第35話 選択

「夏葉、さん…」




彼女は震えていた。


顔を青ざめ、唇を噛み締め、目には涙が既にこぼれ落ちそうなほどに浮かんでいる。


右手で青の浴衣をぎゅっとつまみ、もう片方の左手は前髪へと伸びてきた。




その手はもはやいじるというよりも、綺麗にセットしていた髪を掻かき毟むしるように動いている。


張り裂けそうな声で、彼女は叫んだ。




「なに、やってたんですか…湊くんも、霧島さんも!」




夏葉さんはキッと鋭い目で、僕と僕の後ろにいる綾乃を睨みつけてきた。


これまで僕は、夏葉さんの穏やかな面しか見たことがない。


そんな彼女が、これほどまで強い感情をぶつけてくるのかと、僕は思わず居竦いすくんでしまう。




僕がなにも言えずにいると、背後からため息が聞こえてきた。


誰かは考えるまでもない。綾乃だ。




「佐々木さん、きちゃったんだ…渚ちゃんはどうしたの?」




彼女の声には悪びれた様子はない。それどころか、どこか開き直っているようにさえ思えた。




「渚さんが、教えてくれたんです…もしかしたら今頃、霧島さんが湊くんと二人でどこかに行ったのかもしれないって!キ、キスもしてるかもって!」




「やっぱりかぁ…うん、足止めしてとまでは私もお願いしてなかったから仕方なかったのかなぁ。とはいえ、やってくれたなぁ。渚ちゃん…」




夏葉さんの叫びを無視するかのように、綾乃は天を仰いだ。


また渚だ。渚もなにか知っていたのか?僕が知らない間に、なにかあったんだろうか。




とにかく一度場を収めようと、僕が口を開く前に綾乃が先に話し始めた。


その目は夏葉さんを見据えている。涙を流して綾乃を睨み続ける彼女とは対照的に、綾乃はとても穏やかな目をしていた。




「本当はもっとゆっくり進めていくつもりだったんだけどな…こうなったらしょうがないか。ねぇ、佐々木さん」




「な、なんですか…」




綾乃の声に夏葉さんの肩がビクリと震えた。


先ほどまでの勢いは急激に鳴りを潜め、綾乃に飲まれかけている。


今の綾乃は、明らかにこれまでとは違う空気を纏まとっていた。




その先の言葉を言わせてはいけない。そのことは、分かっているのに。








「私、みーくんのことが好きなんだ。私にみーくんのこと、譲ってくれないかな?」








僕の体は、動かなかった。








「は…?なに、言ってるんですか…」




「そのままの意味だよ。私はみーくんが好きで、付き合いたいの。だから、佐々木さんには別れてほしい」




動揺する夏葉さんに、綾乃は穏やかな声で話しかける。


まるで、言うことをきかない子供を諭さとすように。


もちろん、夏葉さんがそんな綾乃の言い分を聞き入れることはない。




「そんなの、はい分かりましたなんて、言えるわけないじゃないですか!湊くんの彼女は私なんですよ!!」




「キスもまだなのに?」




激昂する夏葉さんに対し、綾乃はどこまでも冷静だった。


綾乃の言葉に、夏葉さんは勢いを削がれ、絶句する。


反論する言葉が思い浮かばないのだろう、目が助けを求めるように、僕を見てきた。




その目を僕はそらさざるを得なかった。夏葉さんと付き合ってから数ヶ月。


キスはおろか、手を繋ぐだけで精一杯だった僕らには、綾乃に抗あらがえる言葉を持ってはいなかった。




そんな僕らを見て、綾乃はクスクスを笑っていた。




「やっぱりそうなんだ。だよね、みーくんは奥手だから自分から手を出すなんてしないもんね。佐々木さんもそうみたいだし、お似合いの二人だったんだね」




「別に、問題ないでしょう!そんなの、これからいくらでもしていけばいいんです!」




「そうだね、佐々木さんの言うことは正しいよ。だけど、そんなにゆっくりしてたから私にみーくんのファーストキス取られちゃうんだよ?あ、もちろん私も初めてで、さっきのは二度目のキスだけど。みーくんも気持ち良かったよね?」




あんなに目が潤んでたもの。そう呟いて綾乃は自分の唇に、人差し指でゆっくりと触れた。




綾乃の赤い唇、あれに、僕は―――




その仕草に思わず見入ってしまった僕を、夏葉さんは絶望したような表情で見つめてくる。


勝手に反応してしまった自分の体を、僕は呪わざるを得なかった。










どうすればいいんだろうか。僕は何を口にすればいいのか分からない。


思考がもう、定まらない。




そんな僕を見て、綾乃が優しく語りかけてくる。


なにもかも赦ゆるしてくれるような、甘い響きをもって。




「ねぇ、みーくん。みーくんが好きな人は誰なのかな?私ならもっとみーくんのこと、たくさん気持ちよくしてあげるよ?なんでも言うこと聞いてあげるし、これからずっとみーくんだけを好きでい続けるっていう自信もある。これからも、私とずっと一緒にいようよ」




「僕、は―――」




「湊、くん…」




既に勝ち誇るような顔をした綾乃。この世の終わりかのように、死人のごとく顔を青ざめる夏葉さん。




二人に挟まれ、僕は選択をせまられていた。








なんでだ






どうしてこうなった






僕は、もう選んだはずだろう






そのはずなのに、なんで僕は迷ってるんだよ








頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。


それでも、僕は口にしなければならないのだろう。






この場で、どちらを選ぶかを。






「僕は―――」








なにもかも分からないまま、僕はゆっくりと口を開いた。

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