第62話 永遠の別れ
待合せ場所は、幼稚園の前にある図書館の駐車場だった。砂混じりの雪が残る花壇では、桜のつぼみが北風に揺られながら、まもなく訪れる春を知らせていた。
年内には結婚して星野川を出て行くという彼女に、僕は会社員となり、もう選挙には出ないことを打ち明けた。
「人のことを考えすぎだと思う。これからは、もっと自分のために生きてほしい」
彼女の言葉が、僕の胸を締めつける。正直に自分の気持ちを話し、思いのままに行動すればよかったんだと思う。これからの僕の人生に、香山さんはいない。忠告が、決別の言葉として響いた。
「お別れに握手しよう」
「手汚いよ。今日で最後だから、掃除してたの」
右手を差し出す僕を見つめ、はにかみながら微笑むと、彼女は両手を後ろに隠した。
「かまわないよ」
香山さんの前に、右手を突き出した。「ふふっ」という聞き覚えのある鼻にかかった感じの照れ笑いをして、彼女はそっと手を差し伸べた。僕はその手を、しっかりと握り締めた。
「こうしていると安心するね」
視線を落としながら、ため息をつくように彼女がつぶやいた。
その一言に、やり場のない切なさが込み上げる。
僕はあの時、彼女から逃げたのだ。
恋人のいる人を思う苦しさに耐え切れず、自分から手を離してしまった。彼女はきっと、いつまでもしっかりと握り続けていてくれる力強い腕を求めていたのだろう。
今さら後悔してもどうしようもなく、切なさで胸が張り裂けそうだった。
握った手を緩めると、彼女はそっと手を引いた。
「二人で、ずっと星野川で暮らせたら、よかったのにね」
溶け残る雪を見つめる表情は、今にも消えてしまいそうなくらいに儚げだった。
手を離した後も、本当にこれでもう会えなくなるのだと思うと名残惜しく、僕は懸命にとりとめもない話を続けた。
なかなか戻ってこない香山さんを心配したのか、年配の女性が幼稚園から出てきた。
「もう昼休み終わるから行くね」
通りの向こうに立つ先生を気にしながら、彼女はふいに別れを告げた。
「最後にもう一度握手しよう。今度は政治家ふうに」
抱きすくめたい気持ちをごまかすように、冗談めかして両手を差し出す。二つの手の平で、彼女の細い右手を包み込んだ。
「さようなら、お幸せに」
「ありがとう。仕事がんばってね」
僕の決心を込めた最後の別れの言葉に、幸せな様子が伝わる優しげな微笑みで答えると、彼女は静かに手を離した。幼稚園の前で待つ女性に頭を下げながら戻っていく後ろ姿が、思い出の卒業写真のように僕の心に深く焼きつき、一瞬にしてセピア色に変わっていった。
幼稚園に入るのを見届けると、選挙と恋、二つの未練を振り切るように、すばやく車のドアを閉じる。冷えた車内に舞い込んだ風が、慰めるように優しく僕の頬を撫でた。
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