第16イヴェ 錯覚だっていいじゃない、だって、初めての最前ドセンなんだよ

 渋谷のライヴ・ハウスでのリリイヴェから一週間が経過した日曜日、冬人が当選した三回の『アラミタマ』のリリイヴェの最後の一回である、横浜のイヴェントの開催日が訪れた。

 この日のイヴェントは、横浜駅から、横浜市営地下鉄「ブルーライン」を利用した場合、二十分程度で行ける、横浜市の郊外に在るショッピング・モールに入っているCDショップで行われる事になっていた。

 東京都内の下宿から、横浜郊外の会場に向かった冬人は、渋谷経由で、東急田園都市線を利用して、「あざみ野」で、横浜市営地下鉄のブルーラインに乗り換え、一時間ほどかけて、会場がある「センター北」駅に到着した。


 冬人は、この横浜郊外のCDショップを訪れるのは初めてであった。

 実は、冬人は、若干方向音痴の気があるので、モールの中で迷わないように、事前にネットで、このショッピング・モールの「フロワマップ」を確認しておいた。そのお陰様もあって、とにかく隅へ隅へと念じながら進んで行った結果、今回は迷うことなく、モールの正面出入り口から最も遠い所にある、二階の角に位置しているCDショップに、開場の三十分以上前に辿り着く事ができたのであった。


 たしかに、この日のイヴェントは、CDショップ主催の〈イン・ストア〉イヴェントであるのは確かなのだが、ミニ・ライヴそれ自体は、この店の隣にある、密閉された専用のイヴェント・スペースで行われ、普通の買い物客の目には触れず、他の店舗にまで大きな音が漏れ出ないような配慮が為されている模様であった。

 事前に位置を確認した際には、会場のCDショップが、イヴェント用の専用空間を所持している事を冬人はスルーしてしまっていたのだが、ライヴ会場を目の前にして、スマフォにダウンロードしておいた「フロワマップ」を見返してみると、CDショップの隣に「スタジオ」と書かれているのに、今更ながら気付いたのであった。


 冬人が、かなりの時間的余裕をもって会場に到着したのは、都内の家から横浜郊外の会場まで一時間以上かかるとか、初めての会場だとか、冬人が方向音痴だからとか、理由は多々あるのだが、それより何より、この日のリリイヴェでの、冬人の整理番号が一桁であった事こそが最大の理由であった。


「絶対に遅れられないイヴェが、そこにはある」


 こんな気持ちで、この日のイヴェントに冬人は臨んだのである。


 イヴェントの開始の三十分前に開場時刻は設定されていたのだが、その開場時刻の十分前から、主催のCDショップに併設されている「スタジオ」の前で、参加者たちは整理番号順に並ばされる事になった。

 開場の三十分以上前から会場前でうろうろしていた一桁番号の冬人は、待機列形成の時点で、一番前に並ぶ事になったのだが、待機開始から開場開始までの十分の間に、一人、また一人と、自分よりも整理番号が前の者が出現し、開場まで一分を切った時点で、冬人は前から三番目にいた。

 

 もうこれ以上、自分よりも前の番号の人間こないでくれ。

 頼むよ。

 一桁なんて良い番号、もう二度と来ないかもしれないし。

 お願い神様っ!


 そして――


 冬人よりも若い番号の持ち主は現れず、冬人は三番目でスタジオへの入場を果たすことができた。

 これで、最前は約束された地となった。


 待機列が動いたその瞬間、冬人は、〈現金〉にも、イヴェントの神様だけではなく、この日のリリイヴェの不参加者に対しても、深々とした感謝の念を差し向けたのであった。


 そして三番目で入場した今、目指すべき場所はセンターだ。

 しかし、前二人もきっと、自分と同じ考えであろう。


 えっ!?


 一番最初に入場した参加者は、最前列の下手側の端っこに座ったのだ。つづく二人目もその隣に座り、三番目に入った冬人は、最前列のセンター、いわゆる〈最前ドセン〉を取ることができてしまったのである。


 運営から、端から順に座るようにってアナウンス、されていないよね?


 そういえば、以前、兄・秋人が、行動心理学的に言うと、イヴェントに不慣れな人間は、端詰めしてしまう傾向があるらしい、と語っていた。その実例を、冬人は目の当たりにしたのである。

 今回は、社会的距離をとった上で椅子が置かれているため、最前列は四席しかない。普通ならば、入場順が三番だと、ドセンを取れはしないのだ。

 だから、最前列どまん中の特等席に腰を下ろした冬人は、下手側に目線をやると、端にいる人間に小さくサムアップをしたのであった。


 それから、ステージ真正面を向いた時、気になった事があった。

 客席とステージとの間が、透明なシールドによって仕切られていたのである。


 あれっ!? こおゆう飛沫防止のためのシールドが存在するって話、ネットでは見た事あるけれど、先週の渋谷の時にはなかったよね? この会場限定のレギュレーションなのかな? それとも、ライヴが始まったら取り外されるのかしら?


 だが、この透明シールドが置かれたまま、まず最初に、司会の男が現れ、幾つかの諸注意が入った。

 禁止事項は、起立と声出しのみで、クラップなどで、ライヴを盛り上げる事それ自体はむしろ推奨された。

 それから、司会者指導の下、拍手の練習が為された後で、司会の男によって、黒いライダースを身に纏ったLiONaがステージに呼び込まれ、ミニ・ライヴが始まったのである。


 一曲目に歌われたのは、アニメ盤のみに収録されているカップリング曲、「紅/傷」であった。

 この曲は、ゲーム版の『剣技イン・ザ・ネット』のタイアップ曲で、バトル系のアクション・ゲームのテーマ・ソングに相応しい、激しいハイ・テンポの曲で、「紅/傷」のイントロが流れてきた瞬間、冬人のテンションもバトル・モードに入ってしまった。

 着座に無声という制限はあるものの、座っていてもできる事は幾らでもある。

 冬人は、最前ドセンから、透明なシールドの彼方で歌唱しているLiONaにまで届け、とばかりに、全身全霊で手振りによる応援行為をした。


 そして、一曲目の激しい「紅/傷」から一転、二曲目には、クラシック・ギターのゆったりとした調べをバックにした、「Si on chante sous la pluie(シ・オン・シャント・スー・ラ・プリュイ)」がきた。

 この曲のタイトルはフランス語で、和訳すると「雨下で歌えば」という意味で、ファンの間では「シオンチャン」と呼ばれている。

 それから次の三曲目には、今度は、ピアノの伴奏と、ツー・ビート、ないしは、フォー・ビートのドラムを基調にした「まねっこ」がきた。

 このように、ミニ・ライヴの中盤には、ゆったりとした曲調の二曲が置かれたため、一曲目では全力で腕を振っていた冬人も、一転、身体の真ん中、みぞおちの前の辺りで、手首をわずかに動かすだけの小さな手振りで、音楽に浸ったのであった。


 三曲を歌い終えた所で、LiONaのMC(マイク・パフォーマンス)が入ったのだが、ここで、彼女は思わず、観客の事を「お客タン」と呼んでしまったのである。

 これには、思わず、発した本人のLiONaも口元を押さえながら、笑いを堪え切れなくなってしまっていた。

 一方、堪らない気持ちになってしまったのは、最前列のドセンでこの光景を肉眼で視認した冬人である。

 この瞬間、冬人は、何かに心が射抜かれたような気持ちになってしまっていた。


 そんな陶然とした状態のまま、冬人は、眼前で御話をしているLiONaに向けて、熱い眼差しを注いでいたのだが、やがてMCも終わり、ミニ・ライヴ最後の、四曲目、マキシ・シングルの表題曲、アニメ『剣技イン・ザ・ネット』最終クールのオープニング・ソングである「アラミタマ」を歌うことが、LiONa自身の口から告げられた直後、ヴォルテージを一気にぶち上げ、天井をぶち抜くようなイントロが流れ出したのである。


 かくして、至福のうちに、四曲構成のミニ・ライヴは、瞬く間に終演を迎えてしまったのだった。

 盛り上がる曲はとことん盛り上がる、聴き入る曲は耳をそばだてて、一音一音を逃さないようにする。

 ライヴで大事なのはメリハリなんだな、と冬人は思った。


 それにしても、だ。

 最初の二回のリリイヴェでも、端っこながら、運良く最前列に座ることはできた。

 その時は、最前列なら、それだけで十分だ、と思っていたのだが……。

 〈最前ドセン〉は、同じ最前列でも全くの別物であった。

 それは、ただ単に、自分の視界に他の客が存在しないから、というだけの話ではない。


 LiONaのパフォーマンスの基本スタイルは、ステージの端から端まで動き回るものではなく、ステージの中央に立って、左右に対して、体を向けて視線を注ぐというスタイルである。

 たしかに、これまでの前二回のステージでも、最前の端にて、LiONaから、目線を比較的多くもらってはいたのだが……。

 最前列、しかもドセンは、レヴェルが格段に違った。


 まず、ゼロズレ、すなわち、ほぼ真正面から彼女のパフォーマンスを観れる。

 さらに、ドセンは、斜め方向から観る時に比べて、当然、演者までの距離は短く、目と目が合う回数も段違いに多い。

 あたかも、LiONaが自分のためだけに御歌を歌ってくれて、自分とLiONaだけの空間が作り上げられている、そのような錯覚さえ覚えてしまう。


 いや、それは、勘違いではないのかもしれない。


 LiONaは、しばしば、ステージ上のマイク・パフォーマンスにおいて、「私とあなたの一対一の空間を作りましょう」と語っていて、実際、ステージの立ち位置は固定だけれど、体の向きを変えながら、観客席の一人一人に向かって、満遍なく視線と歌声を振り撒くのだ。

 その御蔭様もあって、観客席のどこにいても、自分に対して歌ってくれているような感覚を覚えることができる。

 しかも、そのLiONaとの一対一の没入感が、最前ドセンは段違いだったのだ。


               *


 その至高のミニ・ライヴから、早くも数週間が経過していた。

 今でも、LiONaの御歌を聴いたり、御動画を観ていると、最前ドセンのあの時の感覚が蘇ってきて、多幸感を覚える。


 そして――

 二月末のフェスの大トリと、三月のミニ・ライヴを経て遂に、LiONaのホールツアーの幕が上がるのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る