第63話 泣くな、神竜

 クリューネの目覚めは早く、時計をセットしなくても朝五時には目が覚めてしまう。

 メキアで盗人生活だった頃は不規則で自堕落な生活だったが、リュウヤと旅をするようになってからは、日中帯で出来るだけ距離を稼ぎたいということもあって、早寝早起きが習い性となっていた。

 かといって、ここ聖霊の神殿ではすべきことは特になく、二日以上の逗留者に義務付けられている部屋の清掃活動くらいのものである。

 それも済ませてしまうと、本当に暇となってしまい、二度寝しようにもどうにも寝付けず、ベッドの上でぼんやりと天井を眺めていた。

 寝られないのは、昨日のナギが見せた“聖鎧神塞グラディウス”に対する興奮が、自分の中に残っていたのかもしれないとクリューネは思った。


「……散歩にでも行くかの」


 リュウヤなら剣術の稽古に励むだろうが、そんな疲れる趣味などクリューネには無い。クリューネは眠気覚まし、腹ごなしにと思って部屋を出た。

 聖霊の神殿の気候は冬でも温暖で、薄着でも早朝の散歩には支障がなさそうに思えた。外に出ると濃い霧が辺り一帯を覆っていたのには閉口したが、道や方角くらいはわかる。

 とりあえず海でも見に行こうかと、ぷらぷらと歩き始めた。門番のジランは仮眠室で寝ているはずで、正門の詰所は空だった。

 クリューネは門を抜けると、そのまま船着き場へと足を運んだ。日の出にはまだ時間があり、薄暗い草原の中に一本道が拓けている。


“神竜様のお通りじゃ

 爆裂、猛進、縦横無尽

 リリシアなんぞ、なんぞのものか

 あんなカマトト、負けやせぬ

 嗚呼、コンチクショー

 コンチクショー”


 などと神竜のわりに、ひどく下品でくだらない即興曲を大声を張り上げて謡いながら、意気揚々と歩いていたのだが、船着き場にうっすらと浮かぶ人影に慌てて口をつぐんだ。

 霧の奥から、快活な声が聞こえた。


「あ、おはようございます。クリューネさん」


 声の感じからセリナだとわかると、咄嗟(とっさ)に先ほど謡ったへぼ唄など忘れたことにして、「よお、セリナか」などとわざと声を張り上げて誤魔化そうと姑息なことを考えている。

 さっきのへぼ唄を聴かれなかったかと、内心、ひやひやしている。


「何しとる。こんな朝早くから、ひとりで」

「海を眺めてました」

「そこから見ていても、暗くて何も見えんだろうに」

「私、ここに来る前、海を見た記憶が無くて。朝起きると、ついここまで来て海が見たくなるんです」

「……アイーシャは、まだ寝とるのか」

「ええ。三歳になってからは、他の子どもたちと一緒に」


 その後、二人は無言で佇み霧が立ち込める海上を眺めていた。しばらくすると、水平線の彼方からほのかな光が差し込んできた。

 目映い光明が二人を照らし、太陽が一日の始まりを告げに姿を現した。


 ――本当に、リュウヤが口にした女と同じやつなんだろうか。


 もしも同じ女だとしたら、自分はどんな反応をしてしまうのか、質問するのにしばらく逡巡したが、クリューネは思いきって口を開いた。


「……ナギから聞いたがの、お主の旦那は死んだことにしとるそうだの。何か思い出せんのか」

「思い出したいんですけどね」


 セリナは寂しそうに首を振った。


「頭がチリチリと傷むんです。ナギ様はその時に受けた心の傷のせいで思い出すことを拒否している、と言っているんですけど」

「……リュウヤ」

「え?」

「リュウヤという名前に心当たりないか」


 言われてセリナは考え込んでいたが、不意に頭を抑えると小さな呻き声をだした。その場にうずくまってしまい、クリューネが傍に寄ると、セリナの両目から涙が溢れていた。


「大丈夫か、セリナ」


 クリューネが助け起こすと、セリナは激しい息づかいで喘いだまま、すみませんと消え入りそうな声で謝った。


「何か思い出せそうだったんですが、急に胸が苦しくなってしまって……。ごめんなさい」

「いや、いいんじゃ。悪かったな」

「クリューネさんはそのリュウヤという人に、何か心当たりでも?」

「勘違いじゃ。すまん、忘れてくれ」


 自分の言葉に嫌悪感を覚えながらも、クリューネは手を振って謝ると、先に戻ると告げて踵を返した。


 ――私は卑怯ものだ。


 背を向けたクリューネの表情は暗く、自己嫌悪に苛まれていた。

 別人という期待をして、思いきってリュウヤの名前を出したのだが、セリナが思い出せそうもないことに安堵している自分がいた。

 クリューネはセリナの異様な反応から、リュウヤが口にした女と同一人物だと確信している。

 しかし、自分が黙っていれば、セリナはリュウヤを思い出さないで済む。リュウヤをセリナに会わせないで済む。

 クリューネは、そんな自分の浅ましさに呆れていた。

 

  ※  ※  ※


 セリナはてきぱきと手際よく働く。

 平日昼間では、子どもたち相手に読み書き計算を教えているが、それ以外ではナギと一緒に、炊事洗濯家事に勤しむ日々を送っている。

 ナギも大いに助かっているといった口ぶりだったが、渋滞のない軽やかな動きを見ていると、確かにそうだなと納得させられるものがあった。


 ――敵わんな。


 クリューネはふと思う。

 顔は十人並みといったところで美人といったタイプではないかもしれないが、優しくて気立てがよく、陰日向がない。

 包容力もあって、人を立てるのが上手い。リュウヤが惚れ込んでいるのもわかる気がした。


「アイーシャよ、お主は父親おらんで寂しくないか」


 セリナが庭で、子どもたちと洗濯物を干している光景を眺めながら、クリューネは傍らで絵を描いているアイーシャに言った。ナギは日曜に行われる午前の祭礼に出ていた。

 表の礼拝堂は参拝者で賑わいをみせていたが、居住区となる裏庭まては届かず、わずかなざわめきが聞こえてくる程度だった。


「のう、どうじゃ」

「んー、わかんない」

「わからんことなかろう。お前の父親だぞ」

「ナギ様やお母さんとか、みんながいるし……」


 アイーシャは描き終わった絵を、はいと言ってクリューネに見せた。


「剣士様がいつもそばにいるし」

「好きだの、お主は剣士様が」

「うん。強くてかっこいいもん」


 満面の笑みを浮かべるアイーシャからスケッチブックを受け取って、描いた絵を眺め始めた。

 それは洞窟らしき場所で、剣士と黒髪の女が、五つの頭部を持つ真っ黒な獣と戦っている絵だった。


「ほう、ケルベロスか。これもなかなか上手いな」

「けるべ……?」

「なんじゃ知らんのか。竜の山の入り口を守護する地獄の番犬じゃ」

「ふうん」

「有名だから人間界でも知ってるやつは多いがの。お主は本か何かで読んだのか?」


 アイーシャは首を捻って宙を見上げていたが、やがてううんと首を振った。


「時々、夢で見るの。その前は昨日来たでっかいおじさんやっつけたり、物凄い大きな巨人を倒したりしてたよ。そういえば、お姉ちゃんが泣いていた気がする」

「私が、泣いてた?」

「うん。そばに海があって、他には建物がたくさんあったよ。おじさんをやっつけたときは、周りは火がたくさんですごくこわかった」

「他は。他は何か覚えとらんか」


 胸がざわめき、クリューネが急き込むように尋ねると、アイーシャはもじもじと指を合わせ、視線を庭の草むらに落とした。

 

「……剣」

「え?」

「剣士様の剣、キラキラして綺麗だったよ。お星さまみたいだった」


  ※  ※  ※


 船着き場に中型船が到着したのが見えると、旅装姿のクリューネが世話になったなと司祭服姿のナギに言った。隣にはセリナとアイーシャが立っている。

 船着き場から少し離れた場所にいるのは、通りかかる参拝者がナギに挨拶してきて、ゆっくり話ができないからだった。


「クリューネさん、やはりそんなに急がれなくても。出発は後でも良いんじゃないですか」

「さっきも言ったろ。急ぐ旅なんじゃ。あいつらも、もうすぐ竜の山を越えるとこだろうからな。早く合流せんと」


 クリューネはアイーシャの話を聞くとすぐに旅の支度を済ませ、ナギが午前の祭礼を終えたのを見計らって、バルハムントの首都アギーレまで行くこと告げた。

 船で二つ目に停泊するトレノという町に行き、そこからアギーレに向かうのだと言う。

 ナギは魔王軍に破壊された町に何の用がと、正気を疑うような眼をしたが、レジスタンスの作戦のひとつだったと明かすと、それ以上は何も言わず、緊張した面持ちで頷いただけだった。

 しかし、一旦は了承したものの、船着き場に来るまでに、ナギには不安が沸いてきたらしく、クリューネの急な旅を懸念しているようだった。


「それにしても、お一人で旅なんて……」


 危険すぎる。

 ナギの目はそう語っていた。


「大丈夫。お主に“聖鎧神塞グラディウス”があるように、私には私で切り札がある」


 そこまで言われてはナギには言葉もなく、わかりましたと言うしかなかった。


「……クリューネさんに、聖霊のご加護がありますように」


 次いでクリューネはアイーシャの前にしゃがむと、達者でなと言って頭を撫でた。


「お姉ちゃん、ばいばいね」


 無邪気に笑った目元が、リュウヤにそっくりだと思った。思わず胸が締めつけられたが、クリューネは唇を固く結んで堪えると、小さく笑って返した。


「セリナ。お主にも世話になったな」

「いえ、クリューネさんもお体に気をつけてくださいね」

「うむ」


 クリューネは立ち上がると、ちょっといいかとナギを呼んだ。言うまいか直前まで迷ったが、やはり伝えなければならないと決断し、声を潜めて言った。


「アイーシャには不思議な力がある。そのことに気がついておるか」

「……いえ、何のことですか?」

「遠い地にいるリュウヤを夢で見ていると言った。スケッチブックの絵はそれだ。他にも言い当てた」

「……」

「セリナが突然、この神殿に来たのもアイーシャの力かもしれん。今後、何らかの力を見せる時があるかもしれんから、よく注意しておいてくれ」

「それは了解しましたが、何故リュウヤさんなんです?」

「おそらく、アイーシャの父親がリュウヤだからだ」

「……」


 驚愕したナギの目が見開き、唾を飲み込む音が聞こえた。


「その話、本当ですか?」

「だから“おそらく”だ。混乱させるといけないから、セリナにはまだ伝えないでくれ」


 言い終えると、ナギはわかりましたと厳しい表情をして頷いた。

 桟橋さんばしから、「間もなく出発します」という船長の声が聞こえた。


「それじゃ、頼むの」


 それだけ言うと、クリューネはナギや後ろのセリナとアイーシャに手を振りながら、桟橋まで駆けていった。

 桟橋の上からぴょんと跳ねるように船に乗り込むと、船員がタラップを船にしまい、艦橋に合図する。汽笛が鳴り、ゆっくりと船が桟橋から離れていった。

 船尾から陸を眺めると、ナギたちが手を振っている姿が見えた。しばらくクリューネも振り返していたが、それも小さくなって見えなくなると、客室に向かった。

 ふと、あることに気がつき船を見渡した。

 クリューネが客室の戸を開くと、話し声や笑い声といったざわめきが外になだれ込んでくる。

 客室といっても広間一室が設けられているだけで、室内は帰りの参拝者で混んでいた。各自持ち寄った菓子や弁当を摘まみ、騒々しいくらいの活気に満ちている。

 クリューネは騒然とした客室を眺めているうちに、入るのが億劫になってしまい、そのまま船尾に戻り、縁にもたれかかってふっと息をついた。

 セリナとアイーシャの明るい笑顔が浮かんでくる。


「……生きとったか」


 リュウヤめ、聞いたらさぞ喜ぶだろうなと、リュウヤの顔を想像したら可笑しくなって吹き出してしまい、顔を下に向けた時、滴が床に落ちていくのを見た。


「あれ……?」


 波しぶきかと思ったが、波は穏やかで甲板まで届くほどではない。

 空は快晴で雲ひとつない。

 空を見上げると視界が滲んで、太陽もその光も周りの景色もぼんやりと映っている。頬に冷たいものが伝い、慌てて目元を拭うと、それは自分の涙だった。


 ――終わったんだ。


 そんな言葉がクリューネの中を過ると、一気に熱いものが込み上げ、それは大量の涙となって溢れでてきた。

 終わってしまった。

 リュウヤとの関係は何も進展せず、ただ想うだけで終わってしまった。

 いつか自分の気持ちに、気がついてくれると思っていたのに。

 いつも傍にいたのに。

 結局、何も無いまま終わってしまった。 

 抑えきれない情けなさや悔しさがどうしようもなく、ただ苦悶し身体が震わしながら、涙を流すしかクリューネには残されていなかった。

 ふと周りを見渡した。

 クリューネ以外、誰もいない。


 ――このまま泣こう。


 クリューネがそう思った時には、既に大声を張り上げて泣いていた。涙でのどがつまるほどに泣いていた。顔は涙と鼻汁でべとべとになったが、そんなことに気にする余裕などなかった。

 泣いても泣いても涙が溢れ続け、身体中の水分が無くなるんじゃないかと思うくらい、涙は止まる気配を見せなかった。

 むせび泣くクリューネの姿を、船の真上に佇(たたず)む太陽だけがじっと見守っていた。

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