第36話 姉と弟


「20万」

「10万」

「18万」

「12万」

「15万!」

「買った!」

「売った!!」



 ここに一つの取引が成立した。互いにカウンターを叩きあって、額を付け合わせんばかりにラビィはレオンと睨み合った。と、いうのも、彼は何にでも染まる男だ。こちらの熱を上げれば、向こうも同じ熱量で対応する。誠実には誠実に、不実には不実に。癖のある男なのだ。



 やっとこさ終わった取引に、ふう、とラビィは一つ息をついて額の汗を拭った。使用人から剥ぎ取ったローブはぶかぶかで収まりが悪いが仕方ない。



「いやぁ、ラビィ様も最近は随分手慣れてきたよねぇ」



 言い値で売る、なんて言っていた頃が懐かしいなぁ、と相変わらずレオンは語尾を伸ばしてへらへら笑っている。気が抜けた態度になったのは、それこそラビィを真似たからだ。すでに張りつめていた糸はない。「何度も通わせていただきましたから」 確かに、最初こそ恐る恐ると震えながら店の扉を叩いていたラビィであったが、今ではさらなる貯蓄を希望に鼻歌まじりで扉を空ける始末である。




「まあ、人間とは成長するものですから」

「お嬢様を見ていると、ほんとにそう思うよ」




 目的の硬貨を懐で温めながらも微笑むラビィに、レオンもそれに合わせた。怯えた表情で、白い体を必死に隠す兎なんて、もうどこにもいないのだ。





 ***





 想像よりも早く終わったことで、今日の訓練時間を算出してラビィはほくほくと帰宅した。時間とは有限であり、特にラビィは誰よりもそれが足りない。だから一分一秒でも重要で、無駄なことなんて、何一つできない。



 そのはずなのに、妙に自分自身の足が重くて、今朝のフェルの様子ばかりが気がかりだった。同じ馬車に乗りながらも、揺れの一つで嘔吐してしまうのではないかと不安になる程度で、他人を見ている気にならなかったのは、腐っても姉弟だからだろうか。彼の落ち込み具合が、ラビィ自身とひどく似通っていた。



 フェルの不調に気づきながらも、ラビィは腹痛を主張した。我ながら神がかった演技だった。こうしてフェルのみ試合場に残し、彼女は屋敷へとんぼ返りをして、自由の身とばかりに街に繰り出したというわけである。



「……今、試合はどの辺りなのかしら?」



 予定では予選はもちろん、本戦に間に合うはずもなかったが、レオンの店が想像以上に客の入りが少なかったため、スムーズに商談が進みすぎてしまったのだ。レオンは、『閑古鳥が鳴いてるよぉ!』と嘆いていたが、早く終わるに越したことはない。さっさと日課の訓練に移るべし、とわかっているのに、気がつけば御者のもとに乗り込んで、ぱかぱか馬の足音を聞きながらラビィは馬車に揺られていた。ひどい熱気だ。



 実際、彼女はこの場に来たことはない。試合会場をぐるりと取り囲むドーム状の観戦席には、いたるところにお嬢様やらお坊ちゃまが入り乱れて、この日ばかりは彼らもはめを外して目当ての人間に声援を捧げる。時折あまりの暑さに倒れてしまうご令嬢もいるため、一部の貴族たちは側に使用人を控えさせている。



 まさかこんな場所に来ることになるとは思わなかった、というところが感想だ。以前のラビィなら、一歩踏みしめるだけで蒸発して、解けて泡となって消えてしまっていただろう。ゲーム本編の知識として理解はしていたものの、今でも勝手に汗が吹き出して、体力ばかりが吸い取られて行ってしまう。



 日傘はもちろんのこと、必需品だ。本戦に残っている人間たちをちょこまか探って、豆粒のようになっている彼らをじっと見つめた。バルドはもちろんのこと、サイ、そしてフェルも残っているらしい。あとは教師であるマシューもお手本役として参戦している。想像通りだ。予選では人数を削ぎ落とすだけ削ぎ落として、本戦では残った人間達がぶつかり合う。丁度フェルの試合らしく、彼は見ず知らずの学生を撃破していた、ように見えたが、どうにもキレが悪く、魔法では明らかに撃ち負けていた。



 ラビィは、そっと眉根を寄せた。これも、彼女の想像通りだったからだ。

 本来なら中等部と言えど、圧倒的な実力を持つ彼がこれほどのはずがない。その上押し負けていたのは魔力量だ。それは技術でもなんでもない。



(今日は、フェルの影の日なのね……)



 考えてみると、ひどく苛立たしかった。ラビィは唇を噛んだ。僅かに、鉄の味がした。






 ***






 この交流戦イベントと勝敗は、各キャラの好感度が密接に関わっているのが特徴だ。聖女であるネルラ自身との好感度や交流度で、上位だけではなく、下位の順位まで決まってくる。ネルラと一番交流が低いキャラクターは、予選はなんとか通り抜けられるものの、本戦ではとにかくズタボロに負けてしまう。なぜならバルドを除いて、誰が一番交流度の低いキャラクターとなっても、影の日、つまりは一年で一番魔力が低くなる日として設定されてしまうからだ。それが、フェルなのだ。



 考えてみれば彼は花祭りのイベントの際もネルラに断られたらしく、悲しく屋敷の門をくぐっていた。年齢も他のキャラクターよりも若く、中等部の校舎も近いわけでもない。わざわざ自分から関わりに行こうとしない限り、現実では彼との交流を深めることは難しい、ということは理解できる。



 それでも、奇妙な違和感があった。ゲームをプレイしているときには深くまで考えることはなかったが、ネルラと交流が少ないから、今日がフェルの影の日となるだなんて、おかしなことではないだろうか?



 影の日は、家族以外が知ることはない。ただし兄弟は別だ。無意味な争いの種になる可能性があるからだ。だからラビィは、フェルの影の日を知ることはないが、フェルは生まれ持ったそのときから、こうなることが運命づけられていたとでも言うのだろうか。本来なら、誰がなってもおかしくなかったはずなのに。



 まるでこれでは、ゲームのシステムそのものに、世界が縛られているようだった。

 それこそ、ラビィが死んでしまうことが義務付けられているかのように。



(馬鹿馬鹿しいわ……)



 今の所はなんとか勝ち上がっているものの、これからフェルは、ずたぼろに負けてしまう。そうしてバルドは見事に優勝し、フェルはネルラと皇子を盛り上がらせる、ただの脇役の一人に成り下がる。


 確かに、彼は生きて、今も必死に剣を振っているはずなのに。





 ひどく、ラビィの胸の内がざわついていた。あまりにも理不尽で、腹が立った。紅葉のような手のひらをこちらに向けて、ねえねと笑う弟すらも、ただこの世界の歯車の一つにしか過ぎないと理解したとき、ただただ、腹立たしかった。馬車の中で、震えていた弟を思い出した。彼のあの恐怖すらも、決まりきったことだったのかと自答したとき、気づけばラビィは駆け出していた。




 ――――あんな骨が姉なんて恥ずかしいよ



 突き刺さった棘はある。互いに視線も合わせない、言葉も交わさない。彼ら二人は、ただ馬車の中で無言のままに同じ空間にいるだけの存在だ。けれども、フェルが弟である事実は覆しようもないことだ。そうして、叩きのめされる少年の姿を想像して、己に重ねた。いくら抗おうとも無駄なのだと、そう神から告げられたような、そんな気さえもした。



 吐き出す息が荒いのは、彼女の足が驚くほど速く動いているからだ。この間までは、幾度も躓いて転げ回っていたくせに、歓声の中を必死にかき分けて、飛び込むようにラビィは近づいていく。彼女は成長している。とっくの昔に投げ捨ててしまった日傘の代わりに握りしめているのは、小さなハンカチだ。本当は、屋敷に戻ってからいてもたってもいられなくて、部屋の中から持ち出していた。



「フェル!!!」



 なんとか接戦ののちに勝利したフェルは、体中を汗でびしょ濡れにさせて苦しげに体をくの字に折りたたんだ。一歩一歩、ふらつきながら石畳のリングから足を下ろす。「フェルったら!!」 ラビィの声は、ぴくりとも聞こえていない。ラビィは舌を打った。そうして、ぱちりと指を鳴らして彼の頭の上に水をぶちまけた。もちろん、ティーカップ一杯程度の水しか出すことができないのだが。



「なっ……、なんだ……!?」



 頭をびしゃびしゃにさせて、慌ててフェルは周囲を見回した。「丁度いいわ、ちょっとくらい頭を冷やしたらいいのよ!」 ついでに、ラビィは大股をあけて観戦席から飛び降りた。ぴしりと両手を上げて、百点満点のポーズと共に曲がってもいない足首に感動したが、そんな場合ではない。不審なラビィの行動にざわつく声がきこえるが、聞こえないふりをした。



 頭から水を滴り落としながら困惑するフェルに、ラビィはずんずんと近づいていく。互いにあまり背の高い姉弟ではないから、フェルも、彼女よりも少しばかり目線が高い程度だ。



「フェル、あなた、一体何をしているの」

「な、何って……? いやそれよりも」

「いい? フェル、あなたは天才なのよ」



 ハリネズの設定を知っているから。理由は、決してそれだけではない。小さな頃から賢くて、覚えもよくて、とにかく器用だった少年だ。いつの間にか大きくなってしまったその手を無理やりひっぱって、彼の手にハンカチをのせた。始めこそは首を傾げていたものの、そのハンカチの中身に気づくと、フェルはかっと顔を赤くした。



「隠さなくていいの。だってあなた、ずっと好きだったじゃない」



 ただの手持ち無沙汰に、習い事の一つとして下手くそな刺繍をしていた。そうすると、いつでもどこからか小さなフェルがやってきて、『ねえね、すごいね』とほっぺを真っ赤にさせて喜んだ。いつの間にか、銀の針が一本消えていたことに気づいて、小さな子どもに危ないとわかっていたけれど、その頃にはネルラの欲に縛られて、身動きすらもとれなくて、ラビィは何もすることができなかった。



 その針が、今ここにある。



(見ないふりをした方が、面倒もない。そうした方がいいに決まっている。わかっている)



 なのに叫ばずにはいられなかった。処刑台に登っていく画面向こうのラビィの姿が、フェルと重なってしまった。そうして、たかが『ゲーム』の『設定』に縛られてしまうことが、腹が立って、腹が立って、腹が立って仕方がなかった。だから、我慢なんてできなかった。



 彼の次の相手はサイだ。本来なら、勝てるはずもない。けれども。




「これで、さっさと勝ってきなさい!」




 フェルはひどく顔を歪めた。そうしたあとに、細い一本の針を握りしめた。相変わらず息も荒く、疲れた顔つきだ。


 それでも、少年は戦うことを選んだ。

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