今日この頃のイヴェントの制限緩和の御話

第24イヴェ 十一月一日からのイヴェントの制限緩和

 十月二十八日・木曜日――


「九月末で緊急事態宣言・まん延防止等重点措置が解除された二十七都道府県」を対象として、二〇二一年十一月一日・月曜日から、イヴェントに課されていた制限が緩和されることが政府によって発表された。もちろん、東京都もその対象である。

 その発表の翌日、二十九日・金曜日の早朝のことであった。


 秋人・冬人の佐藤兄弟は、東京駅を五時に出発した、成田空港行きの高速バスに乗っていた。

 空港までの約一時間の道行の間、兄の秋人の方は、タブレットで卒業論文を執筆していた。

 一方、弟の冬人の方は、睡眠不足のせいか、半分閉じかけた眠気まなこのまま、右手の中指で、ページをスクロールしながら、SNSを漫然と流し読みしていた。

 このように、イヴェンター兄弟は、高速バスの車内で、それぞれなりの移動時間を過ごしていたのだが、冬人は、SNSのタイム・ラインに出てきた、とあるニュース記事のスクリーン・ショットを目にし、その瞬間、思わず中指の動きを止めてしまった。そして、その内容をじっくりと読むや否や、驚愕で大きく目を見開いてしまったのである。

 それは、政府が提示した十一月一日以降のイヴェントの制限緩和に関する記事であった。

 まだイヴェンター二年生で、若葉マークが取れたばかりとはいえども、〈現場〉至上主義者である冬人にとって、イヴェント関連の話題には、関心を示さずにはいられないのだ。


 二〇二〇年初めに世界規模の感染症が蔓延して以降、観客を入れる、いわゆる〈有観客〉のライヴやイヴェントは、開催の中止や延期の連鎖を経た後、その年の夏頃にようやく再開され始めた。しかしそれには、感染の拡大を防止するため、幾つもの制限が課されていた。

 その制限とは、〈三密〉防止の前提の下に、十分な人間距離を保つための収容人数や収容率の抑制であった。

 例えば、収容人数一万人を越える会場においては、その規模の如何を問わず、収容定員の上限を五千人とし、一万人未満の会場においては、収容率を五十パーセント以内にするというものであった。すなわち、キャパシティーが二千人の場合は、その観客定数は五割の千人以内ということになる。

 こうした収容定数の制限は、参加者の中に潜在的な感染者がいることを想定し、その人物が体内から吐き出した呼気によって感染が拡大するというリスクを軽減することを目的としていた。だから、人と人との間の距離、いわゆる〈ソーシャル・ディスタンス〉の確保のために、椅子ありの場合には座席を一席空けにしたり、スタンディングの場合には、立ち位置に、マーカーや升目を床に書いたりする対応がなされたのだ。

 さらに、観客には、マスクやフェイス・シールドの着用が義務付けられ、公演中の声出しも禁じられた。

 ということは逆説的に言えば、人間距離を遵守しさえすれば、声出し以外の全ては問題なしということになろう。

 だが実際には、運営の中には、〈立禁〉と呼ばれる着座を強要したり、たとえ、スタンディングを認めた場合でも、ジャンプやヘッドバンギングなどの〈激しい動き〉を控えるように要請する〈現場〉もあった。ちなみに〈ジャン禁〉は、過度の運動によって、息が激しく乱れることを懸念しての事であるようだ。

 つまるところ、政府からの要請に加え、各〈現場〉ごとに、それぞれの運営が定めた独自のローカル・ルールが設定されていた分けなのだが、いずれの〈現場〉においても、共通していたレギュレーションとは、適切な人間距離を保ち、〈密〉という状況を生じさせないための、収容人数・収容率の制限である〈五千人・五十パーセント〉と、潜在的な感染者の呼気を防ぐための〈マスク着用・声出し禁止〉であった。


 二〇二〇年の中旬に、イヴェント開催の許可と制限が公表された時には、感染状況に応じて、徐々に制限は緩和されてゆく、という話だったのだが、しかし、二〇二一年に入ってもなお、状況は好転せず、この年の夏のオリンピック・パラリンピックは、結局〈無観客〉で開催された。

 また、毎年夏の終わりに催されている、ナツアニ・メロメロライヴ、通称〈夏兄〉も、件の〈五千人・五十パーセント〉という収容人数の制限のせいで、観客の数減らしをせざるを得なくなってしまい、その結果、開催の前の月に、全てのチケット所持者に、チケットの払い戻しをさせた上で、そのチケットを所持していた者だけを対象とした再抽選をする、という苦渋の決断を下したのであった。

 かくの如く、こうした感染症下においては、収容制限においても、観戦スタイルにおいても、〈現場〉に通うことに価値を置くイヴェンターは、厳しい状況下に置かれていたのである。


 しかし、である。

 空港バスの中で冬人が目に止めたその記事は、件のイヴェント制限の緩和について言及していた。

 まず提示された緩和は、収容人数についてで、たしかに、〈収容率〉に関しては、五十パーセントが維持されたままなのだが、その代わりに、収容人数の上限は撤廃されることになった。

 ちなみに、二〇二一年の十月以降の一ヶ月間は、試験期間として、上限が五千人から一万人に引き上げられていたのだが、十一月以降は、この一万人が撤廃され、つまり、四万人の収容の会場においては、二万まで観客を入れることができる運びになった。

 とはいえども、冬人が通っている〈現場〉は、二千人規模のホールや、それ以下のライヴ・ハウスがほとんどなので、結局、状況は変わらないのだが、しかし、アリーナなどで催される大型フェスに関しては、今回の緩和の恩恵に預かることができよう。

 さらに、着目すべきは以下の記事内容であった。


「大声などの声援を伴うイベントについては『収容定員五〇%以内』の制限を引き続き求める。例えば収容人数が八〇〇〇人の施設で、大声を出さない場合の上限は五〇〇〇人だが、大声を出す場合の上限は四〇〇〇人となる」


 つまり、別の言い方をするのならば、収容率を五十パーセントにしさえすれば、〈大声あり〉、つまりは、声を出して構わない、ということだろっ、これはっ!

 この個所こそが、冬人を大興奮させた原因であった。


 イヴェンター二年目の大学生の冬人にとって、声を出すことができたイヴェントとは、高校卒業直前に参加した、二月頭のさっぽろ雪まつりと、二月末の東京でのCDのリリース・イヴェントだけなのだ。

 三月以降は、配信イヴェントなどで、たしかに下宿では声を出すことはできても、再開された〈現場〉では、件の〈イヴェント制限〉のために声出しは絶対禁止で、クラップを声援行為の代わりにするしかなかった。

 たしかに、クラップも悪くはない。それでも、やはり、どうしても物足りなさは覚える。

 冬人は、声出しの経験が、初体験とそのすぐ後のイヴェントだけだったので、参加者の感情の発露にして、〈現場〉の一体感を醸し出す、この〈声出し〉という行為に対して、焦がれる程の憧れを抱いていたのだ。

 だからこそ、〈大声あり〉という記事に、脊髄反射的に喰い付き、思わず、ツイートをしてしまったのである。


 冬人の〈呟き〉がタイム・ラインに上がったのは、朝の五時台という早朝だったにもかかわらず、何人ものフォロワーたちが、〈イイネ〉〈リツイート〉〈リプライ〉といった反応を示してきた。

 遠征するヲタクの朝は早いからだ。

 皆それぞれ、今日の〈現場〉に向かうために行動を開始している。

 秋人と冬人の佐藤兄弟も、朝一に東京駅のバス乗り場から出る空港行きの高速バスに乗るために、三時起きしていた。だから、当初、冬人は半覚半睡状態だったのだが、しかし、〈大声あり〉というイヴェントの制限緩和に関するSNS上のやりとりで、テンションがすっかり爆上りして、冬人は完全に目が冴えてしまっていた。


 その時、一本のリプライが入ってきたのだ。


「みんな、盛り上がっているとこアレなんだけど、〈大声あり〉って〈声出し解禁〉って意味じゃないよ。クラシックや演劇みたいな声を出さないイヴェントを〈大声なし〉、スポーツや音楽ライヴのような、大声をあげるかもしれないイヴェントを〈大声あり〉って呼んでいるだけで、声出し許可じゃないよ」


 っ、なんだよ、一体誰だよ、せっかく今、声出しOKって話で盛り上がっているのに、盛り下げるようなことを言うの……、おいっ、まじかっ!

 リプ主は、隣に座っている兄・秋人であった。

 冬人は兄の方を振り向いて、思わず、荒げた声を出してしまった。

「ちょっと、シュ……」

 秋人は、立てた右手の人差し指を口元に当てると小声で言った。

「朝のバスの中だぜ」

 そのため、冬人は、出し掛けた声を引っ込めて、黙って頷くことしかできなかったのである。


〈参考資料〉

〈WEB〉

「イベント制限1万人解除 27都道府県、来月から―政府」、『時事ドットコムニュース』、2021年10月28日20時46分付け、二〇二一年十一月一日閲覧。

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