第五章 バルハムントへ
第52話 クリューネは目覚め、姫王子が動き出す
まぶたの裏に淡い光が広がったかと思うと、鳥のさえずりやどこからか子どもたちの騒ぐ声がぼんやりとクリューネの耳に届いた。
ここはどこだろうと闇の中で手探りするうちに、その探る手を誰かが掴んだ。
小さくて、柔らかな感触。
――誰の手だろう。
考える間もなく闇の底に沈んでいたクリューネの意識が、水面まで一気に引き上げられていくような感覚がそこにはあった。
次の瞬間、視界に飛び込んできたのは白い天井とチラチラと緩やかに揺れるカーテンだった。
左手に闇の底で感じたものと同じ、やわらかな感触が伝わってくる。
見ると、幼い女の子がベッドから垂れたクリューネの手を、ベッドに戻そうとしているところだった。
「あの感触、お主の手だったか……」
クリューネが出した声は、自分でも驚くくらいに掠れてか細い。
女の子はクリューネの声を掛けられると、驚いたように息を詰め、無言のまま逃げるようにして部屋の外へ駆け出していった。
「……」
クリューネはゆっくりと、静かに息を吐いた。
回復魔法をかけてもらったのか、あれだけ傷を負ったはずなのに特に痛みは無い。ただ、疲労感で力が入らず、身体を起こすことができないでいる。熱があるのを感じていた。
ふと、扉の向こうから複数の足音がする。扉が開くと、先ほどの女の子を連れた若い女が部屋に入ってきた。片方の手には、氷水に手拭いを浸した洗面器を抱えている。
「あ、起きられたんですね」
若い女の声はニコリと微笑むと、洗面器をベッドの傍にある丸椅子に置いた。
容貌は十人並みといったところだが、穏やかで母性を感じさせる笑顔は魅力的で、なんとなくリュウヤが好みそうなタイプだなあとぼんやり思った。
「もう、三日も眠ってたんですよ」
「三日も?」
「ええ。近くの草むらで倒れているところを、この子がクリューネさんを見つけて……」
「そうか、お主が……。世話になったな」
クリューネが女の子に声を掛けると、女の子は恥ずかしそうに若い女のスカートにしがみついた。
女の子の様子から二人はどうやら親子らしいとクリューネは見当をつけた時、うっかり聞き逃していたことを思い出していた。
「そう言えば、何故にお主は私の名前を知っているんじゃ?」
「ナギ様から教えてもらいました。クリューネ・バルハムントさんですよね」
「ナギ?となると、ここはもしかして」
「ええ、“聖霊の神殿”です」
「“聖霊の神殿”か?」
クリューネは驚いて身体を起こそうとしたが、激痛が全身を襲い、自身の頭がわずかに起こせただけだった。
「またナギのところに、どうして……」
ミスリードという魔族の男、というよりも奇天烈なオカマとの闘いで意識を失ってから、何をどうしたのかクリューネは全く思い出せなかった。
ただ、暗闇の中で表現し難い苦しみや激痛に襲われ、逃れようと必死だったという、ぼんやりとした記憶しか残っていない。
クリューネは「どうしてここにいるのか全くわからない」と若い女に打ち明けると、女は黙ったまま氷水に浸していた手拭いを搾って、クリューネの顔を優しく拭い、小さく畳んで額にのせた。
ひんやりと心地よい冷たさが、熱を帯びたクリューネの頭を冷やしていく。安堵感が心を和らげ、ベッドの中に埋もれていくな感覚とともに、強烈な眠気が襲ってくる。
「私もどうしてここにいるのか、わからないんですよ」
「……」
「気がついたら、聖霊の神殿の敷地に倒れていたそうです。身体中煤だらけで」「“そうです”?」
若い女の奇妙な言い回しが気になって、言葉尻を捉えるように聞き返すと、若い女は困ったような微笑を浮かべて、ぐずり始めた少女を抱えた。
「その前のことが記憶に無いんです。物凄く怖い思いをしたというのはあるんですけど」
「……」
「思い出したくても、記憶の扉を開けるのが怖くて。そこには、大切なものがたくさんあるのはわかっているんですけど、やっぱり怖くて踏み込めない。忘れたことを、できるだけ思い出さないようにしちゃうんです」
「いつか、きちんと思い出せるといいの」
おざなりだと思いつつ、クリューネにはそれしか言葉が見つからなかった。おざなりな返事をしたのは、強烈な眠気もひとつにあった。
若い女はそうですね、と柔らかく答えると、いよいよ泣き始めた女の子をあやした。
「ごめんなさい。ちょっと失礼します。ゆっくり休んでいてくださいね」
「……」
若い女が声を掛けた時には、既にクリューネは眠りの底に沈んで小さな寝息を立てていた。
「ほら、アイーシャ。クリューネさんを起こしちゃ駄目よ」
若い女は女の子をあやしながら、静かに部屋を退出していった。
「あ、ナギ様」
廊下に出たところで、クリューネの部屋に向かってくるナギの姿があった。
ナギは法衣姿で、毎朝行う祈りのため、これまで神殿にいた。
「クリューネさんが、お目覚めになったんですって?」
「ええ、でも今はまたお休みになりました。まだ熱があるし、疲れているみたいで」
「そうですか……」
ナギはご苦労様でしたと若い女を労うと、少し身をかがめた。
そして、若い女の胸元にしがみついてぐずつく、アイーシャと呼ばれた女の子の柔らかな頬を、ちょんと突いて微笑んだ。
「アイーシャ、セリナさんを困らしたらいけませんよ?」
※ ※ ※
魔王軍の首都ゼノキア。
その宮廷内は連日、騒然としていた。レジスタンスに敗戦したばかりか、大被害を受けた魔王軍は今後の対応を巡って、日夜会議が行われていた。
執事のヤムナークはイズルード第一軍団長とタナトス第二軍団長の二人が、血相を変えて執務室へ歩いて行くのを見送っていたが、自分の仕事を思い出して足早に庭園へと向かった。
ヤムナークが庭に廻ると、庭園に咲き誇る薔薇を前に、うずくまっている主人の後ろ姿を見つけた。
『……ルシフィ様、ここにおいででしたか。探しましたぞ』
ヤムナークが近づくと、ルシフィはしっと指先を立てて振り返った。
『静かにしなきゃ駄目だよ。怯えちゃう』
『……?何をしておいでですかな』
『……大丈夫だよ。こっちにおいで』
ルシフィが手を差しのべた先に、小鳥が一羽、地面にもがいていた。羽根を怪我したらしく、翼には血による小さな赤い斑点のようなものがある。
ルシフィは小鳥を手にのせると、柔らかな光が小鳥を包んだ。やがて光が消えると小鳥は空へと羽ばたいていった。
『イバラの刺で怪我したみたいなんだ』
『ルシフィ様の優しく可憐な姿、よく似合いますな』
『それ全然、嬉しくないのだけれど。褒めてるの?』
ルシフィと呼ばれた者は、魔族特有の銀髪で滑らかなきめ細かな褐色肌をしていた。背もそれほど高くはなく細身の体に軍服姿。つぶらな瞳を持ち、唇は柔らかな丸みを帯びている。
軍服姿にバラを背にして佇むその姿は、確かに可憐だと言えた。
『……僕、男の子なのになあ』
『それでしたら、ちゃんと剣の稽古に励みなされ。魔族の男子たるもの、逃げ回っていては男と認められませんぞ』
『でも、剣て傷つけるものじゃない。血を見るの怖いし……』
不服そうにぷくっと口を尖らせるルシフィに、ヤムナークがため息をついた。
本来なら今は剣術の稽古の時間なのだが、ルシフィが逃げ出してしまい、知らせを聞いたヤムナークが探していたのだ。
――この方が女性だったら、諦めがついたのに。
優しく可憐でおしとやかなルシフィに、武辺を感じさせるものは何もない。
『ルシフィ王子。あなたは魔王ゼノキア様の後継者なのです。小鳥にも愛情を注ぐ優しさは素晴らしいものですが、王たる優しさと婦人の優しさとは別なものだと、そろそろ認識していただかないと』
『これは、婦人の優しさだけのものなのかな?』
ルシフィが小首を傾げる。
本人にしてみれば自然な動作なのだが、乙女がするようなこうしたひとつひとつの仕草が、アズライルのような口の悪い家臣から、『姫王子』などと軽侮を招いている。
頼りなげで、家臣からも軽く見られがちなのは、女性的過ぎる容姿とその仕草、柔弱と思えるほどの優しさだった。
『左様、王たる優しさとは、内にあっては賞罰を厳格公平に行って民を安んじ、外にあっては威武を示して士気を高め、兵とともに難敵に当たることにあります。後継者たる者、本分を忘れてはなりません』
『……王なんて向いてないのかなあ、僕』
『そんな、情けないことをおっしゃらないで下さい!』
ヤムナークが思わず声を張り上げたので、ルシフィは驚いて身体がビクリと揺れた。
悲しそうに顔を歪めるルシフィに、ヤムナークが慌てて頭を下げる。
『申し訳ございません。お許し下さい』
『いいよ。僕のことを思ってのことなんだし。今、大変な時期だもんね。聞いた?』
『はい、先ほどイズルード第一軍団長、タナトス第二軍団長が執務室に向かうところを見ました』
『アズライルやサイナスが負けるなんて、竜族の人、相当強いんだね』
『バハムートの力はもとよりですが、紅竜ヴァルタスは人に姿を変え、見事な太刀さばきでアズライル様を倒したとか……』
『剣……、ヴァルタスかあ……』
ルシフィは小枝を拾うと、ヒュンと剣を振る真似をした。凄いなあ、とルシフィは単純に感心している。
皆が恐がる狂暴で獣みたいな人を、どうやって倒したんだろと。
アズライルの敗戦にサイナスの死亡、バハムートの出現、魔空艦二隻撃沈は魔王軍に衝撃を与えた。
また、盗まれた
もしもね、と小枝を弄りながら、ルシフィがもじもじと身体を揺らした。
『もしもね、僕が竜族の人たちを捕まえたら、ちゃんと王の後継者として見てくれるかな』
『それは……、もちろんでしょうが』
『父君とも、ここ数年は帳越しで拝見したことがない。嫌われているんじゃないかと思うときがある』
『……』
『魔族の王子として認められるには、僕もそういうことをしなきゃいけないんじゃないかと思うのだけど……、どうかな?』
『王子自ら、竜族を討つと?』
目を丸くするヤムナークを、ルシフィは上目使いで恥ずかしげにウン、と小さく頷いた。
『討つじゃなくて、捕まえたいけど……』
ヤムナークの内側から熱いものが込み上げてきて、言葉に詰まっていた。
嗚呼、我過てり。
獅子の子は獅子であったと。
『では、さっそく教官殿のところへ向かいましょう。稽古です!』
『ええ、あの人を怪我させないようにするの、いつも気を使うんだよ』
何をおっしゃいますか、とヤムナークは叱咤した。
『ルシフィ様は優しい方故にその力は知られておりませんが、ルシフィ様の力が教官殿どころか他の軍団長を圧していることくらい、不肖ヤムナーク存じております。これまでは君主の義務と思いうるさく言ってきましたが、ここで教官殿を一蹴し、力を示さねば魔王様も許してくれませんぞ』
『……うん、そうだね』
ルシフィは叱られた不出来な生徒のようにうなだれ、ヤムナークの後を力無い足取りでついていく。
何も知らない周りの使用人や将校は、『姫王子がまた叱られたか』と冷ややかな目でルシフィを見送っていた。
当のルシフィはあのプライドの高い教官を、どのように大怪我をさせないで倒したらいいか、そればかり考えながら歩いていた。
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