第36話 幼い日の記憶(1) フルーツボックス
あくる朝。
エスペルの寝室のベッドで目を覚ましたライラは、天井を見つめしばらく放心していた。
「ここ……どこ……」
上半身を起こし、狭い室内を見回した。着ている服は、ベージュ色のダボダボの膝丈くらいのワンピース。
ああそうだ、と状況を思い出した。
ライラは今、人間の世界にいるのだ。
イヴァルトに殺されそうになり、エスペルに助けられ、死霊傀儡に追われ、エスペルと共に戦い、城の風呂に入り、買い物をして、エスペルの部屋を掃除して、市場でエスペルが買ってくれたパジャマを着て寝たのだ。
「夢じゃなかった……」
そんなことをつぶやきながら、ベッドから降りて寝室のドアを開けて出た。
窓の木戸を開け、室内に光と新鮮な空気をいれる。
居間のリビングのソファに、エスペルがまだ眠っていた。
窮屈そうなソファで、足を放り出し毛布を蹴り落とし、でも気持ち良さそうに寝ている。
「そうだ、エスペルが私にベッドを譲ってくれたんだっけ」
ライラは落ちた毛布をエスペルの上にかけ直してやった。
しばらくエスペルの寝顔を見つめる。
昨日のエスペルとの色々なやり取りを思い出したら、くすくすと笑いがこみあげてきた。
昨日はとても長い一日だった。
でも楽しい一日だった。
この人はなんでこんなに優しいんだろう、とライラは思う。
こんなに誰かに優しくされたことはなかった。
こんなに大切に扱ってもらったことはなかった。
エスペルの寝顔を見ていると、なぜだか自然に微笑んでしまう。同時に、胸の奥がキュッと締め付けられる。
この気持ちはなんだろう……。
その答えを知ることは、とても恐ろしいことのような気がした。
ライラは怖くなって、エスペルに背を向けた。
台所に入る。
床に置かれた長方形の箱の上蓋を開けた。中はひんやりしていて、食料品が詰まっている。昨日買った果物も。この箱は氷結魔法で常に一定の低音に保たれているそうだ。
エスペルには、箱の中のものは好きな時に食べていいと言われていた。
見たこともない地球の果物がいっぱいだった。
(そうだ、せっかくだから)
とライラは思いついた。
(こんなに果物がたくさんあるなら、「フルーツボックス」を作ろう)
昨日掃除した時に、一回も使われていないまな板と包丁があるのは発見していた。
スイカにりんごにいちごにキウィにオレンジに。
ライラは器用に包丁を振るった。職人のような手さばきで果物を何やら加工していく。
フルーツボックスとはセラフィムがお祝いの時に作る、カットフルーツの詰め合わせだ。重要なのは美しい見た目。手先の器用さとアートセンスが問われる。
ライラはこれが得意だった。
三十分ほどして、ライラはふうと息をついた。
くり抜いたスイカの皮の中に、花畑をイメージした色とりどりの果実。
いちごはバラの蕾のように、キウイは緑のバラのように、りんごは皮を生かして野菊のように。
見事な出来栄えだった。
ライラは満足して、上機嫌でテーブルにフルーツボックスを置く。
エスペルはこれを食べてくれるだろうか、と考えたら、不思議と胸が高鳴り心が浮き浮きした。
が。
つと、ライラの顔が急速に曇る。
子供の頃の、ある記憶が呼び覚まされたのだ。
ライラが初めて、空を飛んだ日の事を。
※※※
セラフィムには家族という単位は存在しない。
乳児は乳児院で過ごし、子供は児童院で過ごし、大人になればそれぞれの「役名」すなわち職に対応する居住区に住まう。
児童院で暮らしていた十歳の頃。
ライラはまだ飛ぶことができなかった。
ほとんどのセラフィムが八歳より前に飛行術をマスターするのに、ライラだけは飛ぶことができなかった。
「無能なライラ、そんな小さな羽で飛べるわけがないわ」
「お前はどうせ一生飛べないよ」
同年代の子供たちに言われた。
ライラも、そうかもしれないと思っていた。こんな羽でどうやって飛べるというのか。
そんなライラが初めて空を飛べたのは、年に一度の収穫祭の日だった。
その日の朝、児童院の大きなキッチンで、子供たちは一人一人、フルーツボックスを作った。
子供達にとって初めての経験だった。
ライラは、思いの外、上手く出来た。他の子供に比べても、明らかに自分の作ったものの方が綺麗だった。
それから子供達は収穫祭にぞろぞろと出かけた。児童院の養育セラフィムに引率され、自らの作ったフルーツボックスを入れたカゴを持って。
そして、ピクニックの時間。
青空の下、敷物を敷いて、その上にめいめいが作ったフルーツボックスを開けて並べて。
子供達は自慢し合って笑い合って、お互いのフルーツを交換し合った。
いつもならそんな輪の中に入ろうとしないライラだったが、思いの外上手く出来たので、誰かに見て欲しかった。
「ね、ねえ見て!私の、誰か食べて欲しいの!」
幼いライラは、きっとみんな驚く、褒めてもらえる、と思いながら、自分のカゴを掲げて見せた。
すると子供達は。
爆発するように笑い出した。
その笑い方がとても嫌な感じで、ライラの背筋がゾッとする。体が、ガクガクと震えだした。
ある女子が、言った。
「きゃー汚い!ライラのフルーツボックス!」
「あはは、あはははは!」
「おまえ食べろよ!」
そう言いながら男子がライラの手からフルーツボックスの入ったカゴを奪い取って、
「いやよ絶対食べたくない。あんたが食べなよ」
女子はカゴを押し返す。
「わーやめろ、俺に渡すな!」
その男子はカゴをポンと別の男子に投げた。男子はカゴをキャッチして楽しそうにキャッキャと笑った。
「きったねえーー!!」
「誰か食べろよ!」
「逃げろおーー!」
「きゃーー!」
そんなやり取りを見ているうちに、ライラの震えはいつの間にか、収まっていた。
ライラは、泣かなかった。
「くっだらない。バッカみたい」
そう言って、周囲を睨み返した。
それが子供達を、苛立たせた。
子供たちは目を剥くと、ライラのカゴを開けた。
ライラのフルーツボックスの中身を、ライラに向かって投げつけ始めた。
ライラは両腕を上げて自分の身をかばった。
それは今まで投げつけられたどんな物より、一番痛く感じた。
……逃げたい。
逃げたい。
逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい。
不意に、ふわり、と体が浮く感覚がした。
ハッとして足元を見ると、ライラの足が地面から離れていた。
「わ、わたし、浮いてる……!?」
次に、突風が身体の中を吹き抜けていくような心地がした。
風の轟音と突然の寒さに、ライラは思わず目を瞑った。
一瞬の後。
ライラは、空に浮かんでいた。
下の方に、収穫祭の会場である大広場の装飾や、大勢のセラフィム達が、玩具のように小さく見下ろせた。
「飛べ……た……!」
子供達が、驚愕の表情でライラを見た。
「ラ、ライラが!ライラのくせに、飛びやがった!」
子供たちは怖い顔をして地面を蹴った。
たくさんの子供達が、一斉に宙に飛び出した。
ライラめがけて、追いかけてくる。
ライラは逃げた。
初めての飛行とは思えないほど自由自在に、そしてとてつもない速さで、ライラは飛んだ。
ライラに追いつけない子供達がハアハアと息を切らし、一人、また一人と地上に降りていく。
誰もライラに追いつくことはできなかった。
ライラは、誰よりも速く飛行できるようになった。
※※※
「嫌なこと、思い出しちゃったな」
ライラは自分のおでこを手で押さえた。そのまま手を後ろにスライドさせ、前髪をかき上げる。
苦笑いとともに。
大した話ではない。ずっと前の話。子供の頃の話。
今まですっかり、忘れていた記憶。
そう、大した話じゃない。
なんであんなつまらない記憶を思い出してしまったのだろう。
そうだ、こんなものを作ったせい。
ライラはフルーツボックスを見下ろし、自嘲気味につぶやいた。
「こんなの、作らなきゃよかった……」
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