第二部
第44話 天才とアホの子はペラッペラな紙一重
五月も下旬となれば、日によっては気温が上がる。
今日なんて朝から太陽がハッスルしているせいで、熱気まで発する始末。
目下、俺の悩みは、まだ五月なのにエアコンのスイッチを入れるべきか否か。
素直に冷房の風を浴びて心もスッキリなっちゃいなよと思う反面、お前この時期から冷房とか、真夏になったら全裸で居ても溶けて死ぬんじゃないの、と思わないでもなかった。
実にくだらない論争を頭の中でチャンバラさせる。
すると余計に暑くなってくる。不思議。
嫌な予感である。
俺が美味しいものを食べている、このタイミングでの着信。
画面を見ずとも発信者の名前が分かるようである。
でも、もしかしたら、そんないつものパターンで通話ボタンをスワイプ。
「コウちゃーん! 助けてぇぇぇーっ!!」
——ねっ?
「なんだ、どうした。空にオーロラでも掛かったか?」
「それがねぇー、聞いてよぉー」
「美肌になろうと思ってさっ!」
「柑橘類をたくさん買って来たんだよっ!」
「そしたら、それを絞るじゃん!」
「顔が痒くて、目が痛いんだよぉー!!」
「助けてぇー、コウちゃーん!!」
「……今から行く」
俺は、「冷房つけて待ってろ」と言い足して、自転車にまたがる。
サドルが俺の尻を上手に焼いて、こんがり肉Gへと変貌せしめようとする
ガリガリ君? 電話してる間に溶けて俺の部屋着の股間が濡れたけど?
何を笑っている、ぶっ飛ばすぞ、ヘイ、ゴッド。
汗だくになって、神野家の呼び鈴を押し、おばさんに挨拶。
「あらあら、コウちゃんったら、水も滴るイイ男ねぇー」
「おっす。おばさんこそ、今日もお綺麗で」
毬萌ママのおばさんジョークを軽くいなす俺。
「あらやだ、コウちゃんったら正直ねぇー! ロールケーキあるから、後で切り分けてあげるわね!」
「うっす。恐縮です」
しかもロールケーキをフィッシュオン。
俺の変幻自在のデンプシーロールを見よ。
この技を
「おーい、毬萌。来たぞー。……おまっ」
「コウちゃーん!!」
「やめろ、やめろ! 近づくな! 絶対抱きつくな! 絶対だぞ、お前! 聞いてる、ねぇ、ちょっ」
「コウちゃーん!!!」
「あああああああああああああっ!!」
何が起きたのか。
それでは、プレイバック。
まず、部屋に入ると、俺の気配を察知していた毬萌がスタンバイ済みだった。
そして、俺を見るなり、抱きついてくる。
ここまではいつも通り。
ただし、毬萌の顔は、何かよく分からんが、何かよく分からん汁まみれ。
部屋の中からはとんでもない
何としても毬萌の汁まみれの顔を服に付着させたくなかった俺。
何故ならば、今日着ていたシャツが俺の持っている服の中でも一二を争うオシャレ着だったからである。
小遣いはたいて買った、一張羅のシャツだったからだ。
しかも白いシャツ。
柑橘類の汁は、さぞかし白を鮮やかに染め上げるであろう。
では、毬萌の突進を俺が止められるのか。
答えは、ご覧のありさまである。
「うぇぇー、目が痛いんだよぉー、コウちゃーん!」
「やめっ、お、俺のシャツで目を
「だってぇー! 顔は
「お、上手いこと言うなあ! って感心すると思ってんのか! どけよ!!」
ようやく毬萌の馬になっていた俺は解放されたが、シャツには取り返しのつかないダメージが残り、頭の中ではミスチルの『Over』が流れていた。
「ほれ、とりあえず、こいつで顔拭け」
俺は洗面所に行って、濡れタオルを3つ練成し、鬼退治に行く桃太郎の心持ちで部屋へと戻ってきた。
「やだよぉーっ!」
「なんで!?」
お前、助けてくれって言ったじゃん!
「だってぇー、ここで拭いたら、今までの苦労が水の泡だよ! 人魚姫だよっ!!」
「……散々俺のシャツで顔を拭き散らかしたあとに言うな」
「ま、まだ残ってるもん! 柑橘類のエキスが!!」
「ほーん。そんなら、この濡れタオルは戻してくるぞ」
「みゃあああっ! 待って、やっぱりもう無理! 拭く、拭くからぁーっ!!」
そうして俺に
「なんでまた、このよく分からん汁を使って奇行に走ったんだ」
当然の疑問である。
「よく分からないことないもんっ! ミカンと、グレープフルーツと、ポンカンと、スダチと、柚のブレンドマッサージエキスだもんっ!!」
「美肌がどうとか言ってたな。そう言えば。そんなもんでどうにかなるのかよ」
「ぶーっ! 配合されてる成分は、ビタミンC、ヘスペリジン、クエン酸、Bカロテン、あとあと、βクリプトキサンチンとか! 医学的な観点から見ても、お肌に良いのは明白なんだよっ」
「お、おう。なんか知らんが、凄そうなのは分かった。で、そいつは直に顔につけるものなのか?」
毬萌は黙って横に首を振る。
バカな柴犬かな?
「だってさ、直接原液を付けた方が、一気にスベスベになるかもって思うじゃん!」
「そもそも急に美肌、美肌って、どうした? テレビにIKKOでも出てたか?」
「……コウちゃんが」
「はあ? 聞こえねぇよ!」
毬萌は顔を赤くして叫ぶ。
「コウちゃんだって、お肌スベスベの女の子の方が好きでしょ!?」
「話が見えねぇ!!」
その後、俺の粘り強い事情聴取により、やっと今回のアホの子の原因が判明した。
「花梨ちゃんがね、言ってたんだよ、お風呂上りに何付けてますかーって」
「おう」
「それで、特に何もしてないよって言ったら、あたしは最近、化粧水を付けるようになりましたって」
「おう」
「……コウちゃんがさ、スベスベお肌好きだったらさっ、花梨ちゃんに夢中になるかもじゃんっ! だから、わたしもすっごい化粧水作って、スベスベになろうって……」
「……Oh」
どうやら、俺の気を引こうとしての行動だったらしく、俺は上位ナンバーのシャツを失った悲しみを川に流すことにした。
「わたし、オシャレとか全然分かんないから、花梨ちゃんに置いてかれちゃうって思うと、なんだかソワソワして来ちゃっみゃあっ!? なにするの、コウちゃんっ!」
「なにって。お前の頬っぺた、つついてる」
「ひゃあっ、くすぐったいよぉー」
「俺ぁ、スベスベした肌もいいが、こう、なんつーか」
「なんて言うか?」
「この、プニプニした感触も、べ、別に嫌いじゃねぇけどな!」
一瞬にして毬萌の顔が明るくなる。
散歩に行くって言われたバカな柴犬かな?
「そっかぁー! コウちゃん、プニプニが好きなんだーっ!」
「いや、好きとは言ってな」
「プニプニ好きならしかたないなぁーっ! じゃあ、この特性化粧水は、コウちゃんにあげるねっ!」
「えっ、おい、こんな洗面器いっぱいの汁いらな」
「そうなんだーっ! 言ってくれればいいのにぃー」
その後、毬萌特性化粧水は俺の栽培しているトマトの虫よけとして活用された。
が、濃すぎたのか、俺のトマトは程なくして枯れた。
毬萌の笑顔を守れたのは良いとして、だ。
失ったものが多すぎやしないか。
これは、アホの子は今日も元気ですと言う名の、イントロダクション。
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