第107話 やっと出会えた
「きゃあ!」
爆音と猛風に紛れてセリナの鋭い悲鳴が聞こえると、リリシアは舵にしがみつくようにして後方のセリナに立ち上がらないでと怒鳴った。怒鳴りでもしないと、声が風に掻き消されてしまう。
「大丈夫ですか!セリナさん!」
「あ……、はい!」
操縦席側からリリシアの問い掛けに、セリナは喘ぎながらも怒鳴り返した。これで何度目かわからない激震に、セリナはアイーシャを抱きすくめたまま、通路の隅で小さくうずくまっていた。
リリシアからは乗組員用の仮眠室で避難するよう指示されていたのだが、やはりここにも窓はなくかなり狭い。アイーシャがひどく嫌がったこともあったし、セリナにしても不安が増すだけでそれよりはと、状況がわかるリリシアの近くにいた方がマシだと思った。
「リリシアさん。何か手伝えることは……」
「ここは危険、入らないで!」
リリシアが怒鳴ったあと、獣のような唸り声がセリナの耳に届いた。物陰から覗くと歯を食いしばりながら、舵を握るリリシアの姿があった。猫の手も借りたいのが本心だが、アイーシャを抱えている身では、ここは危険すぎる。
艦長らを操縦席ごと退避させたため、リリシアは立ったまま操縦している。艦橋内は若干広くなったものの、脱出の際に天井も外れたことで急激に減圧し、操縦席の窓も全て割れ、魔空艦の外気と内気のバランスがかなり崩れていた。リリシアだから耐えられたが、常人なら外に放り出されていたところだ。
「早く高度を下げないと……!」
正面から分厚い雲とぶつかって視界が真っ白となり、リリシアはわずかに開けた視界でキーボードに入力して設定すると、魔空艦はぐんと震動して高度を下げ始めた。その間、リリシア舵をぎゅっと握り締めていた。あらぬ方向へ回転しようとする凄まじい力に、必死に抵抗していた。
「リリシアさん!」
セリナは叫ぶが、かといってどうすることもできない。
「……お母さん」
セリナの腕の中で、襟を握りしめてくるアイーシャに、セリナは応えるようにして腕に力をこめた。
だが内心には忸怩たる思いがある。守られているだけ、我が子を抱きすくめるだけしかできないでいる状況がもどかしく、力のない自分が情けなく思えた。
――何かしないと。
リリシアの指示を軽視したわけでも忘れたわけでもないが、無力感と焦燥の念がセリナの中で勝り、艦橋の様子を窺おうと立ち上がった時だった。紅い閃光が上空を駆け抜け、艦橋内を煌々とした光が射し込んだ。バハムートとエリシュナの魔空艦との戦闘で撃った流れ弾だが、衝撃は凄まじく、大きく外れても重い音とともに艦が大きく揺れた。
「あっ!」
手すりに掴まってはいたものの、一気にバランスを失いよろめいた。客室や王族の寝室などが設けられている階下と異なり、硬い床となっている。
倒れると思ったその時、力強い腕がセリナの身体を抱きすくめた。
「セリナ、無茶するな」
たくましく太い腕に分厚い胸板。
懐かしく、温かな声が耳元でした。胸のうちから熱いものが込み上げてきて、そのまま頬に涙が伝うのを感じていた。
確認などしなくても、それが誰の声なのかすぐにわかった。この一年余り、アイーシャから話を聞く度に反芻していた。
「……おひさしぶりです。リュウヤさん」
「すまん。長い間、待たせたな」
「いえ」
と、セリナは顔をあげて首を振ったが、その後は言葉にならなかった。遠目でも一度は見たはずだが、間近で見るリュウヤの凄惨な顔つきに、セリナは唾を呑み込んだ。
頬は痩け、乱れた髪に濃い無精髭。
聖霊の神殿で再会を果たした時のリュウヤは、初めて出会った頃の面影を十分に残していたが、今はまるで別人のように見える。
一体、ここまで来るのにどれほどの辛苦を味わったのか。改めて考えるだけで心が傷んだ。
それも自分なんかを助けるために。
セリナには言うべき言葉が見つからず、ただ、リュウヤの胸元に身体を預けている。リュウヤは熱くなったセリナの背中を優しくさすりながら、大きな瞳でじっと見つめるアイーシャに微笑を向けた。
「こんにちは、アイーシャ」
「こんにちは、お父さん」
「俺をお父さんて、呼んでくれるんだな」
「へへ……」
アイーシャは明るく笑ってみせたが、すぐに顔をくしゃくしゃにして泣きべそとなった。
「何だよアイーシャまで。二人とも泣き虫だなあ」
ぼんやりと笑って頭を撫でるリュウヤに、だってとアイーシャは言った。
「朝ね、お父さんの夢を見たの。でもね、いつも夢で見るお父さんと違って、怖くて、悲しくて、カワイソウで……」
「そうか」
アイーシャのカワイソウという言葉が、リュウヤの胸をチクリと刺した。
アイーシャがリュウヤの夢を見ているという話は、クリューネから耳にしていた。話を聞いた時、リュウヤはアイーシャとどこかで繋がっているという嬉しさもあったが、命を懸けて闘う姿を見せることは、アイーシャに暗い姿を見せることでもある。特にゼノキアは、卑怯な手段も厭わない覚悟で乗り込んできた。
一番、リュウヤが見せたくないものを、アイーシャに見せてしまったのだろう。
「大丈夫。こうやって、アイーシャとお母さんと会えたから。俺はもう大丈夫」
「ホントに?」
「ああ。落ち着いたら、一緒に遊ぼうな」
アイーシャはうんと強く頷いた。一方、セリナは涙が止まらず、リュウヤの胸に顔を埋めたままでいる。
「ほら、アイーシャが頑張ってんだから。お母さんもしっかりしなきゃな」
「は、はい。ごめんなさい」
リュウヤがセリナの涙を拭うと、ようやく笑みを溢した。リュウヤも釣られて笑った。心がほっこりと温まる。こんな気持ちは何年ぶりだろう。
「リュウヤ様!」
リリシアの悲痛な怒鳴り声が、約五年の月日を経て初めて味わった団らんの空気を打ち破った。
リリシアにもラング一家を祝福したい気持ちはある。だが、今はそれどころではなかった。高度も方位も狂ってしまっていたし、舵を握りしめて船のバランスを保つのがやっとだった。
「こっちを手伝ってください!」
「わかった、待ってろ!すぐ行く!」
リュウヤはリリシアに向かって大声で返すと、セリナたちを座らせ鎧衣(プロメティア)の基であるペンダントをセリナの首もとに掛けた。
「あの、これ……」
「セリナは魔法使えるよな。危なくなったら、これを使ってくれ」
「でも、私には回復系で軽い火傷治すくらいしか」
「上等だよ。俺は擦り傷治すくらいの回復魔法の力しかない」
「……」
「それは
「そんなもの……」
私には使えませんと言い掛けたところを、大丈夫だと言ってリュウヤが遮った。
「操作は確かに難しいが、一定時間バリアを張るだけなら、魔法が使える者なら誰でも出来る。自分の魔法を、そのペンダントについている石に唱えればいい。そうすれば
「……」
「だけど、セリナの魔力だとせいぜい数十分だ。タイミングを計って使いな」
「でも、それならリュウヤさんが持っていた方が良いんじゃないですか」
「俺はもう、スッカラカンなんだよ」
訝しげな顔をするセリナに、リュウヤは力なく笑って立ち上がった。
「魔力がもうないんだ。今の俺が持っていても仕方ない」
「……」
「アイーシャを守ってくれ。いいかな」
「……はい。わかりました」
お母さんを頼むなとアイーシャに言い残して、リュウヤは操縦席で格闘しているリリシアの下に駆け込んでいった。
リュウヤが狭い艦橋に入ると、リリシアの隣に立ち、エラーや異常の警告表示だらけのディスプレイを睨みつけた。
「まずはどうする」
「右舷に艦が傾き過ぎてます。6度修整してください。方位も東に流されているからその修整も!」
「わかった……!」
リュウヤは叩きつけてくるような猛風に耐えながら、キーボードを打った。リュウヤにはリリシアのような勘や計算力は無いが、指示があれば入力くらいはできる。リリシアが隣で叫ぶように指示しながら、リュウヤはディスプレイを凝視し、キーボードを叩き続けていた。
あとすこし、とリリシアが叫んだ。
「あとすこしで雲を抜けます……!」
リリシアがそう言った時、急に空気が軽くなった。魔空艦が分厚い曇の下に出ると、急に艦体は安定し、ディスプレイに表示された赤色の異常や警告表示も正常を示す緑色に変化した。まだ強い風が侵入してくるが、先ほどまでの絶望的な嵐と比べれば、微風のようなものだった。
舵も羽根のように軽く感じる。隣ではリュウヤが大きく息を吐きながら、後ろを振り返った。
「セリナ、アイーシャ。怪我はないか」
「はい。リュウヤさんとリリシアさんは……」
「へっちゃらだ」
弛緩した空気が辺りを包み、ほっと安堵するリリシアだったが、まだ戦いが終わったわけではないと、すぐに気持ちを引き締め直した。
「リュウヤ様、クリューネは?」
「後で追いつくとは言っていた」
「ひとりで大丈夫でしょうか」
大丈夫だとリュウヤは断言した。
「まともにぶつかって、バハムートに勝てるやつはいない。バハムートの力と速さなら、俺たちに充分追いつける。計画通り、このままムルドゥバまで行ってくれ」
リュウヤはそうリリシアに指示すると、様子を見てくると言って、窓の枠をよじ登り、無くなった天井から顔を出して後方を見つめた。
リリシアには大丈夫と言ったものの、やはりクリューネが気になる。
殿は無理に勝つ必要はない。バハムートの制限時間も迫っている。機を見て早く逃げてきて欲しいと、リュウヤは祈るような思いで灰色の曇が広がる空を見上げていた。
薄暗い雲の隙間から光が差し込んで海を照らし、波によって砕かれた光が海上でキラキラと輝いている。
まだかと思ったその時、不意に轟音とともに強烈な光が瞬くのが見えた。雷かと思ったが、獣の咆哮に似ていた。不安がリュウヤの胸をざわつかせ、光が発した方向を注視していると、その分厚い曇を割って、巨大な影が落下してくるのが見えた。
長い首に巨大な翼のシルエット。雲間の光が影を照らされると、バハムートの白い巨体が血で真っ赤に染まっているのが、リュウヤの位置からでもわかった。
リュウヤは目を見張って、呆然とバハムートの姿を追っていた。
「クリューネ……」
偉大で強大な力を持つ竜が、今は力なく無残な姿で真下の海へ落ちていく。バハムートが巨大な柱のような波しぶきをあげる横を、船の形をした魔空艦が通り過ぎていく。エリシュナという女が指揮しているはずの、魔空艦だった。
「バハムートが、負けたていうのか?」
これまで予想外の事態は何度も起きたが、それでも乗り越えてここまできた。
しかし、あまりにも予想外の事態に、リュウヤは愕然として言葉が出なかった。
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