第105話 私は……
「では、私について来てください」
エリシュナが現れる少し前まで、時間はわずかにさかのぼる。
リリシアは倒れたヤムナークを破ったシーツをヒモ代わりに両手両足を固く縛ると、長身のヤムナーク担ぎ上げ、セリナたちを促して部屋の外に出た。小柄な外見にも関わらず、リリシアにはかなりの膂力がある。
セリナの話によれば、敵は艦橋の二人を除いてはヤムナークだけだという。しかし、リリシアは油断はすることなく黙って歩いている。その後ろで、セリナはリリシアの小さな背中と頬を腫らしたヤムナークを、セリナはじっと見つめていた。セリナがようやく口を開いたのは、階段をあがり、艦橋に繋がる狭い通路に入った時だった。
「ヤムナークさん、生きてるの?」
「大丈夫。気絶しているだけです。あなたたちの前で、あまり血を流したくないので」
どうやら無事らしいと安堵すると同時に、何故、ヤムナークを連れていくのかという疑問が湧いたが、セリナが口にしたのは全く別の話だった。
安堵したことで、先ほどリリシアから聞いた話を不意に思い出し、嫉妬に似た感情がセリナの心に火をつけていた。
「リリシアさん……、だっけ?」
セリナに抱えられたアイーシャは、母とリリシアの間に生じた険悪な空気に狼狽え、血走った目でリリシアを睨む母を、ただ見つめることしかできないでいる。
「……この一年間、リュウヤさんと、ずっと一緒だったんでしょ」
「……ええ」
ヤムナークの身体を縛りつける間、セリナにはこの一年余りの間、リュウヤとセリナを助けるための旅を続けていたということを説明していた。その間にセリナの表情はますます険しくなり、リリシアは正視に耐えられず、顔を合わせることをしなかった。
「ずっと旅していたてことは、食事も眠る時も、ずっと一緒だったんでしょ」
「そうです」
「その間、ずっと……、ずっと、あなたはリュウヤさんに抱かれていたんでしょ」
「違います。何もありません」
嘘よと、セリナが叫んで立ち止まった。
「一緒にいて、何も無いわけないでしょ。現にあなたはリュウヤさんと夫婦になるはずだったんじゃないの」
「そのことについては、申し訳ないと思っています。ですが、私もリュウヤ様もあの時は……」
「なにがリュウヤ“様”よ。ふざけたことを言わないでよ」
「……」
ヒステリックに
――私もこうだった。
リリシアには、かつてのリリシア自身の姿と重ね合わせている。
死んだはずのセリナが生きていたと知り、リュウヤに捨てられまいと必死にすがろうとした過去の自分。泣き喚き、身籠ったと嘘までついてひき止めようとしたかつての自分。結果、空回りしただけで、リュウヤやクリューネを前に醜態をさらしただけだったとリリシアは思う。
「リュウヤ様は、私にとって大切な人には変わりません。その気持ちは残しておきたいんです。確かにいろいろありましたが、この一年間は何もありません。リュウヤ様はセリナさんだけを見て過ごして来ました。私が入る余地なんて全然無かった」
嘘とセリナが声を震わせた。
その場から動こうとしないため、リリシアも仕方なく立ち止まり振り返った。リリシアとセリナの視線が正面から衝突した。炎のように燃え盛るセリナの視線に、リリシア思わず視線を逸らした。
「アイーシャ。あなたリュウヤさん……、お父さんが冒険する夢をいつも聞かせてくれたわよね」
「う、うん……」
「本当にそれだけ?あのお姉ちゃんと何かしてない?」
「……」
アイーシャはセリナの言っている意味がわからず、幼い顔に途方に暮れた表情が浮かんだ。
リュウヤの夢を見る時は、リュウヤが放つ殺気や闘気を感じて夢を見る。だからアイーシャが見る夢の内容は戦ってばかりなのだが、幼いアイーシャにはそんなことは説明できなかったし、ましてや話を聞くだけのセリナにもわかるはずも無かった。
「わかんない。お母さん、何?わかんないよ」
「わかんないことないでしょ。簡単なことよ。あの人が淫らな……」
「セリナさん!」
リリシアの訴えるような悲痛な声が、セリナを我に返らせた。
アイーシャは怯えた様子で、目には涙を一杯に溜めていた。その時になって、自分が何を口にしたのかを思い出し、激しい後悔に襲われながらアイーシャをあやした。
「セリナさん。自分の子どもに何てことを」
「……ごめんなさい。アイーシャもごめんね」
アイーシャは「うん」と頷いて、セリナの衣服にぎゅっとしがみついた。
不思議な力を秘めているが、普段のアイーシャはどこにでもいる女の子で、トイレもまだ一人でいけないような、か弱い存在でしかない。
――そんな子に八つ当たりするなんて。
ミルト村にいた時の自分は、こうではなかった。
もっと明るくおおらかで、優しく振る舞えたはずなのに。いつからこんな風になってしまったのだろう。
――これが私の本性?
そこに思い至ると、愕然として、セリナの全身から力が抜けていくような感覚があった。
「急ぎましょう。外ではリュウヤ様たちが闘っています」
「はい……」
「それでは、ここで待っていてください」
「ヤムナークさんを、どうするつもりなんですか?」
「魔空艦を奪うのに、このまま一緒にいても仕方がない。彼らに引き取ってもらいます」
「……?」
重く不快な音を立てて、くの字に歪んだ鉄の扉が艦橋内に崩れ落ちると、操縦席では二人の男たちが、驚愕した様子で後ろを振り返った。
そんな彼らの頭上に、一人の影が覆い被さってきた。後ろ手に縛られた老執事の男――リリシアに放り投げられたヤムナークの長身が男たちの頭上にぶつかってきた。狭い艦橋に座席に座り込んでいた二人は逃げることも出来なかった。
『ぎゃっ!』
特にヤムナークの石頭と衝突した副長は堪らず、異様な声を立てて気絶し、座席からずり落ちていった。
『な、なんだ……?や、ヤムナーク殿!?』
「この船は私らレジスタンスが占拠しました。即刻、船から出ていってください」
『な、なにを子どもが抜かす……』
ズガンと強烈な音とともに、歪んでいた鋼鉄の扉が二つに割れた。その間には、魔法陣に覆われたリリシアの拳がある。
「私は子どもじゃない。もう一度言ったら、この扉みたいになる。了解?」
ゆっくりと立ち上がったリリシアは、扉の破片を粉々に砕いてみせた。外見からは想像もつかないパワーに、艦長は慌ただしく何度も頷いた。
「あなたはその人たちを連れて、即刻この船から降りなさい」
『お、降りろつったて、空の上で無茶だ』
「この船の操縦席には、パラシュートが用意されているはず、それで脱出すればいい」
『この船はどうすんだ?俺たちがいなかったら……』
「心配ない」
リリシアはおもむろに艦長に近づくと、パネルやキーボードを手早く打ち込み、次にモニターに表示された速度、高度、方位、昇降率を修整すると、モニターには“自動操縦”という文字が表示された。すると魔空艦は急に減速をし、安定した速度で航行を始めた。
艦長は目を見張って、自動操縦される魔空艦とリリシアを見比べていた。魔空艦を操縦するには、相応の教育や訓練が必要だが、事も無げに操って見せている。
『バカな。素人に操作が出来るなんて……』
「レジスタンスである程度の知識は学んだ。この程度の船なら一人で操れる」
キーボードで打ち込むだけならリュウヤでも可能だったのだが、それ以上の操作はリュウヤやクリューネの手に余った。だが、リリシアには不思議な勘があり、レジスタンスに加わった魔空艦で練習した際、一度の説明と実習で習得してしまっていた。
「これで、私の方の問題は解決した」
そう言って、リリシアは更に艦長の傍に近づいた。子どもと言っていた小柄な身体がやけに大きく、押し潰されそうな威圧感が艦長を襲った。
「次はあなたが行動する番。あの親子のためにも、出来れば血を流したくない」
恐怖に怯える艦長の前で、リリシアはポキリポキリと拳を鳴らしてみせた。
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