鬼武蔵奔る

六月六日 海津城

 北信濃川中島四郡の領主となった森長可の元は本能寺の変の情報を受け取ると天を仰いだ。仕えていた信忠が討ち取られたことについての悲しみもあったが、弟の蘭丸力丸坊丸らが信長の小姓として仕えており、彼らが共に逝ったことには深い悲しみを覚えた。


 しかし長可は悲しみに暮れることは許されなかった。甲信越はつい数か月前に平定したばかりの地で、織田家に反感を持つ者や反旗を翻す機を窺っている者ばかりだ。

「信濃国衆から出ている人質の警戒を厳重にせよ。絶対に逃がすな。また国人衆には至急兵を集めて登城するよう伝えよ」


 長可に従う信濃国衆には大きく分けて二系統いる。村上国清や須田満親を始めとする、武田に滅ぼされて甲州征伐で織田方に与して家を再興した者たちと、春日氏や屋代氏ら武田方に味方して滅ぼされた者たちである。

 前者はすぐに敵対することにはならないだろうが、今の領地はかつて治めていた地よりも狭い。長可の動き次第では兵を挙げるだろう。後者はすぐにでも動きがあってもおかしくない。


「光秀め……すぐにその首を刎ねてくれたいが……とりあえず我が家臣は兵を率いて集まれ」

 長可は甲州征伐の折に信長とともに現れたときに会った光秀の澄ました顔を思い出して怒りに燃えた。ただちに長可は軍勢を集めた。


 翌日、三千の兵力と主だった武将を集めると長可は早速軍議を開いた。軍議とはいえ集まった武将たちは誰もが長可の意図を察していた。長可は家臣たちの前に立つと拳を突き上げて叫ぶ。

「京で明智光秀がこれまでの恩を忘れ、上様と信忠様を弑逆した。この悪行を許してなるものか! ただちに軍を向けるべきではないか?」

「うおおおおおおおおおおお!」

 集まった家臣たちも喚声を上げる。中には今この地を離れることに疑問を抱く者もいたが、信長の仇討と言われれば反対は出来ない。


 そこへ一人の使者が遠慮がちに入ってくる。

「越後から救援依頼の使者が来ておりますが」

 それを聞いた長可はギロリと使者を睨みつける。

 使者はひいっ、と体をすくみ上がらせた。


「信濃国衆の動きはどうか」

 長可は別の家臣に尋ねる。

「旧上杉系武将は静観といった様子ですが、武田系の国人衆には不穏な動きがあります」

「とりあえず景長様には信濃の状勢が不穏と答えておけ」

「は、はい」


 先ほどまで信濃状勢など気にせず仇討に向かおうとしていた長可に使者は疑問を覚えたものの、それを口に出せる訳でもなくそのまま越後に戻った。

 とはいえ、長可が把握していた訳ではなかったが、実際のところ甲斐では徳川家康の命を受けた武田旧臣が穴山信君の旧領に向かい、信濃でも諏訪頼忠や小笠原貞慶らが旧領奪還の動きを見せていた。


 翌日、長可が京へ登るという話を聞いた村上国清・須田満親の二名から連名で人質を返すよう要求する書状が届いた。そもそも彼らには兵を連れて海津城に集まるよう命令していたのに、自城に兵を集めるばかりか、本人ではなく使者を遣わして来たことに長可は腹を立てた。

「なぜ彼らは登城せぬ」

「旧武田家臣に不穏な動きがありまして」

 震える声で答える使者に長可は苛立つ。

「こやつら……やはりわしがこの地を離れた隙に離反する気ではないか」

 いっそのこと討ち果たしてやろうかと思った長可だったが、ここで下手に戦を始めれば弔い合戦に間に合わない可能性もある。いっそ城を捨てて出発するか。上洛の準備を整えつつも長可は迷っていた。


 数日後、再び越後から使者が来た。それによると上杉景長らは越後を脱出して光秀を討ちに向かうという。

「ちょうどいい。景長様がいれば弔い合戦にも箔がつく」

 そもそも長可が救援に向かわなかったせいでこうなったところはあったのだが、長可の知ったことではなかった。


 十二日、越後から落ち延びて来た景長らの兵と合流する。斎藤利治は救援に来なかった長可を責めようと思っていたが、信濃に足を踏み入れた瞬間すでに国人衆の異様な雰囲気を察して責めるのをやめた。また、この日長可は木曽義昌が通りがかりに長可の暗殺を企んでいるという噂を耳にした。そこで長可は十五日の夜に木曽福島城で宿を借りるという書状を送っている。


 長可は十三日の早朝、全兵と景長を叩き起こすと信濃国衆の人質を全員連れて城を出た。そして国清らには迎えにこれば人質を返すと通告する。

 国清らはすぐに兵を率いて長可を追った。彼らにも長可が全兵力を率いて信濃を離れれば、後で周辺で領地を広げようという打算はあったため、後ろ暗かったのである。


 領地の境までやってきた森・上杉連合軍の元へ国人衆の連合軍が追いつく。長可は陣中にいた人質を軍勢の前に並べる。景長や利治らは当然人質を返すものと思って見ていたが、

「上様の死に乗じて領地をかすめ取ろうとするなど不忠千万! 不忠義者にはどうなるかの見せしめにこ奴らの首を全員刎ねよ!」

 と長可は命令した。

「何と! この場は一度人質を返してこの地にはまた後日来るべきでは」

 さすがに利治は顔を青くして諌止する。


「ふん、もはや領地は脱した以上人質の用はなし。この世の暇を取らせてくれる!」

 叫ぶなり兵士たちは人質の首を次々と刎ねた。それを見て激怒した信濃国人衆連合軍は怒号とともに襲い掛かる。

「何ということをしてくれるのだ」

 激怒した利治は付き合っていられないとばかりに越後勢を退かせた。

「ふん、奴らが攻撃してくることなど予想済みだ」

 しかし攻めて来た国人衆の軍勢は鉄砲の釣瓶撃ちに遭い、さらに長可があらかじめ潜ませていた伏兵の奇襲を受け、散々に敗退した。


 その後長可は軍を急行させると十四日の夜に木曽福島城に入る。聞いていた話と違う、と木曽義昌がうろたえる間に城門を破り、義昌の嫡子を攫い、そのまま城で一夜を明かした。翌日、自領に帰還した長可はそこでようやく嫡子を解放している。


 甲州征伐における戦功やその後の東美濃における活躍ぶりを合わせて後に長可は「鬼武蔵」と呼ばれて畏怖されるようになる。

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