第86話 失踪
トラエスト城敷地内にある、宮廷魔術師長の居住邸の呼び鈴が、音高く鳴らされた。まだ早朝、執務時間前である。
「ヒルデ!ヒルデいるか!?」
呼び鈴下のラッパ、内部と外部の音声通話機に向かって怒鳴る声が、邸内に響いた。ヒルデは「エスペルか……」と呟いた。
ヒルデがパチンと指を鳴らすと、玄関扉が自動で開いた。エスペルは飛び込むように中に入った。
エスペルが勝手知ったるで真っ直ぐダイニングルームに入ると、ヒルデは椅子に腰かけ、独特な香りの茶をすすっていた。
「なんだ朝っぱらから血相を変えて……」
エスペルはつかつかと歩み寄ると、その前のテーブルにどんと両腕をつき、あえぐように言った。
「ライラが……!ライラが消えた!いなくなった!」
「……落ち着け。説明しろ」
「えっとその、よ、夜明け前にうちのアパートに死霊傀儡がやって来て戦闘して、そいつらは倒したんだ。でその後ライラと色々話したんだよ。かなり重要な話を、アパートの屋上で。話してその後部屋に戻って、俺もライラも仮眠を取ろうってことになって、寝た。死霊傀儡にソファぶっ壊されたから俺は床で毛布にくるまって。で一眠りして起きたら、ライラがいない。部屋中どこにもいない!」
「散歩にでも行ったんじゃないのか?」
「いいや、ライラは一人で外に出かけたことなんてない!それに……」
エスペルはポケットから、霊能感知器のペンダントを取り出し、テーブルに置いた。
「ライラのだ。これが置いてあった。俺の枕元に!」
ヒルデは茶を入れたカップを置くと、エスペルの置いた霊能感知器ペンダントをつまんで眺めた。そして長い前髪を指で耳にかける。
「なるほど。ついに裏切られたか」
「は!?」
「セラフィムからなんらかの形で接触があったんだろう。セラフィム側に戻って来い、というような」
「セラフィム側に?バカな、死にに行くようなもんだ!奴らライラを許して生かしておくような甘い連中じゃないぞ!」
「じゃあ追跡してみるか?俺の透視で」
ヒルデは立ち上がり別の部屋に行くと、水晶玉を持って戻って来た。
テーブルの上に布を置きその上に設置し、椅子に座ると、両手をかざす。
水晶玉の中に、像が浮かび上がって来た。
小さい羽の少女の像。
「ライラ!飛んでる!?」
ローブ姿ではなく、最初に出会ったときの、セラフィムの甲冑服を着ていた。
「ああ、飛んでるな。ほら見ろこの光景を。どこを飛んでいるか、分かるな?」
エスペルは顔をしかめた。
水晶玉の中、飛ぶライラの周囲に展開している風景。それはカブリア王国民なら誰もが見慣れたラック大山脈を望む、荒れた原野だった。
「帝都からカブリア王国に向かう街道上……」
しかも、
「既に赤い霧のドーム目前だな。ああ、もう着いた、飛ぶのが速いなすごいスピードだ。……おっと、霧の中に入ってしまった。すまんな、あの霧の中は俺の透視の力が及ばない」
ヒルデは手をかざすのをやめた。水晶玉の中の像は消失した。ヒルデは肩を回した。透視は精神力を消耗するのだろう。
エスペルは拳を握りしめ、既に像の消えた水晶玉を睨みつけている。
「ライラ……」
ライラはきっと
「助けに行かねえと!」
「裏切られたのに?」
エスペルの言葉にヒルデはふっと笑った。それは嘲笑と言うより
エスペルは声を荒げた。
「裏切られてなんかない!」
「分かった、分かった。会って確かめるしかあるまいな」
この言葉にやや意表をつかれ、エスペルはヒルデを見た。飄々とした顔をしているが、もしかしたらヒルデも本当は、ライラが裏切ったとは思っていないのかもしれない。
少し、落ち着きを取り戻した。
「ああ、そうだな。別に裏切りだって構わない、とにかく無事でいてくれればいいんだ。今すぐにでもカブリアに向かいたい」
「まあ待て、たとえセラフィムがライラを殺すつもりであっても、着いてすぐに殺されることはないだろう。俺がセラフィムならまあ、生かしておいて利用する。少なくとも貴様を捕らえるまでは。それにライラには
「うう、しかし……」
「立場を忘れるなよ、全権大使殿。未明にライラと話した『かなり重要な話』ってのは、なんだ?」
「あっ……、そうだな。話さねえとな」
エスペルはライラに言われたことをそのまま、ヒルデに伝えた。
最後まで黙って聴いていたヒルデは、げんなりした様子で、
「交渉とかいうレベルの話では、なさそうだな」
エスペルも苦々しい顔つきでうなずく。
「セラフィムが霧の中から出てこられないのは、プラーナつまり神気が彼らの生存に必要で、神気が充満しているのはあの霧の中だけだからだ。だから神気で地球上を覆ってしまおうとしてるんだ」
「神気を空気と置き換えれば分かりやすいな。もし我々人間が、空気の無い世界に行ったならば、その世界を空気で満たしたいと思うだろう」
エスペルは神域の中の凄まじい神気を思い出した。世界中に散らばる殺人セラフィムも絶望でしかないが、あの濃密すぎる神気もまずい。
あれ程の神気が地上に溢れたら、多くの人間が精神に異常をきたすだろう、と思った。あれは霊界にしか存在し得ない、禁忌級の神気である。自分だから耐えられたのだ。
エスペルは拳を額に押し当てながら言った、
「『次元上昇』はつまりこの地球を奴らの生存可能な状態に改造すること、そして『天界開闢』は……」
「神域の形成、すなわち地球に寄生のための基地を作り、そこから地球改造に至るまでの一連の事象の呼び名、なわけか」
「そうなんだ。連中は
そこに交渉の余地など、あるわけがない。
「その地球改造を行えるのが、神の生む子供達な訳だな。恐るべき子供らを生む前に、神を殺すしかあるまいな」
「ああ、でも、それだけで解決するかどうか」
エスペルは難しい顔をした。
「と、言うと?」
「一つの個体が死んだだけで滅亡する、なんて生物は、この世に存在しない」
「なるほど」
「神を殺してもきっと、なんらかの方法で奴等は繁殖が可能なんだと思う」
「だが、しかし」
「分かってる。それでもひとまず神を殺さなきゃな。とにかくあの場に行って、天界開闢のぶっ潰し方を確かめねえと!」
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