第41話 渚
僕はその言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。
キス?キスって言ったのか?いやなんで渚がそんなことを?
口をあんぐり開けてしまう僕を見て、渚はプッと吹き出した。
「いやー、相変わらず湊は素直だね。分かりやすく初心な反応されちゃうと、あたし嬉しくなっちゃうよ」
「からかうのならやめてよ…」
どうやら冗談であったらしい。ケラケラと至近距離で笑い続ける渚に対し思うことはあるものの、未だ二の腕から伝わってくる柔らかな感触は心臓に悪すぎた。
渚は昔からこういうスキンシップを取ることが多かったのだが、成長した今となっては非常に困る。理性を総動員して耐えているが、正直いつ屈してもおかしくないほどの魅力を渚の体は秘めていた。自分の魅力を、渚が分かっていないはずがないのだが。それともやはり僕を男とみなしていないのだろうか。内心ショックを受けながらも、いたずらっぽく細めた渚の青い瞳が、僕の心を確実に絡め取っていく。
このままではまずいと、本能が訴えかけてくる。
それに従い、振りほどこうとするのだが、何故か渚は僕の腕にしがみついて離そうとしなかった。
「渚、なんで離してくれないのさ。冗談ならもういいだろ」
「いやいや、割と本気だって。綾乃にキスしたんならあたしにしたっていいじゃない。ほら、同じ幼馴染なんだし」
どういう理屈だ。その言い分を鵜呑みにするなら幼馴染であるならなにをしてもいいことになるんだが。笑顔を浮かべて自分の唇を指差す渚の姿は、あまりに無邪気なものだ。
きっと悪気はないのだろう。渚が僕をからかうのはいつものことだ。だけど物事には限度というものがある。今日はまだ穏やかに過ごせそうだったのに、最後の最後で水を差された気分だったというのもあるだろう。それも相まり僕の中でグツグツと煮えたぎるものが湧き上がってくる。
別に自分が温厚なほうだとも思っていないが、いつまでも僕を変わらぬ幼馴染として接してくる渚に対し、無性に腹が立ってきたのだ。
「あのさ、渚。そういうふうに人のことからかうの、辞めたほうがいいよ。僕だって一応男なんだしさ」
「あ…」
少し怒りを込めて注意すると、小さな声を漏らして渚は僕から腕を解き、すっと離れていった。
一瞬怯えを含んだ表情を見せた後、取り繕うように下手な愛想笑いを浮かべている。
何故だろう。そんな渚を見て、僕はますます苛立ってしまった。
「ご、ごめんね湊。ちょっとやりすぎたよ。大きくなったとは思ってたけど、ちょっとまだ昔の癖が抜けてないみたいで…」
「…それってやっぱり僕のこと、男として見てないってわけ?」
いつもならそこで終わるはずの会話なのに、つい刺の混じった口調になってしまった。
外見のことは別にいい。いろいろ言われることにはもう慣れている。
だけど口ではあれこれ言っても、その行動から渚は僕を男としていつまでも意識していないことが分かるのだ。
昔から一緒にいたとはいえ、結局は渚にそう思われているということが、何故か我慢ができなかった。
だからだろうか。普段の僕なら決して口にしないことを口走ってしまったのは。
「…いいよ、じゃあしようか」
「へ?」
僕の言葉に渚は目をパチクリさせている。何を言われたのか、分かっていないという表情だ。
そんな渚に向かって僕はもう一度言葉を口にする。
理性はやめろと叫んでいたが、怒りもあってか、この激情にもう歯止めが効きそうになかった。
「キスしようって言ったんだよ。さっき渚も言ってたろ?幼馴染はノーカンならいいよ。しよう」
「ほ、本気?」
ようやく事態が飲み込めたのか、喉をゴクリと鳴らして震えた声で、渚が問いかけてくる。
僕が本気で言っているのだと伝わったのだろう。頬もわずかに紅潮し、目もどことなく焦点があっていない。
滅多に見れない表情だ。それを見れただけで言った甲斐がある。
胸がスッとしていくのを感じていた。意趣返しという意味でならこれで充分なのだろうが、体がいうことを聞いてくれない。もう止まることなどできなかった。
僕はそのまま砂を踏みしめ、渚の肩を抱きしめていた。
ビクリと渚の体が震え、渚の戸惑いの感情が肌を通して僕にまで伝わってくる。
自分からこうして渚に触れるのは初めてだったが、柔らかいなと思った。それでいて滑らかで、綺麗な肌だ。どこか華奢なようにも感じて、渚も女の子なんだなとぼんやりと思ってしまう。
僕としてもここに至って、ようやく実感が湧いてきた。
いつも背中を追っていた彼女が、今は僕の腕の中にいる。
渚に対する苦手意識やコンプレックスといった負の感情が、その瞬間どこかに行ってしまうのを感じていた。それに背中を押されるように、僕は最後の言葉を口にする。
「それじゃ、するよ」
「あ、え…あ、あう…」
それは確認の言葉だった。拒否されたとしてももう関係ないということを伝えるだけの、ただの言葉だ。
だけど幸い、渚は僕を拒まなかった。何を言うべきか定まっていないようだったか、拒絶の意志も振りほどく素振りも感じられない。ただ僕を見つめ、僅かに顔を上げていた。本人は意識していないのだろうけど、受け入れてくれるのだと僕は感じていた。
渚の顔は真っ赤だった。長いまつげが微かに震え、瞳が大きく見開かれている。
その瞳に映るものが、今は僕だけだという事実に、心のどこかで歓喜の声が上がっていた。
それだけではない。渚の瞳に映る僕は、確かに口元が笑っていたのだ。
そして僕たちの顔と唇はゆっくりと近づいていく。お互いずっと見つめ合ったままだったが、鼻先が触れたとき、渚はギュッと目を閉じた。
初めて触れた渚の唇は、柔らかいなと僕は思った。
―――我慢しなきゃ
我慢しなきゃ我慢しなきゃ我慢しなきゃ我慢しなきゃ我慢しなきゃガマンしなきゃガマンしなきゃガマンしなきゃガマンしなきゃがまんがまんがまんがまんがまんがまんがまんがまんがまんがまんがまん―――
駄目だまだダメなんだ
まだ完璧じゃないあたしはまたなきゃだめなんだ
だってまだ手に入れてない綾乃や夏葉だっているあの二人はきっと諦めない
だから自分から湊から離れていくように上手く誘導しなきゃいけないそうしないとだめなんだ
綾乃は親友だし心から大事な親友で夏葉もいい子で湊を好きだって気持ちは痛いほどわかってる
ほんとはそんなことしたくないけどそうしないととられちゃうからやらないとだめなんだ
ごめんなさいごめんなさいでもおねがいだからあたしから湊を取らないでよあたしのたからものをとらないでほかのものならぜんぶぜんぶあげるから
今日だってほんとにからかうだけのつもりで湊があんなことするなんて思ってなくてだけど嬉しくて満たされて気持ちが止まらなくなっちゃってもう我慢がああほしいほしいみなとがほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいの―――
―――まだ、だめだ
だめなんだ
このままてにいれてもだめだ、もしかしたらあたしにきすしたのもただのきのまよいかもしれない
ひとのきもちなんてわからない。あっというまにかわってしまう。
だからすきってだけじゃだめ。みなとのぜんぶがこわれて、あたしだけがみなとのなかにいないとだめなんだ
だってそうしないと、きっといなくなっちゃうんだ。おとうさんみたいに
あやのだっていなくなるんだ。
でもあたしとみなとはおとこのことおんなのこだから、いっしょにいることはできるんだ。やくそくだって、ちゃんとしたんだ
あたしがみなとをあいしてあげる。ずっとずっとまもってあげる
だからみなともあたしをあいしてほしい。ずっとずっとそばにいてほしい
おねがいだから。あたしとずっといっしょにいてよ
はなれないでよ
ねぇ
みなと
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