第七章 でんがな

     1

 がっ、と鈍い音と共に、いくやまさとは弾き飛ばされ、床に転がった。


 やまゆうが身体をぶつけ、ボールを奪ったのだ。

 ひょっとしてファールかなという一瞬の躊躇すら見せず、迷わずドリブルに入る。


 次に目の前に立ちはだかるのはかじはな、裕子は裏の裏をかいて全く速度を落とすことなくゆるやかなS字曲線で抜き去ると、かなめへとパスを出した。


 ゴールまでの間には、ゴレイロのなしもとさきが一人だけだ。


 走りながらパスを受けた久慈要は、さらに走り続けると見せかけて、シュートを放った。


 タイミングは完全にゴレイロの意表を突いていたが、角度がないところからの、しかも走りながらのシュート、決めるのは至難の技に見えた。

 だがそこは久慈要、さすがというべきか、ゴール右上のここしかないというまさにその空間へ、すうと筆で描くような軌道でボールを疾らせた。


 しかしシュートの決定率とは、相手あってのもの。

 ゴレイロの梨本咲は、最近どんどんと実力をつけてきていたが、その実力を、ここでも発揮して見せた。


 瞬時に伸ばした左腕でボールを弾いて、跳ね上げたのだ。

 落ちてくるボールを、楽々と胸の中に抱え込んだ。


 だがしかし、そこに山野裕子が飛び込んでいた。

 咲の腕の中にあるボールへ、頭をぶんと振ってハンマーのように叩き付けた。

 走り込んだ勢いを止められずに、咲に体当たり。


 手放すまいと、ぐっとこらえる咲の身体ごと、ゴールの中に押し込んでいた。


「うっしゃあ、ゴール!」


 裕子は右腕を突き上げ、雄叫びをあげた。


「王子、ファール! そんなプレーされちゃゴレイロが壊れる!」


 反対側ゴール前からたけあきらの苦情が飛んで、裕子のゴールは取り消しになった。


「ったく、味方の得点を取り消すなよな」


 裕子は笑みを浮かべながら、咲へと手を差し出し引っ張り起こした。


「うはあ、王子先輩、気合い入ってんなあ。あたしもかなわない」


 先ほど裕子に転ばされた里子は、立ち上がり、足首をとんとんしながら先輩のプレーというかガッツに感心していた。


「お、里子がそんな台詞いうなんて珍しい。王子先輩に降参ですかあ?」


 いたずらっぽく笑う花香。


「降参もなにも、あたし別に、気合いナンバーワンにならなくたっていいの。実力ナンバーワンになりたいだけだから」

「分かった分かった。でも里子のいう通り、本当に王子先輩、凄いね」

「大会が終われば、あとはもう引退だからね」

「それくらい気合い入れて勉強もやればいいのに」

「無理でしょ。脳味噌がそういう構造に出来てない」

「そうだね。テレビに乗って通学しろって、無理だもんね。冷蔵庫で洗濯しろとか、消しゴムでタイムスリップしろとか」


 などと里子たちが軽口をいっている間に、ゲームが再開した。


、あたしと代わって。づきも、カナと交代!」


 裕子は、交代の指示を出した。


 いま行なっているのは紅白戦である。

 試合形式の練習だ。


 裕子たちチームは、選手が入れ代わり、前線が西にしむらづきの二人になった。

 ここ数日、裕子がよく試している組み合わせである。


 だが、今日も相変わらず、まるで機能していない。

 ただ楽しげに走り回るだけの奈々に、フォローで手一杯の葉月。

 前がこれでは後ろもどうしようもなく、一瞬にして攻撃も守備も、チームワークのことごとくが崩壊し、一失点、二失点、三失点。


「よおし、それじゃ今度は、葉月に代わってナオ、入って!」


 裕子が叫ぶ。


「ナオはまだ来てないですよ」


 ふかやまほのかは自分の言葉に間違いがないか、念のためきょろきょろと見回した。やっぱり来ていない。


「ごめん王子、いい忘れてた。ナオ、具合が悪くて、今日休んでる」


 姉である晶が謝った。


「そういうことは、先にいえよバカ!」

「王子がいつも居残りで遅刻して、練習真っ最中に来るのが悪いんだろ。宿題くらいちゃんとやってこいよ。遅刻しなかったの、居残り免除されたあの一回だけじゃんか」

「やかましい、ジャガイモ!」


 なにいっても無駄だ。と思ったか、晶は憮然とした表情で、ゴール前へ戻っていった。


「暴君復活だな」


 里子が、ぼそっと呟いた。


     2

 それから程なくして練習終了。


 今日は、軽いウォーミングアップの後は、ほとんどを紅白戦に費やした日であった。

 対戦相手の対策と、コンビネーションの成熟のためだ。


 一年生が用具を片付け、全員集合の後、解散した。


 みんなが帰ったあと、ゆうは改めて用具室からボールを持ってきて、練習を開始した。

 ドリブルやシュート、一対一などの基本メニューを、二人だけで行なっていく。


 内緒の居残り特訓である。

 なぜ内緒にするのか、であるが、たいした理由ではない。


 さとがほぼ間違いなく「自分も残る」といい出すであろうからだ。彼女は他人だけ成長していくことが、耐えられないためだ。


 という里子が鬱陶しくて、つい殴ってしまうかも知れないから。

 そうなったら里子もきっと殴り返してきて、ここはいったい何部なんだか分からなくなってしまうから。


 だから内緒で練習するのだ。

 秘密特訓というわけではないのだ。


 奈々との居残り練習は、今日が初めてであった。

 常々、奈々は残って練習をしたいといっていたのだが、これまでは裕子が許可しなかったのだ。帰りが遅くなると、奈々の両親が心配すると思ったから。


 だけど今日、居残り練習を提案したのは裕子の方であった。

 いままでダメだダメだと断っていた手前、奈々にはいい難いのであるが、それは完全に自分勝手な私情による理由からだった。


 奈々の練習のためというよりは、裕子が、単に奈々のそばにいたいだけ。ただそれだけの理由であった。


 あとどれくらい、こうして一緒にいられるか分からないから。

 あとどれくらい、こうしてボールを蹴らせてあげられるか分からないから。


 あと一ヶ月半、夏休み半ばになれば裕子はフットサル部を引退して、いなくなってしまう。


 ましてや奈々は、それよりも早く、一学期終了をもってわらみなみ高校からいなくなることが予定されている。

 本来は六月一杯までのはずだったのだが、校長が委員会にかけあって、伸ばしてもらったのだ。

 予定通りであれば一学期一杯だし、もしもなにかあれば、いますぐに転校させられることもあるだろう。


 だからこそ裕子は、出来るだけたくさんの時間、奈々とフットサルをしたいと思ったのだ。


 奈々の母親には、昨夜送り届けた際に、今日は遅くなることを伝えてある。

 だから、たっぷりと、練習した。

 思い残すことないよう、ボールを蹴り続けた。


 とはいっても、ここにいつまでもいられるわけではない。

 夜八時、他部の顧問教師からの注意を受けて、二人はようやく練習を終えて、帰ることになった。

 本来、女子生徒はよほどの事情がない限り、夜七時には下校しなければならないのだ。


     3

 面倒だから、着替えずに体操着のまま校門を出てしまう二人。


 街灯のろくに整備されていない、木々に囲まれた鬱蒼とした県道を歩く。


 歩道だから自動車に轢かれる心配はないが、しかし坂道とあっては、さすがにボールを蹴るわけにはいかない。

 かわりに、二人でステップの練習をしながら歩いた。


 なにかをしてもしなくても、時間は同じように流れていく。

 より充実させたいのならば、

 時の流れる速度が同じであるのならば、

 その内容を、自分で濃密にしていくしかない。


 とはいえ、このようなことをしていて、なにが、どうなるのか。

 奈々との、行き着く先は、誰にも分からないというのに。


 でもだからこそ、分からないからこそ、やれること、やるしかない。


     3

「すみません、お代いただいちゃって」


 づきは、申し訳なさそうに小さく頭を下げた。


 学校も終わって、一度家に帰っているので私服姿だ。ブラウスにジーンズといった、あまり色気のない簡素な服装である。


「いいの、だって買いにきたんだから」


 カウンター越しにづきと向かい合っているのは、やまゆうである。

 居残り練習して、いまさっき西にしむらを送り届けたばかりとのことで、まだ学校の体操着のままだ。


 ここは和菓子店、葉月の親が経営しているお店である。

 わら駅南口近くにあり、地元の人にはそれなりに名を知られている老舗店だ。


 葉月は、父親が配送に出掛けている間の店番を頼まれているのだ。


 もうすぐ夜の九時。普段はこんな遅い時間に配送はしないのだが、先方の発注手違いで、追加分を届けることになったのである。


 なぜ裕子がここにいるのか。

 奈々を送り届けた後、佐原駅へと向かう途中、通りかかったこのお店のガラス戸の奥に葉月の姿を発見して、ちょっと寄って見たということだ。


 わたしでなくお父さんがいたとしても、きっと立ち寄っていただろうけどね。

 王子先輩とお父さん、冗談が好き同士で本当に仲がいいからな。


 と、葉月の心の声である。


「買い物したからってわけじゃないんだけど、ちょっと葉月ちゃんにお願いがあるんだけどさあ」


 裕子は、甘えるような気持ち悪い声を出した。


「なんでしょう」


 葉月の顔に、びりっと電気が走ったかのような緊張の色が浮かんだ。


「なんでお願いがあるといっただけで、そんな顔になんのさ。またギャグ百連発やれだのオザキ熱唱しろだの、無茶ぶりされると思ってんだろ」

「そんなこと……」


 思っている。


「いや、ギャグ百連発は今度でいいからさ、違うんだよ、えっと、さっき部活で、奈々と組んでもらったろ」

「はい」


 まだ、疑惑の残っている葉月の表情。


「あれは意味のないことじゃなくて、いちおう、なんだその、あたしなりに考えがあってのことでさ。でも、分かってると思うけど、まだまだ全然だろ。見ていて少しずつ良くなっているのは感じるんだ。だからさ、もっといろんな角度から、奈々を意識して欲しいんだ。もっと、よくしたいんだ」


 口を閉ざす裕子。

 しばらく、二人は無言で見つめ合った。


 どれほどの時が流れたであろうか。

 葉月は、胸を押さえたかと思うと、ぐにゃりと脱力、背もたれに背中をもたれさせた。

 ふう、と小さく息を吐いた。


「やっぱり、なんか変なことさせると思ってただろ」

「いえ、そんなことは。……あたし今ちょうど、奈々のこと考えてたところだったんです。先輩が何度も組ませるから、その、叱られないように、どうしたら良くなるかをノートにまとめてました」


 でないといつか、罰ゲームと称してなにをやらされるか分かったものじゃないからなあ。

 この先輩は、わたしが引っ込み思案なのをいいことに、面白がって、すぐに変なことをさせようとしてくるから。

 このあいだだってさあ、「校長室のドアを開けて、ジョーダンじゃないよ、って首をカクカク振ってこい」とか、それこそ冗談じゃないよ。なんでわたしばっかり、いじめるんだよ。


「なに?」

「いえ、なんでもっ! ええと、これが、そのノートです」


 葉月は慌てたように手元に置かれているノートを取り、開いた。


 奈々と葉月が入った時のフォーメーション、奈々の動きのパターン、それに対しての相手のリアクションパターン、相手リアクションに対してなにかをした際のそれぞれの成功頻度、奈々の動きに対して味方がどう動いてしまっているか。


 統計をとったわけではない、体感に基づく完全主観のものであるため、正確性は分からない。

 とにかくノートには、そのようなものが何ページにも渡って書いてある。


 それを見て、目の色を輝かせる裕子。


「わお、すげえ! 葉月さあ。こんなことしてて、熱出ないか? あたしだったら脳味噌溶けるよ。つうかさあ、こんなことしてて、学校の勉強も出来て、どんだけ賢いんだよ。羨ましい。というよりも、ムカツクな畜生。その脳味噌少し分けろ」


 裕子はカウンター越しに葉月を掴み引き寄せると、がっしと頭を抱えた。


「痛っ!」


 悲鳴にもお構いなし。葉月の身体を引き寄せると、あらためて頭を掴んで、おでことおでこをくっつけた。


「脳味噌、移れ! 移れ!」

「痛い! 痛いですって!」


 暴れる葉月を、裕子は強くおさえつけ、物質伝送作業続行。


「地球の物資は限られている。葉月がこんなに脳味噌たっぷりだから、自分のがこんな少ないんだ! うおお、移れえ!」


 仮にそんなことが起こり得るとしても、でも王子先輩の方が早く生まれているんだから、絶対にそんなわけはないのに。

 いたた、ほんと痛いっ!


「ただいまー」


 配達を終えて帰ってきた葉月のお父さんが、裏口から店内に入ってきた。

 二人の姿が視界に入るなり、ヒィィィィィと震えるような悲鳴をあげた。


「裕子ちゃん、うちの葉月とそんな、そんな、そんな」


 抱きつかれて身もだえしている葉月を見て、ショックのあまりペタンとおままごとのように床に座り込んでしまった。


「あ、違う違う、脳味噌分けてもらってただけ」


 ようやく葉月を解放してやる裕子。


 葉月はほっと一息。

 お父さんもほっと一息。


「なんだあ、脳味噌分けてもらっていただけかあ。どんどん持ってっていいよ、いっくらでもあるからね。だって葉月は、わたしの娘だもーん。といってもわたしの髪の毛は、こんなしかないけどねー」


 ゆうすけ、齢五十になって少し淋しくなった頭頂部をなでた。


「おじさん、そういう自虐ネタはやめなよ。それに、そんなこといわれると禿げてる葉月を想像しちゃうじゃんか」

「妙な想像するな!」

「自分が振ってきたんだろが!」

「違うの。葉月はとっても賢いよってこといいたかっただけなの。で、脳味噌は分けてもらえた?」

「うん。多少ね。学校、無事に卒業出来るかも知れない。運が良ければ。奇跡が起これば」

「おー、あとは奇跡が起こりさえすれば卒業かあ。かなり前進だね」

「まあねー」


 などと下らない冗談をやりあう二人。


 葉月の父である九頭祐介と裕子は、剽軽な性格同士だからなのか非常に仲が良く、口を開けばこのようなことばかりいい合っている。


 軽口飛ばしあう二人を尻目に、やたらと身体をもじもじとさせて居心地悪そうにしているのが葉月である。


 彼女は、家族といる時と家族以外の者といる時とで、態度というか外面的性格が異なるので、このようにどちらの者も同じ場所にいるような場がなんともやりにくいのだ。


 お父さんの前では平気でいえる軽口も他人が見ているととてもいえないし。

 学校での知り合いを前にじーっと黙っているところを、お父さんに見られるのも嫌だし。「え、葉月ってそんな性格なの?」とお互いからいわれそうで、恥ずかしくて。


 とにかく、こういう場は黙ってやり過ごすことだ。

 石。わたしは路傍の石。


「ってことがあってさあ。そのさとって奴がほんとバカで困っちゃうんだよ。ねえ、葉月」


 なんで振る!


 裕子に話を振られ、焦り、こくこくと頷くだけの葉月。表情カチカチ、そういう意味で本当に石であった。


「せっかくの場の空気を乱すな! 部員の前でコマネチ百連発させっぞこら! マリリンモンローの格好でうちわで下からパタパタされてモウレツーってのとどっちか選べ!」

「やめてくれ裕子ちゃん!」


 泣きつくお父さん。


「おじさん、やって欲しいようなこといつもいってるくせに。この前だって、そうだ今度ギャグ百連発教えようっていってたくせに」


 唇を尖らせる裕子。


「だってだって、葉月が泣いちゃう。葉月はいつも笑ってて欲しい」


 なんだか怪しげなくらいになよなよとした仕草になる九頭祐介。


「でも、学校ではいつもこんなだよ、おじさん。笑ったとこなんてほとんど見たことない。まあ、その堅苦しい真面目さが可愛いんだけど」


 苦笑する裕子。

 お父さんは、ちっちっ、と指を振って、


「それはね、裕子ちゃんの無茶振りが辛いだけだ。ほんとの葉月はね、笑顔の似合う可愛い子なんだから。そうそう、ギャグ族のコントが好きなんだけど、昨夜も床を転げ回ってカーペットかきむしって、大笑いしてたんだから。おいおい葉月い、スカートめくれてパンツ見えてるよ、いいじゃあん家族しかいないんだしい、にゃははんこれ面白すぎるよお」

「お父さん! そんなこと、いまいう必要ないでしょ!」


 顔を真っ赤にして、ささやくようなか細い声で激怒する葉月。


 学校では冗談一ついわず、笑うこともほとんどない葉月なのである。恥ずかしさに怒るのも当然だろう。


「笑顔の葉月の魅力を伝えたいんだろ。娘思いのいいお父さんでよかったねえ。それじゃ、そろそろ帰るわ。ごめんね、もう閉店時間とっくに過ぎてんでしょ。そうだ、葉月、さっきの奈々の件だけど、あたしも色々と注意点を書きまとめといたんだ。時間ある時でいいからさ、見といてよ。じゃあねえ」


 裕子はガラス戸を開け、手を振り出て行った。


 葉月は、ながーいため息をついた。

 頭が痛くなってきた。

 理由は考えるまでもなく、気疲れだ。王子先輩といて緊張する人間なんて、自分くらいなものかも知れないけど。


「それじゃ葉月、我々も帰ろうか。長い間店番してもらって、悪かったね。どうもありがとう」

「大丈夫だよ。あまりお客さんも来なくて、宿題とか好きなことやってたから」


 一人、とんでもないお客さんが来たけど。


 葉月は、さっきの裕子の台詞を思いだし、微笑を浮かべた。


 いいお父さんなことなんか、分かってるんだよ。

 何年、一緒に暮らしてると思ってるんだ。


 そんなことを心の中で呟きながら、裕子から受けとったノートを広げてみた。

 その瞬間、背筋が凍りついた。


 なんだ、これは。


 あまりに字が下手すぎて、なにが書かれているのかまったく読めない。それよりなにより、これは日本語なのか。


 図も酷い。幼稚園児の落書きの方が遥かに上手だ。

 文字の説明を視覚的に補足したいのだろうが完全な逆効果、どう見てもUFOに侍が連れ去られようとしているようにしか見えず(ひょっとしてこれは芸術なのか、エジプトの壁画タッチ)、むしろ混乱を招くだけ。


 このノートを、どうフットサルに生かせというのか。


 でも、せっかく王子先輩が書いてくれたんだし……

 それに、しっかり読んで次の部活にのぞまなかったら、罰ゲームでなにをやらされるか分かったものじゃないし……

 どうしよう……


     4

 部屋の真ん中で、まるでパーカーのフードのように、頭から、すっぽりと毛布をかぶっている。


 夏だというのに、窓を閉めきった部屋は冷房もかけていない。

 蒸し暑いどころの空間ではない。


 それなのに、身体が震えている。

 部屋の隅っこで、毛布にくるまったたけなおは、歯をがちがちと鳴らし、いまにも凍えてしまいそうなほどに震えている。


 不意に、ドアが開いた。


「うわ、なんだこりゃあ!」


 たけあきらは、予想だにしなかった異常な熱気とねばりついてくる湿気に悲鳴をあげた。もしこの場にやまゆうがいたならば、きっと蒸しジャガイモなどといって笑ったことだろう。


「なんだろ、タイマーにした覚えないんだけど、切れちゃったのかな」


 晶は、床に転がっているエアコンのリモコンを拾おうとしゃがんだ。


「ごめん、お姉ちゃん、寒い」


 本当に凍えてしまうのではという声で、視点をまったく動かすことなく真っ直ぐ前方を凝視したまま、直子はいった。


「ああ、そう。ごめん」


 晶は立ち上がると、リモコンを操作せず机に置いた。


 この蒸し風呂状態が寒いはずない。

 特に夏風邪を引いたようにも思えないし、現に顔は汗だらだら、身体の病気というよりは、おそらく精神的なものなのだろう。


 山野裕子の謹慎も解けて心配事の数は減ったはずなのに、むしろ症状が酷くなるとはどういうわけだ。


 他人の心配をしていたからこそ自分のことを考えずに済んでいられた、ということなのだろうか。

 直子らしいといえば直子らしいが。


 それにしても、今日の症状は特に酷い。

 ここまでのは、初めてだ。


 一度、大学病院の心療内科で診療は受けたが、さほど役に立つアドバイスはもらえなかった。


 でも、どのみちこれは直子が自分で乗り越えなければならないことなのだ。

 晶は、そう思っている。


 放っておくつもりはない。

 手助けならば、いくらでもしてあげたい。


 とはいうものの、一体なにが出来るのか。

 直子のために、自分に、なにが。


 まとまらない思考に焦れ、頭の悪い自分にイライラする晶。


 と、突然、直子は大きな叫び声をあげた。

 両手で、自分の頭を抱えながら、姉を呼んだのである。


「お姉ちゃん! お姉ちゃん! お姉ちゃん!」


 その瞳にはなにが映っているのか、目の前にいる姉のことを、何度も。

 身もだえしながら、姉を呼び続ける。

 なにかの恐怖から逃れようとしているような、身体の奥底の得体の知れない気持ちの悪いものを追い出そうとしているかのような、そんな、必死の表情で。


「ナオ、姉ちゃんここにいるよ。大丈夫。大丈夫だから。ナオ!」


 毛布越しに、妹の背中に両腕を回し、抱きしめてやるが、それでも直子は姉を姉として認識せずに、姉を呼び、助けを求め、手を振り回し、叫び続けた。


「ナオ!」


 妹の名前を呼んだの、これで何度目だろう。


「お姉ちゃん」


 直子は涙の溜まった目を、柔らかく細めた。


「やっと、来てくれたあ」


 嬉しそうにいうと、そのまま目を閉じた。


 静かになった。

 小さな、寝息をたてていた。


 晶は、妹の身体をお姫様抱っこで持ち上げた。


「あたしら体形似てるけど、ナオの方が軽いのかな」


 思ったより簡単に直子の身体が持ち上がったから。

 自分の身体がこんな軽いとも思えないし、じゃあやっぱりナオの方が痩せているのだろう。悔しいけど。


 そんな軽口を、口と心と両方で呟きながら、直子をベッドへと運び、寝かせた。


 寒い寒いといってはいたが、やっぱり顔だけでなく服も汗でぐっしょりであった。


 服も下着も、全部着替えさせてあげたいけど、まあ後で目覚めてからでもいいか。


 たぶん全然寝ていなくて、ようやく眠れたのだと思うから。起こしたくない。


 エアコンをつけるか否か迷ったが、結局、つけずに窓だけ開けることにした。


 部屋を出た。

 振り返り、直子の寝顔を確認した。


 直子は二段ベッドの下段で、寝息をたてて眠っている。


 なんの表情も浮かべていないのは、苦しみから解放されている故なのか、ただ寝ているからというだけなのか。


 すー、と小さな寝息をたてて、可愛らしい顔で眠っている。


 晶は、静かにドアを閉めた。


     5

 どれだけの時間が過ぎたのか、やがて、なおはゆっくりと目を開けた。

 長年見慣れた、ベッド上段の裏側が見える。それで、自分がどこに寝ているのか分かった。


 いま何時だろ。

 あれ、あたしベッドで寝てたかな。

 まあいいや。


 直子は、上段の裏側を見上げ続けた。

 ふう、と息を吐いた。


 そういやあ、ここ最初はさ、嫌だって泣いたんだよな。

 ベッドの下段がさ。


 と、何故いまさらなのかは分からないが、直子は自分たち姉妹がこのベッドを買って貰った時のことを思い出していた。


 この家に越してきて、初めて自分達の部屋を持った。


 以前住んでいたアパートでは、畳の上に布団を敷いて寝ていたのだが、子供だけの部屋を持てたこともあり、遂に前々から希望していたベッドを買って貰ったのだ。

 もう、七、八年ほど前になるか。


 最初は、晶が下段で、直子が上段だった。


 お互いに上段を希望したのだが、ジャンケンの結果、直子が選択権を獲得したのである。


 初めのうちは下段で寝ることに渋っていた姉であったが、しかし彼女はものの数日で順応した。


 そうなると直子は、下段の方が良く思えてきた。

 ハシゴを上る手間がなくて楽だし、閉塞とした薄暗い感じが秘密基地みたいでかっこいい。

 床とのスペースが物入れみたいに使えるのも、なんだかずるい。


 姉に交換を申し出たところ、面倒だから嫌だと却下された。

 諦められない直子は、父に直訴した。


 よく知らないで決めてしまったのは悪いけど、でも最初にジャンケンに勝ったのは自分なのだから、と。


 もう決まったことだから、と父が我が儘を叱るが、地震でベッドが倒れたら怖いなどと思い付きで適当な言葉を連発し、泣きわめき、再び姉へも泣きついて、結局、姉から父へ頼んでまた寝場所を交換して貰うことになったのである。


 ほどなくして、


 明るい、眺めの良いところで、本を読んだりお菓子を食べているお姉ちゃんが羨ましい。というか、ずるい。


 と、また上段がよいと駄々をこねる直子であったが、いくら姉が交換に応じてあげようとしても、もう父は断固として許さなかった。


 あれから、根本、なにも変わっていない。

 臆病で、我が儘。

 家の中では、お姉ちゃんが優しいのをいいことに好き勝手、外では、先日カナちんがいっていた通り、傷つきたくないから上辺だけで人と接する。

 いざなにかあると、逃げようとするばかりでなにも出来ない。


 変わる機会、何度でもあったのに。

 いくらでも。

 高校に入学した時だって。


 でも、

 でも、結局……


 やまひでの顔が浮かんだ。

 いでけいあんどうまさもいる。


 そして、他校の男子生徒。押し倒されて、またがられて、顔を殴られた。

 何度も、何度も、何度も、何度も。


 直子は苦悶の表情を浮かべ、頭を抱えた。


 助けて。

 助けて。

 助けて!


 搾り出すような、悲鳴を上げた。


 痛いよ。

 お願いだから、殴らないで。


 痛い。もう、やめて。

 殴らないで!


 ぎい、と部屋のドアが開いた。

 姉の晶が、立っていた。


「お姉……」


 二人は、見つめ合った。

 直子は、すがるような目で。

 姉は、なんとも名状しようのない、なんとも複雑な表情で。

 何秒間、見つめ合ったことだろう。


 晶は、部屋には入って来ず、そおっとドアを閉めてしまった。


 一人、部屋に残る直子は、閉じたドアを呆然と見つめていた。


 見捨てられた……

 お姉ちゃんに、

 あたし……


 虚無感、

 絶望感。

 心が裂けそうになった、その瞬間であった。


「ちゃららららーん」


 再び、ドアが勢いよく開いた。


「どーもー、アキラナオコでーす」


 晶が屈み腰で、細かく拍手をしながら入ってきた。


「って、そのままやないかーい。捻りのないコンビ名やなあ」


 一人でツッコミを入れている。


「それにしても暑いなあ。冷たいもん飲みたくなりますなあ。詰めたイモなんか飲んでどうすんねん。ちゃうねん、冷たくした飲み物やねん」


 一人二役で、漫才をやっている。

 当然といえば当然だが、直子は、なにがなんだか分からず、ただ呆気にとられていた。


「ちゃうねん、それは通天閣でんがな、アホかほんまにー」


 ……どこかで、聞いたことがある。

 ああ、

 そうだ、

 小学生の頃に、お姉ちゃんが考えて、

 嫌だっていったのに、無理矢理練習させられた漫才だ。


「……そら道頓堀でんがな。いい加減そっちから離れんかい」


 漫才だからって、大阪っぽい用語を取り入れるのだけで一杯一杯になっちゃって。

 ほんっと、レベル低いな。小学生の頃だったからなんて、関係ない。


 子供の頃から、いっつもぶすっとしててさ。人を面白がらせる才能なんてないんだよ。

 クラスの子に暗いといわれたからなんて、そんな理由で、まあ一生懸命こんなこと考えちゃって。


 真面目過ぎるんだよな。

 ほんとにさあ。


 直子は、ぷっと吹き出した。


「晶姉ちゃん、ちょい待ちや、それはどう考えてもお好み焼きやろ」


 直子は、ベッドから出ると、晶の隣に立った。

 晶は面食らったように口を閉ざしたが、すぐに気を取り直して、


「タコ焼きや」

「タコ焼きに豚入れるかい。豚タマに決まってるやろ。AHかほんま」

「そうやろか。それより直子、なんやAHって」

「アホ過ぎてアホというのも面倒くさい。AHOから一文字引いてAHで充分や」

「なにいうとんねん、嫌やわこの子は、声に出したらアホとエーエイチ、かえって増えとるやん」

「うわあ、真面目に受けとってるわ。だから豚タマは、たまたまが程よいということで。おあとがよろしいようで」


 直子は、観客に向かっているかのように深く頭を下げた。


「落語かい」


 晶は、相方の胸を軽く叩いた。


 以前、部活での雑談で、なにを幸せに感じるかという話題になったことがある。

 直子は、姉に無理矢理に漫才の相手をされられたという子供の頃の話をした。

 そんな些細なことが現在になって思えば幸せな時間だったのだ、と。


 姉は、その話を覚えていて、それで、自分を元気付けようと突然にこんなことを始めたのだろう。


 やっぱりわたしは、幸せだったんだな。

 いや、だったじゃない、生まれた時からいま現在までずっと、幸せなんだ。

 幸せな思い出に、幸せを一緒に感じることが出来る家族、仲間がいて。


 親友であるかなめの言葉を思い出した。

 辛いこと怖いこともあるけれど、この世の中には楽しいこと、幸せなこともたくさんある。


 身体の奥から、なんだか熱いものが込み上げて来ていた。

 ぞわっとする、くすぐったいような感覚。


 なんだ、これは。


 視界が曇っていた。

 直子は、自分が涙を流していることに気が付いた。

 泣いていることに気が付いた。

 その涙に、自分が感じているこの気持ち、くすぐったい感覚に気が付いた。


 ああ、そういうことか。

 わたし、嬉しいんだ。

 とっても、

 嬉しいんだ。


 直子はいつの間にか、くしゃくしゃのみっともない表情になって、うええんとまるで幼児のような情けない大声をあげていた。

 涙が、ぼろぼろと、ぼろぼろと、こぼれてくる。

 止まらない。

 涙が、泣き声が止まらない。


 おかしいな。

 ただ嬉しいだけなのに、なんでこんなに涙が出てくるんだ。


 お姉ちゃん、ありがとう。そういいたいだけなのに、口がひきつってしまって、なにもいえなかった。

 でもどちらにせよ、おそらく聞いてもらえなかっただろう。


 だっていつの間にか、姉の方が遥かに大きな声をあげて泣いてしまっていたのだから。

 姉の方が、直子より遥かに幼子のように、顔をみっともなくくしゃくしゃに歪めて、泣いていたのだから。

 大粒の涙を、ぼろぼろ流して。


 そのうちにむせぶような泣き方に変わった姉を、直子はぎゅっと抱きしめて、よしよしと頭をなでてあげた。

 直子の胸の中で、姉はいつまでも泣き続けていた。

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