第96話 新たな始まり
前回選挙の告示日は、雪模様の雨だった。今日は、早朝から初夏の日差しが照りつけている。
まもなく始まる出陣式を前に、少しずつ緊張感が高まってくる。
落ち着かない気分のまま事務所で待機していると、西條さんが訪ねてきた。
「慣れんと、人前で挨拶するのは緊張するやろ。自分も昔はそうやった」
日々是好日と言わんばかりの晴れやかな表情だった。
「ごめんな。これから法事に出かけるで、出陣式には出られんけど、がんばってな」
「ありがとうございます。わざわざすみません」
感謝の気持ちを笑顔に込め、両手でしっかりと握手した。
事務所横の運送会社の駐車場。区長の挨拶から始まり、天神町のおじさんの応援演説が済むまで、演壇の近くに立って待つ。
深呼吸して、気持ちを落ち着かせようと試みる。頭の中で、演説の内容を確認する。
区長から氏名の入った襷をかけてもらい、壇上に上がった。
朝陽は、僕の背中にある。立ち並ぶ地元の人たちの表情がまぶしそうだ。手をかざし、目を細める人ひとりひとりの顔を見る。広く全体を見渡しながら、ゆっくりと話し、無事に挨拶を終えた。
僕のあとで、門先生が応援演説に立った。朝七時半に事務所に到着し、しばらく姿が見えなかったが、その理由はすぐに分かった。事務所の近くにある城山に登っていたのだ。
「私は今朝、星野川城が建っている、あの山に散歩がてら登ってきました。お城のそばに銅像がありましたが、星野川の皆さんはよくご存知の方なんでしょうなぁ。その由来についても、記されておりました」
城山は、星野川城が建つ小高い丘である。頂上には、現在の星野川市の町並の基盤を造った初代藩主と、幕末の藩の窮乏を救った家老の銅像が建っている。その二人を引き合いに出し、集まった人たちに呼びかけた。
「この不況から町を救い、そして新たな時代にふさわしい星野川を築いていく、そんな政治家を育てていこうではありませんか」
その場で得た情報を上手く取り入れて、身近な話題で共感を誘うのが、門先生一流の演説手法である。
最後の選挙を覚悟しながらも、気分は昂揚していた。
古いものを変えるのは、容易じゃない。状況が変わらないなら、自分が変わればいい。個々人が変われば、いつかは全体が変わっていくだろう。
僕にとって、今この時が、新たな始まりなのだ。
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