第92話 ロッドミンスター東部の戦い

「国王ウルフレッドは我らを見捨てた!」


「だがイシュマールに降伏する者は奴隷にされるか、奴らの慰みものにされるらしいぞ」


「ではどうする、国境まで逃げて帝国に匿ってもらうか?」


「馬鹿なたどり着けるわけがない」


 ロッドミンスター内各都市でこのようなやり取りがかわされていた。


 ウルフレッドの軍団はすでに王城を出撃していたが、イシュマールによる侵攻の恐怖を身近に受ける沿岸部から内陸はすでに正常な統制を失っており、情報が行き渡らなかった。


 ゼセックスから西に点在する諸都市の首長らはかねてよりの計画どおり、住民の避難を誘導を優先し、しかる後近隣部隊を結集させウルフレッドの主力軍への合流を図ることを目指した。


 しかしゼセックスが予想を遥か上回る速度で陥落してしまったことで、この想定が崩れた。


 満足に民衆の避難誘導をしている猶予がないことがわかると、諸都市の兵士たちは浮足立ち、我先に逃げ出す者が無視できない数に上った。


 そして民衆は兵士たちの動揺を感じ取ると、この戦は勝ち目がいないと認識し、その恐怖をまたたく間に周囲で伝播させ。もはや収拾のつかない混乱状態へと陥ってしまった。


 こうなると各都市の首長たちも極めてシビアな判断を求められる事態となった。


 つまりイシュマールと交戦するか、僅かな部隊と共に後方へ逃亡するか、あるいは降伏するかである。


 これらの分かれ目は、首長のたちの性格だけで決定されたわけではない。


 事前にイシュマールによって工作を受け、内応していた首長が少なからず存在していた。


 彼らは領内の民衆に対して平時の際からイシュマール人に対する印象を操作していた。


 イシュマール人は文明的で温和な存在であり、我々は友好関係を築くことができる。


 イシュマール文化はとても先進的であり、我々の模範となる。


 イシュマール男性はロッドミンスター男性よりも優しく、力強く、誠実であり生涯惜しみないを愛を与え続けてくれる。


 こうした情報を領民に流布し続けることで、始めは興味を持たなかった民衆であっても徐々にイシュマールに対する恣意的な先入観を植えつけられ、警戒心を解いていく。


 まだ見ぬイシュマールへの夢想を抱き、増長させていく。


 そうして警戒心が緩みきったところで満を持したイシュマールの軍団が現れゆうゆうと入城し、期待と歓喜をたたえて迎え入れた住民をたやすく支配する。


 そうやって自らの土地を明け渡した首長たちはイシュマールに連れて行かれたのち、通常よりもややマシな奴隷としての地位をあてがわれた。


 こうして征服は進行していくのであった。


 一方、抵抗を試みた首長とその勢力もあった。


 ロッドミンスター東部の小領主、ウォルター・カソロ子爵は若いながらも才覚に恵まれた人物として評判があった。


 父が急逝して爵位を継承したばかりであったが、その内政手腕は父にも優るのではと領民や側近から期待されていた。


「ウルフレッド王が軍勢を整えるまで、なんとしても敵の進攻を遅らせなければ」


 カソロは側近たちはそう訴え、彼らの同意を得たものの、カソロの領地は小さく従う兵も少なかった。


 そのためカソロは周辺の領主たちへ使者を送り兵力の糾合を図ったが、混乱を極めた状態にある周辺諸都市からは良い返事を得られないでいた。


 そこでカソロは一計を案じた。


 自ら小勢を率い、その先頭に立って諸都市を巡り、その城門でこう叫んで回ったのである。


「我らこそ王の軍勢。ウルフレッド王の下へ共に馳せ参じようという者は、直ちに我らに加われ」


 混乱や日和見から統制を失っていた諸都市の兵士たちは、突如として現れたこの堂々たる態度の若き貴族の姿を見て心を動かされた。


 外敵の侵攻を受けているという不安、その中で態度を決めかねている自らの主君への不信、それらの感情から解き放たれようと行動を起こした者たちは、静止を振り切って城門から飛び出し、カソロの軍に加わった。


 そうして諸都市を巡るうちにカソロの軍勢は半日で三千にまで膨れ上がったのである。


 しかしそれでも三千。五万の数えるイシュマールの先遣軍に対しては防壁にもならない小勢。


 だからカソロはこの三千を最も有効に働かせることを考えた。


 すなわち領民の西方への脱出の支援である。


 現在ロッドミンスター東部の諸都市には数万の民衆が生活を送っている。


 彼らの西方への脱出をカソロは訴えかけたのである。


 これはカソロ家が代々イシュマールと交易を通じて交流があったことによって、彼らイシュマー人とその軍勢の特性について熟知していたからこその判断である。


 つまりイシュマールに降伏した異民族は奴隷として最下層に落とされ、再びその民族が人としての権利を得るには遥かな歳月を経なければならないと知っていたのだ。


 だから三千でイシュマールに対抗することは不可能でも、民衆を都市に置き去りにすることはできないとカソロは考えた。


 従って民衆へ西方への脱出を指示し、自身と三千で脱出の支援を行ったのだった。


「目障りなハエがいるようだ」


 というのは、イシュマール先遣軍の司令官、サラーム・ムガルティンがこぼした言葉である。


 カソロが率いる三千はこの数日の内にロッドミンスター東部の各地へ神出鬼没に現れては一撃離脱を繰り返し、イシュマールの物資を焼き払い、井戸へ毒を投げ込んだのだ。


 このロッドミンスターの小部隊はムガルティンを少なからず苛立たせた。


 先遣軍五万を維持するには膨大な物資が必要であり、それを異国の遠征の地で確保することは容易ではない。


 後続には別の選帝侯が率いる軍勢が控えており、彼らが上陸してきたときに橋頭堡が崩れかかっていでもしたら、それはムガルティンの沽券に関わる事態である。


 なにより、あのイスマイル・ユセフの勘気を被ることになるのはムガルティンといえど避けたかった。


 そこでムガルティンは戦上手の評判の通り、ある手を打った。


「焦る必要はない。ここは甘い蜜を垂らして待つとしよう。やがてハエが群がるまで、な」

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