家康と信雄
十一月下旬 駿府城
「やはり羽柴殿と柴田殿の衝突は避けられぬようだな」
徳川家康は渋い顔をした。本能寺の変に乗じて甲信二か国を平定した家康だったが、北条家との一歩間違えれば滅亡してもおかしくない戦いを繰り広げ、ようやく和議にこぎつけたものの、今も諏訪や佐久では抵抗を続ける勢力がおり、とても織田家の内部争いに介入出来る状況ではなかった。
そんなところになぜか新発田重家から、戦になった際に織田信雄が秀吉に味方しないよう説得して欲しいという書状が届いた。
「正信はこの争い、どちらが勝つと思う」
「羽柴殿有利ですが、戦で負ければどう転ぶかは分かりません」
本多正信が答える。柴田勝家は老いたりとはいえ織田家屈指の猛将で滝川一益も戦巧者である。また、織田信孝が現在三法師を囲っている岐阜城は信長が築いた名城である。今のところ秀吉有利でも局地戦での負けが戦況を左右することはある。家康も天正壬午の乱では局地戦での勝利から信濃衆が徳川に乗り換えて勝利に辿り着いたという経験がある。
「本当はこちらが落ち着くまでは何も起こらずにいて欲しいものだが……。羽柴殿有利なら信雄殿の説得は受けてもいいか」
「はい。それにここらで天正壬午の乱の恩を返しておくのも悪くはないものかと」
新発田重家にしてみれば柴田勝家とは長年上杉家に対して共闘したという縁があるのだろう。それに家康自身も秀吉よりも勝家が勝ってくれた方がやりやすいという気持ちがあるのである意味共感出来た。
「そうか。ならば正信、おぬしならいけるか」
「もちろんでございます」
さすがに言葉にはしなかったが、ここ数か月甲信で大量の国衆や北条・新発田と駆け引きを繰り広げて来た正信にとって信雄は所詮若造に過ぎなかった。
数日後、信雄が滞在する清州城に本多正信が姿を現した。この頃信雄は機嫌が良かった。清州会議後、信孝が三法師を独占しておもしろくなかったがついに秀吉が信孝討伐の軍を起こしそうであったからだ。信孝討伐後に美濃を継承して三法師を自身で抱え込めば名実ともに織田家の継承者となることが出来る。
「信雄様、徳川家から本多正信殿が参っておりますが」
「徳川家? まあいい、通せ」
徳川家は今回の騒動について介入せずに結果を追認する旨を約束している。秀吉有利のこの状況では秀吉に味方したと言えなくもない。
そこへ正信が入ってくる。織田家にはあまりいないタイプのこの男に信雄は密かに苦手意識を抱いていた。
「何だ?」
「上方ではいよいよ羽柴殿が信孝様を攻めるという風聞を耳にしまして、そのため信雄様におかれましては判断を誤らぬように我が主から忠告をもたらしに参ったのです」
「忠告?」
上から目線にも聞こえるその言葉に信雄は眉をひそめる。態度こそ慇懃であったが、まるで面倒を見てやると言わんばかりのオーラを感じた。
「はい。あくまでこれから起こる戦については羽柴殿と柴田殿の私闘でございます。信雄様は織田一門の筆頭。私闘に加わわらず、機を見て両者の仲裁をするのがよろしいかと」
「どういうことだ。信孝が三法師を離さないのを許せというのか」
信雄は眉をぴくりと動かす。なぜ今更家康がこの問題に首を突っ込んでくるのか、という気持ちもあった。
が、信雄の苛立ちなど意に介さずに正信は言葉を続ける。
「滅相もありません。しかしもし信雄様が羽柴殿に味方し、羽柴殿が勝てばどうなるのか。羽柴殿はこのようなことが起こらぬようにと三法師様を安土に戻し、自分の息がかかった者を傅役に配置するでしょう。そうなれば羽柴殿にとってもはや信雄様は不要になります」
「何と」
最初信雄は正信の言葉を疑った。
しかしそう言われてしまえば信雄にも心当たりはある。元々秀吉は山崎でともに戦った信孝と組んでいたが、信孝が思い通りにならなかったために信雄に切り替えた。もし三法師が手に入れば自分はいらなくなるのではないか。信雄と違って三歳の三法師は秀吉が何をしても口出しをしないだろう。
「そのため信雄様にとってこの度の戦いは両者痛み分けが一番よろしいのではないでしょうか。その際両者の和睦を仲介すれば自然と影響力は上がるでしょう。また、その際に三法師様を信孝様の手元から引き離すことも出来るはず」
「なるほど……さすが徳川殿」
信雄は思わずうなった。確かに和睦の際に「揉め事の原因を作った」として信孝に責を負わせれば良い。
「とはいえもし羽柴殿が優勢になってしまった場合はどうする」
「その際は仕方ありません、幸い信雄様の領地はここ尾張。すぐに岐阜城に兵を出すしかないでしょう。ですが信雄様が兵を出さなければあくまで織田家内部の私闘となります。そうなれば羽柴殿が有利になる可能性はかなり低いものと思われます」
信雄が兵を出さなければお互いに大義名分が得られず、決定的な勝敗はつかないのではないか、と正信は考えていた。
「分かった。このたびはわざわざ忠告に来てもらい痛み入る」
「我らも信雄様には世話になっております。そのため羽柴殿に利用されて終わるのを見るには忍びないと殿も申しておりました」
「そうか。それならこれからもよろしく頼む」
その後信雄は正信が目に着かぬよう裏口からこそこそと三河方面へ帰している。やはり真田の相手に比べると楽だったな、と思いつつ正信は帰国するのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。