第55話 傀儡工房村、襲撃(4) 霧の中へ
大きく北に回り込み、エスペルたちはついに死の霧の真ん前にまでやってきた。
カア坊から降りた二人は、赤い死の霧を見上げた。
右手、景色の上方にはラック大山脈がそびえ、下方にはテイム川がすぐそこに、王国領内に向かって流れている。霧の中の長城に、テイム川を通す水門があるはずだ。
そして背後には大森林が広がっていた。
北の森林ルートが奏功したのか、ぱっと見た感じ、セラフィムの姿はどこにもなかった。
「俺はこの霧の中に入ろうとして、ライラに止められたんだよな」
「そうね。あの時はまさかこんなことになるなんて、思いもしなかったわ」
ついこの間の話なのに懐かしそうにライラが言い、エスペルも微笑んだ。
「さあ、入るか」
「オレモ、行ク!」
白煙と共に、カア坊は普通のカラスの姿に変化した。羽ばたいてエスペルの肩にとまる。
「おう、助かるよ相棒!」
そもそも馬ではなくカア坊に乗ってきたのは、死の霧内部に連れ込むためである。「使い魔は魂を持たないので死の霧では死なない、移動に役立つはずだ」と言って、ヒルデが貸してくれたのだ。
右肩にカア坊をとめたエスペルが、すたすたと赤い霧の中に突入しようとしたとき、
「ちょ、ちょっと待って!」
ライラが急に後ろから呼び止めた。
エスペルはライラを振り向く。ライラが切羽詰ったような顔で、エスペルを見ていた。
「どうした!?ああ、やっぱり、襲撃が怖くなったか?じゃあ俺一人でも……」
「そ、そうじゃなくて、えっと、その……。あなた本当に、死の霧で死なないの?」
エスペルは笑った。
「何言ってんだ、ライラが自分で言ってたじゃないか。出て来れたなら入れるはずだって」
「そ、そうなんだけど、頭では分かってるんだけど、急に心配になって……。骨になったらどうしようって……」
ライラはうつむいて、胸の前で落ちつかない様子で自分の手を揉んでいる。
「大丈夫さ」
ライラはもじもじと揉んでいた手を、おずおずと差し出すと、
「手……」
「ん!?」
「手、握って……!一緒に、入りましょう」
不安そうに眉根をさげ、まっすぐにエスペルを見つめてくるライラ。
「あっ……。う、うん、そうだな。手え、つなぐか!」
エスペルは照れたように笑うと、ライラの手をとった。綺麗な細い手。
ライラはきゅっ、と力をこめて、エスペルの手を握り返した。
「絶対、骨になんてならないでね!」
「大丈夫だって!心配しすぎだよ」
真剣な顔のライラと、なんだか嬉しそうなエスペルは、手を繋いで死の霧の中に入った。
赤い霧に全身が飲み込まれる。ひんやりとした冷気がまとわりつく。数メートル先も見えない程の濃霧。
距離の感覚も時間の感覚も、失われる心地がした。
異界に迷い込んだような不安な浮遊感の中で、ただライラと繋いだ手の感覚だけが確かなもののように思われた。
二人は無言で進んで行った。
やがてライラが緊張した声で言う。
「もうすぐ、霧から抜けるわ」
そしてギュッ、と強くエスペルの手を握りしめた。
固く手を握られながらエスペルは、臆して速度を落としたライラを引っ張り、先へと突き進んだ。
「大丈夫……大丈夫だ!」
霧は突然晴れた。
目の前には灰色の石をしっかりと積み上げた、カブリア王国を取り囲む、懐かしい長城。
はっ、と息を呑み、エスペルはその石垣を見上げた。
額の汗を拭った。
「ほ、ほらな、大丈夫って言っただろ」
ライラもほうっと深いため息をつき、胸をなで下ろしている。
「良かった……」
が、エスペルは急に苦しげに顔をしかめ、がくりと腰を落とした。
繋いでいた手をずるりと離し、大地に手をつく。
「っつ……!わるい、ちょっと待ってくれ!」
「なに!?どうしたのエスペル!?」
死の霧の内側、神域と呼ばれる領域は、立っていられないほどの「神気」が充満していた。
死の霧の前に立った時点で、神気の濃度が高いことに気づいてはいたが、内部はとてつもないことになっていた。
「すさまじい神気だな……。キリア大聖堂の神気を何百倍にしたような……。なるほど、『神域』か……」
はあはあと息をつきながら、エスペルは早鐘を打つ己の胸をぐっと抑えた。
ゆっくりと深呼吸をして、精神を落ち着かせる。
やがて頭をぶるりと振りながら、立ち上がった。
ライラが泣き出しそうな顔をして、エスペルを見ている。
「ねえどうしたの!?辛いの?」
「いや、もう大丈夫だ。慣れてきた。こんな強烈な神気の中でしか生きられないのかセラフィムってのは。贅沢な連中だ……」
「平気?歩ける?」
「ああ!さあてこの石垣を乗り越えなきゃな。頼むカア坊」
ひょいと自分の肩を見たエスペルは、低い声で「おい」と突っ込んだ。
カア坊が気持ち良さそうに寝ていた。
「お、起きろって!仕事だぞ!巨大化して俺たちのせて長城の中に入れてくれ」
「カア??モウ着イタノカ?」
「ったく呑気なカラスだな、死の霧を抜けてきたんだぞ死の霧!!」
「あ、あのねエスペル。『俺たち』って言ったけど私はもう一人で飛んでもよくないかしら?」
あっ、とエスペルは気づいた顔をする。
「それもそうだな」
「よかった……」
ライラは心底ホッとしたようにつぶやいた。
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