第27話 馬の魔道士


 ラビィが人に褒められた記憶といえば、すでに遠い過去の記憶となっている。



 今はまだ小さな手のひらであったフェルが、こぼれおちそうな真っ赤なほっぺで、「ねえねは、すごいね」と、なんてこともないラビィの手先の動きを見て、うっとりと褒めてくれたような、そんなキラキラした小さな記憶があるくらいで、それから先、そんな思い出もネルラとの出会いで少しずつ、壊れていった。




 恥ずかしくも頭を下げて、サイに試験の結果を報告したとき、「よくやったじゃないか」と彼はただ端的なセリフを紡いで、いつもは堅苦しい表情も、僅かに和らいでいた。それから彼はハッと何かに気づき、慌ててまた顔をしかめた。なんなのかと思えば、「ラビィ様の努力の結果ですので」と言葉を難しく言い直したのだ。互いに、敬語を除いて話し合う仲ではないのだ。



 それでも、喜ぶなという方が難しかった。ただの何の変哲もない中庭が、幼い頃のようにどこか色鮮やかで、幾度も彼の言葉を、頭の中で繰り返した。わけもわからず、ただラビィは嬉しかった。兎みたいに、心の中で飛び跳ねた。ぴょんぴょんだ。




 とかなんとか幸せな気持ちが続くわけもなく、ラビィはぐったりと死んだような目つきで、自身の担任を見つめていた。

 相変わらず、プリントが一枚足りない。その上、試験が終わってからというもの、さらに当たりがきつくなっているような気がする。



(……いい加減に、してほしいのだけれど)



 学園の生徒は平等に、という規則はあるものの、教室に詰められているのは、生粋のご令嬢たちばかりだ。そんな彼女たちの前で、マシューは堂々とラビィ個人を非難することはないものの、何かに付けて嫌味のようにこちらを見ながら言葉を付け足している気がする。なんなんだ、この捻くれ男は。



 ラビィがネルラに対して持ちうる気持ちはただの憎悪で、関わることも、目に入ることさえも嫌で、逃げ出してしまいたいと考えている。それに比べて、マシューは大して痛くもない程度にちくちくとつついてくる程度だが、理不尽という言葉がラビィの頭を埋め尽くしていた。というか、毎度毎度、紙が一枚足りない、と告げることも面倒だ。



 何か一言いってやろうか、と考えたものの、そこまで労力を使うのも馬鹿らしい。ラビィの時間は貴重であり、一分一秒と無駄にできない。休み時間になれば、サイが別棟からラビィのもとにやってきて、合流という監視が始まり、中庭まで行くことがお決まりのコースだ。手をあげて、紙が一枚足りませんと毎度の主張をすればいいだけだとぐっと我慢し、右手を持ち上げたとき、終業の鐘の音が鳴り響いた。


「それではこれで」


 マシューは几帳面に手元の本を閉じ、さくさくと教室から消えていく。まったまった、と彼を追いかけ、「マシュー先生」 呼びかけた声の持ち主がラビィだと気づくと、彼は心底億劫そうに眉根を寄せたが、素知らぬふりで、さっさと目的を告げた。


「先程の資料、私の分が足りませんでしたので、予備をいただけますか?」

「……ああ、はい」


 頭どころか、脳みそから生まれ出てきたと噂される天才魔道士だ。まさかうっかりと言うわけではないだろうに、という考えは飲み込んだ。わざわざ敵を増やしたいわけではない。


「ありがとうございます。それでは失礼致します」


 さっさと逃げるが吉である。危ない相手から、しっぽを巻いて逃げるのは大得意だ。「ラビィ・ヒースフェン」 だというのに、ラビィは彼に呼び止められた。冷ややかな声だ。面倒だ、と思いながらも、「はい、先生」と優雅に微笑むべく口元をぎちぎちと動かした。どうだ。練習の成果はでているか。まだだめか。


 マシューの表情は変わらない。切れ長の、細く鋭い目を更に薄めて、まるで嫌悪のごとく、ラビィを頭から見下ろした。



「あなた、もう少し真面目になった方がよろしいのでは?」

「……は?」



 さすがにちょっと、閉口した。

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