スペインゴールの斜め前、飛び込んだ7番が落下してくるボールに上手く合わせたが、ボレーシュートはバーの上部を叩いてゴールラインを割った。


 なお、これまで敵味方を分かりやすくするため日本代表の側を名前で、スペイン代表の側を背番号で表記していたが、この第三セットでは入れ替える。

 わたしはスペイン側のゲームキャプテンだからだ。

 ただ佐治ケ江は別、変わらず佐治ケ江だ。


 日本の攻撃でラインを割ったため、スペイン代表のゴールクリアランスだ。

 ゴレイロのボニータは、助走をつけてボールを放り投げた。


 五分しかない、早速やるか。

 わたしは隣の通訳に、選手交代を伝えた。


 ベンチ近くでアップをしていたソニアが立ち上がると、FPユニフォームの上からゴレイロのユニフォームを被った。

 そう、交代はゴレイロ。FPを投入したのである。


 ソニアはゴレイロユニフォームこそ着ているものの、FPである。先ほどのミーティングで伝えた通り、ペナルティーエリアを飛び出して7番と佐治ケ江を見るような位置についた。


 佐治ケ江の顔に、明らかな動揺が浮かんでいた。

 これは、大学時代に佐治ケ江対策として使った戦術だ。佐治ケ江も、それに気づいているのだろう。


 動揺しながらも、やはりボールを持てば上手い。

 佐治ケ江は3番みずいねからのボールを足裏でトラップすると、そこを狙ってプレスをかけたシルビアとアドラの間を一瞬にして抜けていた。


 スペインゴール斜め前五メートル、必死に戻った代理ゴレイロであるソニアの動きをよく見てシュートを放った。

 タイミングは完璧であったが、しかし狙い過ぎたようだ。ボールはポストに当たり、ゴールラインを割った。


「だから5番(佐治ケ江)に気をつけろって散々いっただろ。集中しろ!」


 わたしのその怒鳴り声を、通訳が興奮気味に身振り手振りで伝えている。


 ここで佐治ケ江に決められたら、ほっと一息つかれてしまって、この三セット目はまったく意味のないものになってしまうんだからな。

 絶えず緊張を与え続けないと。


 わたしは指示の声を飛ばしながらも、なんだか意味ありげに佐治ケ江のことをちらちらと見ていた。時折、わざとらしい薄笑いを浮かべてみたり。


 佐治ケ江はなるべくこちらを見ないようにしているようであったが、それでも吸い寄せらるように一瞬、また一瞬、とこちらへと目が動くのが分かった。

 その都度、彼女の心から平常心が失われているということも。


 わたしの気持ちをはかりかねているのだろう。

 わたしがなにを考えているのかを理解して、早く楽になりたいのだろう。


 そんな重圧が原因だろうか。わたしもまるで予期していなかったことが起きた。

 なんと佐治ケ江が、突破をはかろうとするバネーサを止められずに無意識に手を伸ばし、襟首を引っ張り倒してしまったのである。


 審判が、佐治ケ江に向けてイエローカードを掲げた。

 警告どころか、ファール自体ほとんど受けることのない佐治ケ江だというのに。


 わたし以上に佐治ケ江本人の方が驚いているようで、立ち尽くしたまま呆然となっていた。

 ちょっと可哀想だけど、でもこれは畳み掛けてさらに追い込むチャンス。

 わたしは通訳に選手交代を指示すると、交代ゾーンへと向かった。


「おい、しっかりしろ」


 畑中主将が佐治ケ江へと寄って、背中を叩いた。


「あ……はい、すみません」


 佐治ケ江の視線の焦点が正気に戻った。

 首をぶるぶると振るい、気を引き締めようとする佐治ケ江であったが、それもつかの間、次の瞬間には驚愕と恐れとに再び瞼が見開かれていた。

 わたしがピッチに入ったからである。


 さらに選手交代。ソニアが出て、本職ゴレイロであるボニータが再び入ってゴール前に立った。

 そしてわたしは、無言で佐治ケ江へと近寄り、マークについた。


 序盤の守備的パワープレーに、そしてわたしの密着マーク、すべて大学時代の対戦の再現だ。

 わたしのこの策が上手くはまって、佐治ケ江のいるがわ女子大学は大敗した。

 あの時はチームが佐治ケ江中心だった。弱小大学が佐治ケ江の能力を生かしてリーグ制覇して大会に出場出来ただけだ。


 この代表では、別に佐治ケ江は中心ではない。

 したがって、日本代表対スペイン代表ということで考えれば特に佐治ケ江に個人攻撃を仕掛ける必要性などない。


 それだけに、佐治ケ江はわたしのとる戦術の不可解さに、よりわたしを不気味と思い、より緊張を高めているようであった。


 なんだかせっかく来てくれたスペイン代表を当て馬にしているところがあるが、佐治ケ江を潰す戦術というのは今後絶対に役立つものなので、それで勘弁して欲しい。


 とはいうものの、次に日本代表と対戦した時には、そもそも佐治ケ江を潰せるなどとは夢にも思わない方がいいだろうけどね。


 わたしはバネーサとのワンツーで、佐治ケ江を翻弄。

 あまりの集中力のなさに、畑中主将が佐治ケ江に切れている。

 わたしはわざとらしい笑みを、佐治ケ江に向け、その焦りを助長してやった。


 主将に怒鳴られたばかりだというのに全然集中出来ていない佐治ケ江は、その後も何度もわたしにボールを奪われ、突破された。

 可哀想なくらい、佐治ケ江はわたしに対してなにも出来ない状態になっていた。

 

 能力はとてつもないけど、気が弱く、そして優しすぎるのだ。

 相手の気迫を受けると、すぐにぐらついてしまう。

 人を恨み憎むことが出来ないのだ。

 死ねといわれて、てめえこそ死ねといい返せないどころか思うことすら出来ない性格なのだ。


 だから、気迫を受けることなく、ごまかし逸らし続けて、フットサルをプレーしている。

 そんな気の弱い性格だから、「尊敬している先輩」であるわたしに対しては特に臆病になってしまって、本来の自分を出せない。


 わたしがこれまで佐治ケ江に勝てていた理由は、おそらくそこにあるのだ。

 そこを乗り越えられなければ、佐治ケ江のこれ以上の成長はない。


 だからこの試合、わたしはあえて佐治ケ江を追い詰めるような真似をしている。

 もう何度も自分の殻を破ってきた佐治ケ江だけど、まだ、もっと成長が出来ると信じているから。


 だから……

 だからわたしは……

 手が震えていた。

 誰の?

 わたしの手だ。


 ぶるぶると、震えていた。

 これから起こることに。

 これからわたしのすることに。


 ふう、と息を吐いた。

 顔を上げた。


 佐治ケ江が、なんでもないボールをトラップミスしていた。

 わたしはドンと床を踏み鳴らすと、走り出していた。


 佐治ケ江の斜め後ろから全力で迫り、肩をぶつけていた。

 吹っ飛びゴロゴロと転がる佐治ケ江を尻目に、わたしはボールを奪った。


 会場が、ざわついた。


 笛。

 審判が、わたしに向けてレッドカードを掲げた。


「いや、ちょっと待ってくれ! 練習なんで、それはちょっと無しにして下さいよ!」


 監督が慌てて審判に駆け寄った。

 一分ほどのやりとりの上、審判の男性は渋々とであるが了承した。

 協会から派遣されている普段FWリーグの試合を裁いている人らしいのだけど、練習だからこそしっかりやりたい真面目な性格なのだろう。


 こうして一発退場でここを去るはずだったわたしは、レッドからイエローに変更されてそのままプレーを続けることになった。


「監督がなに考えてんのか知らないけど、もうちょっと気をつけろよお前、永久処分もののプレーだぞ」


 畑中主将が、わたしへ近付いてきっと睨みつけてきた。


「ああ、ごめんなさい。あまりにこの人がこっちを舐めくさっていたんで、ちょっと頭に血が上っちゃって」


 わたしはそう淡々といいながら、全身の痛みを押し殺してゆっくりと起き上がろうとしているへと冷やかな視線を向けた。


 見上げる佐治ケ江の視線に気づいたわたしは、ふんと鼻を鳴らした。

 佐治ケ江はわたしを見ていることが気まずくなったか、ぷいと顔を横に向けた。


 だいぶ追い込まれているな。

 その殻、自分で打ち破ってみせろ。


 わたしなんかがいうのもおこがましいが、佐治ケ江はもっと成長し、世界に羽ばたけるような存在だと思うから、だから厳しく要求するのだ。


 でも、まだまだだ。

 先輩がちょっと厳しい態度をとって、あまちゃんの優ちゃんに世界の厳しさを教えてくれました。そんなもんじゃ終わらせないからな。

 この第三セットで、殻、破ってもらうからな。


 わたしは先ほどイエローカードを受けたばかりだというのに、なおも激しく、厳しく、佐治ケ江に当たり続けた。

 わたしの期待とは裏腹に、佐治ケ江の動きにどんどん鈍くなっていった。


 疲労もあるのだろうが、それが理由ではない。

 明らかに畏縮しているのだ。


 この理不尽な空気に、やる気をなくしているのだ。

 ただ、試合終了の時間が来るのを待っているのだ。


 それでいいのか、佐治ケ江。

 本当に、それで。

 フットサルの成長が自分の成長に繋がっているようで、それが自信に繋がっていくようで楽しみなんです。以前に会った時にそういっていたのは嘘か?


 なにやってんだよ、お前。

 ここに、なにしに来てるんだよ。


 わたしみたいな、フットサル下手くそな単なる主婦の要求に応えられないどころか応じようともせず、びくびくちっちゃくなりやがって。


 佐治ケ江が、またわたしから簡単にボールを奪われ、それどころかバランスを崩して倒れ、尻餅をついた。

 そんな姿に、わたしの脳の一番太いところの血管がブツンと切れていた。


「本気出せ、てめえ!」


 わたしは会場内にばりばり響くような怒鳴り声を張り上げていた。


     6

「甘いんだよ! バーカ!」


 爪先でちょんと蹴り上げたボールを右手に持つと、の顔面へと力一杯に投げ付けていた。


「痛いか? もう一回食らうか? ああ?」


 足先に転がるボールを引き寄せると、また蹴り上げ右手に持って、また佐治ケ江の顔に投げ付けた。

 突然のわたしの爆発に、佐治ケ江はわけ分からぬまま涙目になっている。

 知ったことか、とわたしはさらにボールを投げ付けようとした。


 ピーピーピーピー、審判が笛を細かく激しく吹き鳴らした。

 またまた場内が騒然となっていた。

 日本人同士のいさかいとはいえ、スペイン代表の監督も選手も混乱してしまっているようであった。


「タカ、お前やりすぎだ!」


 監督がピッチに入ってきて、わたしと佐治ケ江の間に割って入った。


「やりすぎじゃねえよ!」


 わたしは監督に対しても、掴みかからんばかりの勢いで怒鳴ってしまっていた。

 いや、本当に掴みかかっていた。

 切れて見境つかなくなっているわたしに、平気で近づいてきたこの男が悪いのだ。


「てめえが甘いから、こんなどうしようもないのが育つんだよ。邪魔すんな、この加齢臭ジジイ!」


 そういいながらわたしは、監督の襟や裾を引っ張って柔道のように横へ投げ倒してしまった。

 ずどんと尻餅をついた監督は、痛みに床に倒れ、ぐったりとなった。


「あーあ」


 はたなか主将が苦笑している。


「面白いやつが来たと思ったけど、もうおしまいだな。……あたしの後釜になれるような人材だと思ったのになあ」


 とちょっと寂しそうな表情で、頭を掻いた。


 確かに、もうおしまいだな。

 わたし。

 ここまでのことをするつもりなんてなかったのだけど、すっかり頭に血が上ってしまって。


 頑張って次も代表に呼ばれるぞ、なんて思っていたけど、代表どころかフットサル協会から登録剥奪されて、会社の部活でも試合に出られないかも知れない。


 でも、いいや。

 これで佐治ケ江が、なにか気づいてくれさえすれば。

 わたしのメッセージを、受け取ってくれさえすれば。


 本当はもう少しここにいて、本気になった佐治ケ江とぶつかり合ったりしたかったけどな。

 仕方ない。もう呼ばれないどころか、いまここに立っていることすら許されない身分だろうから。わたしは。


「ああ、一発レッドですよね。邪魔者はこっちでしたね。はいはい、退散します」


 わたしはやったことの反省を全然していないかのような冷たい笑顔を作ると、ピッチを後にしようとした。

 背後から、声。


「待て」


 振り向くと、監督がお尻をさすりながら立ち上がるところだった。


「最後まで、やれよ」


 わたしの顔をぎろりと睨みつけた。


「はあ? あ、いや、あたしはいいんですけど、でもその人すっかり弱腰で」


 わたしはいやらしい作り笑いを浮かべ、視線を佐治ケ江に向けた。

 この第三セット、なんどとなく佐治ケ江の目が驚愕に見開かれてきたが、今度はわたしが驚く番だった。


「やります」


 佐治ケ江はよろよろと立ち上がると滲んだ涙を袖で拭い、きっぱりとした表情でわたしを睨みつけたのだ。

 自分の迷いを払拭し、わたしに立ち向かう決心を固めた、そんな表情だった。


 わたしは、息が詰まりそうだった。

 涙が出そうだった。


 でも、こんなところで泣くわけにはいかない。

 せっかく佐治ケ江がやる気を出したのだ。

 心を鬼にして、佐治ケ江にぶつかり続けてやる。

 壁になってやる。


 そして、一緒に探すんだ。

 それぞれの、未来を。


     7

 スペイン代表のキックイン。

 バネーサが受けると、3番のみずいねをすっとかわし、前線でボールを要求しながら走るわたしへと大きく蹴った。


 そうはさせまいとが全力で、わたしの背中を追った。

 疲労が限界に近い佐治ケ江の、膝ががくりと折れた。だが、咄嗟に床に手をついて転倒をこらえると、なおもわたしを追い続けた。


 わたしは既にゴール前、日本代表ゴレイロむろてると一対一になった。

 いや、二対一だ。

 スペイン代表バネーサが、わたしとは反対サイドから駆け上がってきていたのである。


 わたしは横目でそれを認識すると、瞬時に横パスを出していた。

 ゴレイロは眼前でのパス交換に、どうすることも出来なかった。


 バネーサは爪先でボールを捉え、ちょんと蹴り込んだ。

 スペイン代表得点、日本代表失点。


 誰しもがそう思った瞬間、横から誰かが飛び込んでシュートをブロック。スペインの得点はならなかった。

 その誰かとは、なんと佐治ケ江だった。

 あんなへとへとの状態で、わたしを追いかけていたというのに。


 佐治ケ江は立ち上がると、自分にとっての自陣ゴール前だというのにセーフティにクリアをせずにバネーサをすっとかわし、ドリブルで駆け上がる。


 佐治ケ江は味方7番にちょんと出してリターンを受け、アドラを抜いた。


 そうはさせるか。

 わたしは、全力で佐治ケ江へと飛び込んでいた。


 佐治ケ江の目が、一瞬恐怖に怯えたように見開かれた。

 だが次の瞬間には、自らの強い気持ちでその恐怖を追い払ったか、毅然とした表情でわたしの視線を正面から受け止めていた。


 それどころじゃない。

 佐治ケ江から、凄まじいまでの気迫を感じた。どっしり腰を落としていないと吹っ飛ばされそうなくらいの。


 でもな、気迫だけで、わたしに勝てると思うなよ。

 わたしは強引に足を突き入れて、佐治ケ江からボールを奪い取ろうとした。


 おかしな話だ。

 かつて何回か対戦したことがあるが、そもそも圧倒的に技術力が上の佐治ケ江に、わたしの方こそ気迫だけで戦って、なんとか勝利を収めてきただけだというのに。


 だけど、なんということか。

 その気迫においてすらも、わたしは佐治ケ江に押され始めていた。


 佐治ケ江はバランスを崩しながらも、がっと強引にわたしの足の間に自らの足を突き入れ、こそぎ取るような強引さでもってボールを取り戻したのである。

 わたしの方こそバランスを失い、ぐらり前のめりに倒れていた。


 佐治ケ江は息を切らせながらもバネーサをすっとかわし、大きく出来たスペースをドリブルで進んでいった。

 ゴール前でゴレイロのボニータと一対一になった。


 ボニータは我慢出来ずに飛び出し、佐治ケ江の身体ごと弾き飛ばしそうな勢いでスライディングで突っ込んだ。


 佐治ケ江は冷静にボールを真上に浮かすと、同時に自身も跳躍し、宙で蹴っていた。


 ボニータが舌打ちしながら手を伸ばすが、その指先をすり抜けてボールはゴールネットへ。

 だけどそのシュートは決まらなかった。ゴールラインを越える寸前、わたしが横から飛び込んで倒れながら頭でクリアしたのだ。


 クリアは不完全で、ほとんど飛ばずに床に落ちて小さくバウンドした。


 わたしはすぐさま立ち上がり、走り出し、ボールを追った。

 佐治ケ江も、踵を返しボールへと走り出した。


 二人は肩を並べていた。

 吹っ飛ばしてやるつもりで、わたしは佐治ケ江の華奢な身体に激しく肩をぶつけた。

 だけど佐治ケ江は、わたしのダーティな攻撃を受け続けていたため予期が出来たのか軽く引いてタックルをかわしていた。

 空へと体当たりをして、わたしの身体はぐらりよろけた。


 その間に佐治ケ江がボールを拾っていた。


 斜め後ろから、わたしは足を突き出した。そして足元を薙ぎ払うように勢いよく横に振るった。


 佐治ケ江はかろうじてかわした。


 わたしは再びラフプレーで佐治ケ江を蹴っ飛ばしにかかるかのような仕草を見せたかと思うと、その足でボールを蹴り飛ばしていた。

 いや、蹴る音がしただけであった。


 ボールはぴくりとも動いていなかった。

 わたしが蹴る反対側から、佐治ケ江が自分の足を当てていたのだ。

 筋力のろくにつかない貧弱な体型のくせに力比べを挑もうなんて生意気な、とわたしは佐治ケ江を睨みつけ、ぎりぎりと足に力を込めた。


 しかし、一体これはどうしたことか……

 少しずつであるが、佐治ケ江がわたしを押しているのである。


 どうして……

 佐治ケ江の未知なるパワーからくる恐怖にわたしの気持ちは萎えそうになったが、負けてたまるかと叱咤して顔を上げた。


 二人は睨み合った。

 二人はぎりぎりと、骨も砕けんとばかりに足に力を込めた。


 佐治ケ江は絶叫すると、一気に押し切っていた。


 わたしの身体は半回転し、足をもつれさせてどうと倒れた。

 なんだ、この力。もう疲労で限界のはずなのに。


 わたしは驚きと恐怖に目を見開いた。

 いや、まだ。負けてたまるか。


 気を取り直し、立ち上がった。

 佐治ケ江を睨み、ボールを奪おうと全身に気迫のオーラをまとい飛び込んだ。


 しかし……

 これまではその気迫で何度も佐治ケ江に対して勝利してきたが、もうその程度の気迫はまったく通用しなかった。

 何故ならば、前述した通りもう既に気迫においても佐治ケ江が上回っていたからである。


 気迫においても佐治ケ江が上回っている以上は、もうわたしに勝ち目のあるはずがなかった。

 もともと技術という面では、圧倒的に佐治ケ江の方が上なのだ。

 でも、かなわなかろうと関係ない。それでもわたしは佐治ケ江からボールを奪おうと、がむしゃらに挑み続けた。


 佐治ケ江も、わたしも、もう疲労の限界だった。

 いつ倒れてもおかしくない。


 わたしたち二人は、睨み合い、ぶつかり合い続けた。

 この異様な雰囲気に、他の選手はただ黙ってみていることしか出来なかった。


 実質、もう勝負はついているといってよかった。

 わたしは、佐治ケ江の持つボールに足をかすめることすら出来なくなっていたのだから。

 それでもわたしは、佐治ケ江へと身体を突っ込ませ続けた。


 まだまだだ!

 と、心で吼えてみても完全にエネルギーを失った身体をどうすることも出来なかった。


 わたしの膝はぶるぶると震え出していた。

 狂ったロボットのように、ぶるぶる、がたがた、と痙攣し、そしてぺたんと幼児のおままごとのように座り込んでしまっていた。


 佐治ケ江を睨みながら、床に手をつき、立ち上がろうとする。

 足が動かないなら、這ってでもボールを奪ってやる。


 だけど、その手にもまるで力が入らなかった。

 わたしは、立ち上がることが出来ず、ただ佐治ケ江を睨み、肩を大きく上下させてぜいはあ呼吸をしながら、身体をぶるぶる震わせていることしか出来なかった。

 その時であった。


 長い笛の音。

 第三セット終了の時であった。


 わたしは、現実に引き戻されていた。


 ゆっくりと、首を動かし周囲を見回した。

 みな、唖然と突っ立ったままわたしのことを見ている。


 わたしは呼吸を整えると、よろよろと、立ち上がった。

 がくり、と膝が崩れ、不様に尻餅をついた。


「梨乃……先輩」


 佐治ケ江が、やはりふらふらとした足取りでわたしへ近寄りすぐ横に立った。

 そして、深々と頭を下げた。


「ありがとうございました!」


 それは普段の佐治ケ江を知る者としてはとても信じられないほどの、絶叫にも似た大きな声であった。


 佐治ケ江は頭を上げた。

 その目には、涙が滲んでいた。

 つ、とこぼれ、頬を伝い落ちた。

 一度そうなると、もう止まらないようで、あぐっ、としゃくり上げると、続いてぼろぼろと涙がこぼれだした。


 わたしは、可愛い後輩へと笑みを作ろうとした。

 これまで散々と見せ付けてきた冷たい笑みではなく、包み込んであげるような優しい笑みを。


 と思ったのだが、結局、佐治ケ江へと笑みを向けることは出来なかった。

 わたしも、佐治ケ江と同様に泣き出してしまっていたからである。

 佐治ケ江と同様に、ぼろぼろと大量の涙をこぼしながら。


「ごめんなさい」


 わたしは、佐治ケ江へと深く頭を下げて謝っていた。

 理不尽な暴力にも似た仕打ちで、佐治ケ江を徹底的に追い込んでしまったことを。


 ふらり、と倒れるようにわたしは佐治ケ江の柔らかな身体へと抱き着いていた。

 こうしたのって久しぶりだけど、ほんとうにぐにゃぐにゃと柔らかいな。関節は、ちょっとのストレッチでも悲鳴を上げるくらい硬いくせにな。


 数秒の沈黙の後、またわたしは口を開いた。


「それと、ありがとう」


 わたしは、ようやく微笑むことが出来た。


 その言葉を受けてか、佐治ケ江の潤んだ目からさらに大量の涙が溢れていた。


 わたしが佐治ケ江の身体に回した手にぎゅっと力を込めると、佐治ケ江もゆっくりとわたしの背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてきた。


 もう、わたしになにもいう言葉はなかった。

 その必要すらなかった。


 この合宿に参加出来てよかった。

 心からそう思った。

 はる先輩、これでいいよね。

 わたしのしたこと、間違ってないよね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る