血と糞

昼野陽平

全一話

 陽はすでに傾き、空を真紅に染めていた。その血を思わせる天蓋の下、黒色のカラスが嗄れた鳴き声をあげ、不規則な線を描いて飛んでいる。この時間にはよくある風景であり、ある種の郷愁を感じさせるものだった。夕方の斜光が作りなす真紅の景色はふしぎな親和力をもって、疲労した身体に浸透する。俺は疲労した身体に屈服し、ただぼんやりと外の景色を眺めていた。

 ふと、樹木の梢から、ぼたぼたと音をたてて血が流れるのが見えた。ぎっ、という声をあげたそれは、カラスに啄まれた小動物のようだった。ここからはやや遠く、その小動物が何なのかは確認できない。血の後には、一塊の臓器が垂れ、アスファルトの上に音をたてて落ちた。前方から軽トラックがひどく緩慢な速度で走ってくる。まだ夕方だというのにヘッドライトを黄色く光らせていた。軽トラックのタイヤがゆっくりと臓器を踏み、そして血でもってタイヤの跡線を引いた。カラスは黒色の嘴を開閉し、嚥下するような仕草をみせると、静謐な空気をぎざぎざに切り裂くような声をあげ、梢から離れ、真紅の空へと飛んでいった。まるでそこが故郷ででもあるかのように。

 血まみれの故郷へ帰省。それは、俺にとって胸のむかつくような光景だ。

 俺は視線をテーブルの方へ向けた。休憩中だった。長年使い古され、やや傾いてぎいと音のする椅子に、膝を立てて座り、残りものの天麩羅と、そして蕎麦を食っていた。四角いテーブルには木目が印刷してあった。そのテーブルを、俺を含めて五人のアルバイターが囲んでいる。俺のすぐ隣には亮太、真向かいには裕也、裕也の隣には本来、一雄がいる筈だったが、一雄は東京の某駅の便所で、追っ手に見つかり、連れ去られた。おそらくはさっきの小動物のように滅茶苦茶にいたぶられた挙げ句に殺されたのだろう。一雄がいる筈だった場所には女子中学生の涼子が座っている。涼子は女子中学生だが、女子高校生と間違えられて雇われたらしい。それくらいにここの蕎麦屋はアバウトだった。履歴書などは要求すらされなかった。涼子の向かいには文恵がいる。文恵もまた女子中学生なのだが、涼子とおなじく間違えられて雇われたのだという。

 ここの蕎麦屋は亮太の母親の故郷だった。蕎麦屋は亮太の祖母と祖父で経営していた。蕎麦屋の向かいにはでかい神社があり、そこへ集まる観光客で、店はけっこう繁盛していた。しかし昼時を過ぎると、客はまったく入ってこなくなる。ここの近辺へは、神社以外に目当てのものなどないらしい。それくらいに何もない所で、ただ樹木に囲まれた山地に、一本の車道だけが通っていた。

 俺と亮太と裕也、そして今は亡き一雄は、ヤクザの事務所で出会った。六畳ほどの部屋。そこでは十人前後のヤクザの見習い達がひしめきあっていた。激しいストレス、沈滞する鬱情を発散すべく、まるで水槽の中で闘争心の強い熱帯魚が互いに喰い合うように、喧嘩が絶えなかった。ゴキブリが駆けずりまわる。それも一匹、二匹ではない。蟻塚の蟻のようにいた。それらは部屋の端にかためた衣服に群がっていた。テーブルがひっくり返る。壁に血が飛ぶ。それを下半身全裸のインキン患者がぼんやりと眺める。ペニスの周辺はインキンに食い荒らされ、赤く染まっている。夜中には薬物中毒者が薬がきれたといってうめき声をあげる。夜中にうめくなと、激怒したフィリピンの混血が薬物中毒者の足を掴み、窓の外へゴミを捨てるようにして投げる。ぺしゃん! という音がする。再び眠りにつく。起きると何故か夢精していた。眉間に銃口を当てられる。小指のない、がっしりしたロボットのような手で握られた拳銃。東南アジアかどこかで製造されたのだろうか。拳銃の表面には下手糞な唐草模様が彫ってある。銃口を見つめる。その、底なしの闇のような銃口を。そこから死を連想するには、あまりにも簡単だ。

 ヤクザの事務所は、きらびやかなネオンで飾られた風俗店が乱立する中にあった。ネオンは血管のように交錯する。まるでそれがないと循環しないとでもいうように駆け巡る。交錯する血管のようなネオンは、心臓のような事務所を中心に展開されている。入り組んだ迷路のような路地を、組の組長がアロハシャツを着て、ママチャリに乗って駆け巡る。まるで、何かの物語の主人公のように駆け巡り、やがて心臓に辿りつく。しかしそれは俺達にとって一本の針だった。

 組長は吠える。わけもなく吠える。それが仕事だとでも言うように吠える。笑い声さえも、怒号に聞こえる。嗄れた低い声は、臓器に響く。

 こいつを、ぶち殺したい。ぶち殺して、小腸を引きずり出して、物干竿に干したい。こいつを、ぶち殺して、各部分をばらばらにして、物干竿に干したい。干し柿みたいに干したい。太陽に干され、嗄れるやつの顔面を思い浮かべると笑みがこぼれる。こいつをぶち殺すことでしか、俺達の鬱情はどうにもならない。

 だが俺達が選んだのは殺戮ではなく、逃亡だった。逃亡する時に煙草を二カートン、そしてリボルバーの拳銃を盗んできた。拳銃は裕也が持っている。煙草はすべて吸ってしまった。

 溜め息をつく。眼前にある蕎麦の塊をみつめる。すでに蕎麦の一本一本は互いに引っ付いて、団子状になっている。涼子と文恵と亮太と裕也は談笑している。何を笑っているのだろうか? さっき殺されて、血を滴らせていた小動物のことか? それとも、便所でつかまって殺された一雄のことか? 一雄が捕まって、殺された挙げ句に臓器という臓器を取り除かれて、変わりに綿をつめてオシャレな置物になったとか、そういうことがお前らのギャグセンスのツボなのか?

 ふと、俺の肩に手が置いてあった。みると亮太だった。亮太は怪訝そうな表情を浮かべている。涼子や裕也の視線も俺に集まっている。

「どうした」

 と裕也が聞く。

「ああ、ちょっと考え事してた」

 と俺は答えた。

 このド田舎まで逃亡したんだ、過去は、忘れろ。


 *


 俺と裕也と亮太は、ここの蕎麦屋の二階で住み込みで働いている。ここの部屋は十畳くらいあり、三人で暮らすぶんには充分な広さだった。

 ヤクザの事務所での生活を思い出す。そこでは六畳の部屋で、十数人の人間が暮らしていた。各人は壁によりかかって座り、それは部屋の入り口からみると奇妙な遠近法をなしていて、消失点にはTVがあった。TVだけはきらびやかに発光する。モニターの向こうの洗練された世界とは裏腹に、こちら側では豚小屋みたいな光景が繰り広げられていた。いや統率がとれていないという点においては、豚小屋にも劣っていた。TVを見て笑う。TVを見て激怒する。 TVを見て喧嘩が始まる。TVを消しても怒号が飛び交う。怒号は拳にとってかわる。拳は身体を破砕する。血が飛び、歯が飛ぶ。うめき声をあげる。すすり泣きに変わる。そして暴力は、より強大な暴力を振り下ろすことで収束する。「ぺっ!」と唾を吐く。収束した暴力の残滓だった。

 俺は布団から起き上がった。六時だった。裕也も起き上がって布団を畳みはじめる。朝の斜光が射し込むなか、微かに埃が舞う。

 ベランダの外を眺めた。群生する樹木を、薄い霧がかかっていた。霧の塊はよくみると微かに移動している。霧の奥に点在する影が見える。それは徐々に大きくなり、輪郭線を露にしはじめる。カラスだった。カラスは夕方になると、血のような紅い空へ帰り、朝になると薄い霧の中からよみがえるように出て来る。ここの地域のカラスはやたらにでかい。空を席巻するようにしてデタラメな弧を描いて飛ぶ。

「亮太がまた寝坊だ」

 裕也は寝癖の頭を掻いて、ずるずると落ちそうな寝間着を片手で掴みながら、未だ寝ている亮太の頭を足で蹴った。

「そこの窓から放り投げちゃえよ」

 俺がそう言うと裕也は、ははと声をあげて笑った。

「それ、前にやったよな。そしたらペシャッて音がしてさ、血まみれになって『おはようございます』ってな。あの後、三日くらい仕事休んでさ」

「じゃ、こんどは指でも切り落とすか」

「指、指ね。しかし指落としたくらいで起きるかね、こいつ」

「じゃ、マラでも落とすか」

「いいね、それ。グッドアイディアってやつだな」

 俺は冗談で言ったつもりだったのだが、裕也は本気にしたようで、ポケットからナイフを取り出すと、寝ている亮太の布団をはぎとり、ズボンを降ろす。そして「亮太君、朝ですよ」と言って亮太のマラに光る刃を当てる。裕也はにやにや笑っている。

 裕也は冗談を本気にするところがあるな、と思った。そもそも俺達は会ってから半年もたっていないので、まだお互いのことをよく知らない。

 亮太はすごい勢いで起きた。寝ぼけ眼で、マラにあてられたナイフを見、ひっと声をあげる。

「や、起きないからさ、マラ落とそうかと思ってな」

「ちょっと血が出てるんだけど」

「マラって再生するらしいぞ。二股に分かれた凄いのが生えてくるって生物学者が言ってたなあ。感度も抜群だってさ」

「だったら、手前のマラで試してみろや」

「だいぶ前に試したよ亮太君。恋人がな、マラが欲しいって言ったんでな、切断して郵送してやったんだよ」

「生えたのか? 二股にわかれたやつが」

「俺のは一本しか生えなかったなあ」

「すくなくとも再生はするのか。すごいなマラは」

 亮太も冗談を本気にするところがあるな、と思った。


 *


 開店間際。俺がテーブルを拭いていて、亮太はネギを刻んでいて、そのネギが目にしみるようで目をしばたたかせながら、それでもネギを刻むことに奮闘していた。裕也はさぼって煙草を吸っていた。経営者である老夫婦は、釜の湯をコンロで沸かしていた。「おはようございます」と声があがる。店内の入り口に、涼子と文恵が左右対称に並んでいた。彼女らは、今は夏休み中らしい。部活で水泳をやっているので、肌は褐色に焼けていた。その肌の上を細かな汗の玉が浮いている。私服の上にエプロンを着る。

 エプロンを着た涼子に向かって、俺はテーブルを拭いていた布巾を投げた。布巾は涼子の腹にあたり、手でそれを受け取った。

「テーブル、拭いといて。あ、あと醤油のビンとかもね」

 俺が言うと、涼子は不服そうな顔をする。

「また、さぼりですか」

「さぼりじゃなくて、ウンコね」

「ウンコって言えば、さぼれると思ってますよね、五郎さんって」

「ここで漏らされても困るだろう」

「あ、そう。じゃ、行ってらっしゃい」

 俺は首を回して、関節を鳴らせた。そして、汗を流してテーブルを拭く涼子を尻目に、ヴェランダへ行き、煙草を吸った。思い切り煙りを吸い込んで、空へむかって吐き出す。吐き出された煙は、徐々に薄れていき、大気と同化する。空は青かった。雲が風に流されている。向かいにある神社には徐々に人が集まっていく。毎日毎日、馬鹿じゃねえかこいつらはと悪態つく。再び、煙草の煙を吸い込む。吸い込んだ煙が肺にずしんと来るのがわかる。幸福? いや、充足。

 フラッシュバックする。なぜこうもあの頃のことばかり思い出すのだろう。俺は今、ここに居るということより、あの頃のことの方がより現実感を帯びて自身にのしかかっているような、そんな気がした。あそこでは、幹部連中の吸ったシケモクばかりを吸っていた。シケモクを吸うことのみじめさときたらない。他人の残滓だ。残滓を好んで拾い、それをあたかも新品ででもあるかのように、嬉々として先端に火をつけ「ああ、うまい!」だ。それをやめろと言って止めようとした連中もいたが、やつらも結局はニコチンに屈服し、シケモクを吸い、満面の笑みを浮かべ「吸いたりねえな!」だ。あそこにもし、一個のサブマシンガンなどがあったら、あのプライドを剥奪された豚どもに向かって乱射し、盛大な祭儀のような晴れやかな空間を演出しただろう。シケモクをくわえる唇を銃弾が削る。裂かれて地面に落ちた唇はぴくぴくと鈍く痙攣する。唇がなくなると、こんどは鼻で吸おうとする。銃弾が鼻を削る。くるくると鼻が宙をまう。今度は耳でシケモクを吸う。面倒くさいので、今度は頭部を撃つ。血が壁に飛沫する。頭部を撃ち抜かれたにもかかわらず、床に落ちているシケモクを這いずりながら手をのばし拾おうとする。銃の尻で、頭部を叩き潰す。何度も、何度も叩き潰す。祭儀は静謐な終焉をとげる。

 そこまで考えると途端に胃がこみあげ、その場に嘔吐した。肌色の液体の中に、今朝食った魚の頭があった。目端に涙が浮かぶ。「大丈夫?」と涼子が駆け寄る。「ウンコじゃなくて、ゲロだったんだね」と皮肉を言う。その涼子の顔を見上げる。陽にあたって汗の玉が光っている。眼前を見る。立ち並ぶ樹木、一本の道路、神社、空、雲。開けた空間。俺は今ここに居るんだ。あの、乱立する風俗店に囲まれた豚小屋ではない。樹木と、空と、雲と。ここに、いるんだ。だが、現実感がない。俺はとっさにナイフを出して、自分の掌に突き立て、現実感を保とうとした。しかし止めた。涼子の目がある。そう、涼子や文恵や老夫婦や亮太や裕也、彼らの中に俺はいるんだ。深呼吸し、錯乱する思考を正常にしようと努める。目端を拭い、口端にこびり付いたゲロを拭う。涼子が顔を覗く。俺は涼子に煙草を差し出す。「吸う?」「吸いません」。煙草を吸い、煙を吐いた。吐き出された煙は、徐々に薄れていき、大気と同化する、青い空と同化する。


 *


 真夏の燃えるような陽が各窓から射し込んでいて、店内は生彩に満ちている。開け放たれた窓からは時折、昆虫が入ってくる。一度でかいオニヤンマが入ってきて、亮太がその背後に近寄り、踵落としで殺そうとしたが、転倒して失敗した。

 クーラーはない。等間隔に並べられた年代物の扇風機だけが無気力にからからと音たてて風を送っている。その微かな微風は誰の幸福ももたらしはしなかった。

 畳が敷き詰められた店内にテーブルが列をなしている。テーブルの下に等間隔に並べられていた筈の座布団は、客が入れ替わるごとに段々とずれていき、等間隔ではなくなっていく。

 店内の席のほぼ全てが埋まっていた。家族連れの客、一人の客、居眠りしてる客、便所を探している客、TVの甲子園を見ている客。

 厨房では沸き立つ釜、天麩羅の揚がる音がなっている。熱気が籠る。オーダーの声が次々と上がる。涼子と文恵がそれを受ける。亮太はそばのつゆが入ったペットボトルを碗に注ぐ。その慎重さときたらない。二ミリ以上の誤差は許せないらしい。「俺はさ、二ミリまでだね。譲歩できるのは」。俺は次々とあがるオーダーで頭の中が混乱し、祖末な脳をもったことを呪う。諦めてさぼろうと思い、階段をあがり二階のベランダへ行くと、そこではすでに裕也がさぼって煙草を吸っていた。煙草を吸う裕也の向こうには熱気を孕んだ積乱雲が見えた。俺は裕也の背後に近寄り、後頭部を足で蹴る。

「こんな忙しい時にさぼるな」

「お前は何しに来たんだよ」

「さぼりに来たんだよ」

 そう言うと、裕也は笑って煙草の灰を外に落とす。外では店を出入りする客の頭部が見える。裕也はその中の一人に向けて人差し指をたてて掌を拳銃の形にし、「ばん」と言う。

「ここから小便したら大変だろうなあ」

「お前のデカマラを見て大騒ぎだな」

「いや、マラじゃなくて小便がさ、客の頭にかかってさ」

「そりゃ大変だな」

「しないけどな」

「そりゃそうだ。ここで、はっちゃけた事はできないなあ」

 うんうん、と裕也は頷いて、鼻から煙草の白い煙を吐く。俺も煙草を取り出して先端に火をつける。

 真昼の熱気で、積乱雲が異様に発達していて、空のほぼ全域を圧倒するようにあった。その生気に満ちた脈動するような輪郭線を見ていると動悸が激しくなる。空の下には、でかい神社がある。紅い鳥居がなにかの器官のように建っている。神社の左手には駐車場がある。駐車場のアスファルトは陽の光を受けてきらきら光っていた。駐車場の向こうは田園が広がっている。青々と茂る稲は、時折ふく風に揺れていた。

 煙を吐く。外へ灰を落とす。はらはらと円を描きつつ灰は落ち、下の人間の頭に乗った。

「お前さあ、さっきゲロ吐いたんだって? 涼子たんが言ってたぞ」

「そう、吐いた」

「前を思い出したとかか」

「そう、思い出した」

「繊細なこったな」

「案外、あそこが懐かしいのかもな」

「あそこがお前の故郷とかか」

「そう、血まみれ糞まみれの故郷」

「はあ、変な奴だなあ。まあ、帰っても殺されるけどな」

 裕也はそう言うと、再び人差し指を拳銃の形にし、外へ向ける。ふと、店内から巨躯の男が出て来る。男は頭部を常に斜めにかしげていて、全体的にぐにゃぐにゃしていた。皮膚に針をさし、空気を入れて無理矢理でかくしたような感じだった。裕也は「お、でかい獲物発見」と言ってその男に人差し指を向ける。そして「さぞかしマラもでかいんだろうなあ」と呟くと、狙いを定め「ばん」と言って笑った。


 *


 涼子と文恵が左右対称に並んでいる。彼女ら二人のちょうど中心のあたりにカレンダーがかけてある。カレンダーにはヒマワリの写真が印刷されている。ヒマワリは青い空を背景に堂々と花弁を広げている。ヒマワリは涼子の頭部と文恵の頭部と、もうひとつの頭部のようだった。

 涼子はムッとふくれ顔を作っている。文恵は涼しい顔をしている。ヒマワリは堂々としている。文恵の腕には洗剤の泡が七色に光っている。洗い物をやっていたのだろうか。すでに店には客はいないようで、静寂にみちており、ただチチチという虫の鳴く音だけが、どこからか聞こえた。

 涼子が一歩足を踏み出す。俺の横には裕也がいる。裕也は俺に耳打ちする。「怒ってるっぽいぞ。どうする」「率先して洗い物でもやろうか」「いいねそれ」。

 俺と裕也は「はいはい、ごめんなさいね」と言って涼子と文恵をかきわけて、奥の厨房へ行く。厨房には山のように膳が積み上げてあった。俺はそれに洗剤をかける。裕也はスポンジで洗う。ふと後ろを振り返る。涼子が腕を組んで仁王立ちしている。目が合って、慌てて反らす。洗い物に夢中になるふりをする。背後から大きく息を吸い込む音がする。

「どこ行ってたんですか、こんな忙しい時に」

 憤りを露にしている涼子を、文恵が、まあまあと言ってたしなめる。

 俺は裕也の膝を蹴って、何か解答しろと促す。裕也はスポンジを持つ手を動かしながら、首をひねって涼子の方を向いて答える。

「えっと、二階のベランダでだな、二人で仲良く立ち小便をしていたのだよ、涼子たん」

「その、たんっていうの止めてくれませんか」

「それはすまなかったね涼子たん」

「あ、そうそう、後で神社へ行きませんか」

「急な展開だね涼子たん」

「その後、花火しませんか花火」

「楽しそうだね涼子たん」

「その前に洗い物しませんか洗い物」

「現実的だね涼子たん」

「よっしゃー、洗い物おお!」

「もうやってるけどね洗い物」

 蛇口をひねり、洗い終えた膳を水道水で流す。生暖かい水が膳の長方形の上を幾筋かにわかれて伝う。銀色の流し台を水滴が飛ぶ。ふと前方を見る。厨房の向こうにはカウンターがあり、その向こうには店の入り口があった。ガラス張りの入り口からは車道が見える。午後の光をうけて車道には野良猫がいた。野良猫は車道の白線の上のあたりで座って毛づくろいをしている。涼子が猫が好きだったのを思いだし、「ほら、猫がいるよ涼子たん」と言うと涼子は「ほんとうだ、可愛い」と言って笑う。

 ふと我に返る。猫がいるよ涼子たん、ほんとうだ可愛い。その間の抜けた会話にひどく苛立ちを覚える。

 猫が立ち上がり、慌てて走って行った。そのあとにバサバサと羽音をたててカラスがとまった。カラスは猫が逃げていった方向をじっと眺め、瞬きして、こちらの方へ顔を向けた。俺はカラスを指差して「可愛い」と呟くと、涼子は怪訝そうな顔をし、ふたたび洗い物をはじめた。


 *


 血を思わせる真紅い空だった。神社には小石が敷き詰められている。踏むたびにじゃりじゃりと音がする。裕也は涼子と、亮太は文恵とつるんでいる。何を話しているのか、彼らは笑っている。彼らが前進する背後を俺はついて行く。

 所々に黒々しい樹木が生えている。樹木は紅い空を突き抜けるようにある。樹木の周囲を囲むようにしてカラスが飛ぶ。燃えるような空を背景に黒色のカラスがデタラメに飛ぶ。その赤い空と、黒色のカラスは妙に合っている。

 目を閉じて、開ける。

 彼らは神社のひしゃげた木造の階段をのぼる。俺も後に続く。階段はみしみしと音をたてる。その音に耳を傾けつつ彼らの背中を見る。俺と彼らとの距離はあまりに遠い気がする。

 彼らは賽銭箱に小銭を投げる。俺も彼らの挙動を真似てそうする。小銭の落ちる音が空しく響く。彼らは手を合わせてなにかを祈っている。俺も彼らの挙動を真似てそうする。目を閉じて何か祈ろうとする。その瞬間、「五郎!」と呼ぶ声がした。驚いて目を開けてみると、銃口が突きつけられていた。ロボットのようながっしりした手。その腕には金に光る鎖が垂れている。銃口の底なしの闇。その闇をじっと見つめる。それは死そのものだ。ここから銃弾が飛び、俺の頭蓋を撃ち抜き、脳漿が飛沫する、そう思うと全身に血が駆け巡る。俺は拳を握り、振り上げる。直線に突き出し、そいつの鼻を潰そうとする。しかし拳ではやや威力が弱いと考え、拳ではなく、肘で鼻を打った。グシャッと確かな手応えがする。潰した、と思った。しかし、吹き飛んでいたのは亮太だった。拳銃など持っていない。亮太は賽銭箱に寄りかかり、鼻から間断なく血を吹き続け、口のあたりは血で、黒いマスクのようになっていた。亮太はぼうっとした、おぼつかない目をしている。涼子や文恵、裕也は唖然と俺の方を見つめる。俺はその光景を可笑しく思い「ははっ!」と声をあげて、笑った。

 裕也が俺の頬を打つ。涼子と文恵は泣いている。亮太は相変わらず鼻から血を流している。死ぬんじゃねえかこいつは、と思うほど血が出ていた。

 裕也に打たれた頬がじんじんする。打たれた箇所から痛みが同心円に広がっていくような感じがし、それが何故だか面白かった。

 再び裕也が俺の頬を打った。さすがに頭に来て、殴り返そうとしたが、大振りだったので裕也はよけて、俺の腹を蹴った。胃が痙攣し、その場にゲロをしようとしたが、どうせゲロを吐くならもう少し気の利いた所で吐こうと思い、賽銭箱の中にゲロを吐いた。

 涼子がそれを見てちょっと笑った。文恵は相変わらず泣いている。つまんねえ奴だなと思った。

「お前には後で話がある」

 と裕也は言った。怒りで肩が上下している。

「楽しい話だといいな」

 紅い空を見る。カラスが飛翔し、夕焼けの中へ溶け込んでいくのが見えた。


 *


 闇夜の中、救急車の回転灯が真紅の光線を放ちつつ、回転する。長方形の救急車は、闇の中で深海魚のような量感をもってそこにある。

 回転灯の光は、周囲を舐めるようにして移動を続ける。

 綺麗だな、と思って俺はそれを眺めた。

 亮太が運ばれていく。亮太は両手で鼻をおさえていたが、手の指の隙間という隙間からいまだに血が流れ続け、手の甲の部分をちょろちょろと血が走っていた。

 救急車が走っていき、やがて闇に溶け込んでいった。

 車道に並ぶ街灯は等間隔にあったが、その幅が非常に広く、街灯から発する僅かばかりの光は、闇に敗北していた。暗闇には不思議な透明感があるように思え、それが俺の身体に浸透するような気がした。

 涼子と文恵は大分前に帰った。二人とも涙で目を腫らしていた。帰る時、涼子は涙で腫らした目を一瞬、こちらへ向けた気がしたが、気のせいだったかもしれない。

 俺と裕也は、闇の中へ消えていった救急車を見届けると、部屋の中へ入った。暗い部屋の中の明かりをつける。蛍光灯が白い光を明滅させる。

 俺は部屋の隅にあった漫画雑誌を手に取り、広げる。裕也が近寄って来、漫画雑誌を取り上げ、俺の前であぐらをかく。

「なあ、最近どうしたんだ」

 そう聞かれた瞬間に、俺の中で渦をまいていた感情が一気に発露しそうになったが、それは言語として表象するとぐちゃぐちゃにしかならないような気がし、感情をおさえて答える。

「あそこが懐かしいんだよ。血と糞まみれのあそこがさ。ここにいると、頭がぼーっとしてくる」

「帰ったら、殺されるのわかってるだろう。どうする」

「帰るよ」

「お前、死ぬの怖くないのか」

「死ぬのは、死ぬほど怖いな」

「だったら、なんで」

「つまんないからさ、どうしようもない」

 俺がそう言うと裕也は、下を向く。裕也の顔の下にある畳に、一滴、一滴と涙らしきものが滴り落ちる。

「もうちょっとだけ、ここにいろよ」

 と裕也は下をじっと見つめたまま言う。その声は震えていた。


 *

 

 開店間際になっても、涼子と文恵は来なかった。昨日のことが余程ショックだったのだろうか。

 亮太は入院している。鼻と頬骨が陥没していたらしい。

 店内は急に静かになった。涼子と文恵が楽しそうに会話する声も聞こえない。裕也は俺と一言も口をきかなかった。

 妙に白々しい空気の中、客だけはいつもの通りに来た。

 涼子と文恵、亮太がいなくなったので、いつもの倍くらいに忙しかった。

 閉店した後、裕也は二階の部屋で、うつ伏せになって寝ていた。

 俺は部屋の隅に置いてある、裕也のバッグを開け、中を探る。手の先に、かたい金属質のものが当たる。それを掴み、取り出した。拳銃だ。

 拳銃を腰にさし、上からシャツで隠した。

 そして、部屋を出ようと思い、振り返ると、そこでは裕也が起き上がっていた。

「んなもの持ってどうする気だ」

「やっぱり、帰るよ」

「殺されるって言ったろう」

「そう。だから拳銃」

「んなものでどうにかなると思ってんのか」

「思ってないよ」

「ここは、通さない」

 俺は腰から拳銃を抜いた。裕也はぎょっとした顔をする。裕也の足の甲に銃口を向け、引き金を引いた。火薬の破裂音が室内を響き渡り、裕也は足をおさえ、その場を転げ回る。

 俺は走って部屋を出た。バス停の方を見ると、丁度、バスが来ていた。そこに乗り込み、座席に座る。窓の外の景色をじっと眺める。

 十分ほどで駅についた。降りていった。するとそこには何故か涼子がいた。幻覚かと思い、通りすぎようとしたが「五郎さん」と声がかかった。

「さっき裕也さんから電話があって」

「あっそ」

「帰るの?」

「そう、帰るの」

「また、ここに戻ってくる?」

「もう来ないよ。亮太ぶん殴って、裕也の足をぶち抜いたんだ。もう戻れないな」

「そっか。あ、これあげる」

「何これ」

「ガム。あまり美味しくないけど」

「あまり美味しくないものを人にやるのか、君は」

「あまり良い思い出がないから、丁度良いかと」

 涼子はそう言って笑う。

 俺は、じゃあねと言って、その場を立ち去り、切符を買ってホームへ行った。ホームから涼子の姿が見える。涼子は手を振って、しばらくすると帰っていった。

 駅のアナウンスが響き、電車が来て、それに乗った。一時間ほど乗って新幹線に乗り換えた。

 新幹線の窓の外を見る。田園が広がっていた。田園は段々と消えていき、工業地帯が広がり、やがてそれも消え、ネオンの瞬くビル群が辺りを覆った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

血と糞 昼野陽平 @hirunoyouhei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ