第44話 女郎蜘蛛
「みーくんと二人きりなんてあの時以来だね、嬉しいなあ」
そう言って綾乃は僕に近づいてくる。僕は思わず後ずさった。
まずい、これは間違いなくまずい状況だ。
緊張する僕とは反対に、お邪魔しますと小さく呟き、綾乃は靴を脱ぎ始める。
逃げるなら、今しかない。
僕はリビングへと駆け出そうと――
「どこ行くの、みーくん」
その一言で、僕の体は静止してしまった。
凍てつくような冷たい言葉だった。一瞬脳が理解できないくらい、その言葉を誰が発したのか分からなかったのだ。
背中を向け、靴を揃えていた綾乃がゆっくりと立ち上がり、振り返って僕を見る。
先ほど僕に発した言霊の持ち主とは思えないほど、穏やかな顔をしていた。
――そのことがなおさら僕を恐怖させる。
この子は、誰だ。本当に綾乃か?
優しげな微笑みを浮かべているのに、僕には何故か彼女から追い詰められて後がないような、鬼気迫るものを感じていた。
固まって動けない僕に綾乃は近づいて、抱きしめてくる。
逃がさないとでもいうかのように。そして耳元で、僕に囁いた。
「二階に行こうよ、久しぶりにゆっくりみーくんと話したいんだ」
ベッドもあるしね、と蠱惑げな声色で僕を誘惑する。生暖かい吐息が耳へかかった。悔しいことに、その言葉に体は勝手に反応してしまう。
あは、と嬉しそうな声を綾乃は上げた。
逃げられない。本能が理解してしまう。
僕は綾乃という蜘蛛に捕まった蝶だ。このままでは彼女によって僕はどこまでも堕ちていく。そんな未来を想像してしまった。
駄目だ。だって、僕には――
夏葉さんが。そう思っていたはずなのに。
何故か頭に浮かんだのは、渚の笑顔だった。
「え…なんで…」
僕は愕然とする。なんでだ、なんでここで最初に渚のことを考えてしまったんだ。
だって、僕は夏葉さんを選んで――
「みーくん」
その声に僕は我に返った。
さっきと同じ、綾乃の冷たい声。だけど今は僕の目を綾乃がじっと見つめている。
まるでビー玉のような綺麗な瞳、だけど今は感情のこもっていない暗い底なし沼のような瞳だった。綾乃の内側に引き込まれるような感覚に、僕はぞっとする。
やはりここにいるのは、僕の知っている幼馴染ではない。
恐れから彼女の腕から抜け出そうとする僕の背中に、綾乃が思い切り爪を立ててくる。布一枚の薄いTシャツの防御をあっさりと貫通し、僕の痛覚に信号を送ってきた。
「痛っ…」
「いま、誰のこと考えてたの」
抑揚のないその声は、だけど怒りに満ちていた。
その相手のことが憎くて仕方ないとでもいうかのように、怨嗟の想いが込められていた。
「そ、それは…」
「当ててあげようか、渚ちゃんだよね」
「っ!!」
「あぁ、やっぱりそうなんだ」
渚という名前に、思わず反応してしまった。
咄嗟のことで隠すことなどできなかった僕を、綾乃は憎々しげに見上げてくる。
今日初めて見せた綾乃の感情の篭った視線は、だけど僕に恐怖を伝えてきた。
「みーくん、海で渚ちゃんとキスしてたものね。それも自分から。なら、考えちゃうよね」
「みて、たのか」
「うん。みーくんが渚ちゃんを抱きしめてキスしたの、全部見てたよ。最初から最後まで、全部ね。悔しかったなぁ」
そう言って儚げな表情を浮かべたあと、今度は優しい手つきで僕の背中をさすってきた。愛おしいとでもいうかのように。
さっきとはまるで違う対応に戸惑いを隠せない。感情の起伏が激しすぎる。
「ねぇ、みーくん。私にもキスしてよ。渚ちゃんみたいに、自分から」
「そんなの、できるわけ…」
「なら、佐々木さんに言うから。渚ちゃんにキスしてたこと」
僕はその言葉に絶句する。
夏葉さんの名前を持ち出されては、どうすることもできないじゃないか。
僕は既に彼女を一度裏切っているのだ。また裏切ることなど、できるはずがない。
だけど綾乃にキスをしなければ渚とのことをバラすと言う。
こんなの八方塞がりだ。どうしろっていうんだ。
僕が悪いのはもちろん分かっている。だけどそう思わずにはいられない。
心が悲鳴をあげている。頭を掻き毟りたくなるような衝動が僕を襲っていた。
だけど僕に選択の時間はなかった。
綾乃は小さく「早く」と呟き、目を閉じて僕に唇を差し出してくる。
他の男にとっては魅力的な誘いなのだろうが、それは今の僕にとって死刑宣告にも等しい要求だった。また罪を重ねろと、その唇は告げていた。
綺麗な顔だと思っていた。
顔のパーツひとつひとつが芸術品のように整った、絶世の美少女と言ってもいい造形だと思っていた。
だけど今の綾乃は僕を奈落へと誘う、妖のように思えた。
その美しさでもって僕をどこまでも堕とそうとする女郎蜘蛛。
そんなふうに、思えてしまった。
僕は綾乃の肩に手をかける。僕の手は震えていた。緊張からではなく、恐怖からの震え。また夏葉さんを裏切り、渚にも罪を被せてしまう申し訳なさからくるものだ。
収まりそうにないそれを強引に無視して、僕はゆっくりと綾乃に顔を近づけていく。
誰か助けてほしいと、心の底から願いながら。
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