199.暗き水底より、水面を目指して
ぶつん、と。
太い縄をちぎるような音を聞いた。
VRゴーグルごしに見えるのは寮の自室だ。
いつからか現実に帰ってくると、水中から陸に上がったような心地がするようになった。
壮絶な疲労感と解放感。まさか自分がゲームを終えることを解放と称するようになるとは思わなかった。
ゴーグルを適当に置いて起き上がると、ベッドに腰かけてうなだれる。
頼むから、もう出ないでくれ。
そんな懇願をしてもマリスを使役している者には関係がない。
また変わらず悪意を撒き散らし、そしてその速度はどんどん上がっていくだろう。
こちらが圧倒的に不利ないたちごっこ――否、消耗戦だ。
物量で押し潰す気なのだろうか。
ならばそれはこの上ないほど効果的だと言える。
実際、神谷はもう限界が近かった。
「頑丈な方だと思ってたけど……さすがにこれは堪えるな……」
はは、と乾いた笑いが漏れる。
甘かったのかもしれない。
力を得たから。二人だから。そんなものは大して意味は無く、数の暴力によって簡単に轢き潰される。
いつまたマリスが出るかもわからない。そしてそんな雑兵を何度倒そうが意味はない。
大本を叩かなければ――しかし、当の黒幕……マリスの主は顔を出さない。目の前のマリスを倒すのに精いっぱいで、そこまで手が回らない。
肝心の白瀬にも連絡がつかず八方ふさがりだ。
「……いつになったら終わるの」
はっと口を押さえる。
弱音なんて。
慌ててかぶりを振って立ち上がる。
まだまだ自分は平気だ。
これより辛い目なんて、それこそ死ぬほど遭ってきた。
だからきっと何とかなる。
そう言い聞かせながらスマホを確認すると時間は0時を回ったところだった。
姫野からは心配のチャットが送られてきている。内容は頭に入ってこない。
とりあえず『大丈夫』と返信し、シャワーでも浴びようと部屋を出ようとした時、ドアがノックされた。
こんな夜中に誰だろうと開いてみると、そこにいたのは園田だった。寝る前だからかパジャマに身を包んで、髪も緩く結って前に流している。
「こんばんは、沙月さん」
どうしてか喉の奥が熱くなった。
こみ上げてくるものを感じつつ、これを吐き出したら全て終わってしまうという確信があった。
だから唾を飲み込んで、”それ”を一緒に飲み下してから口を開く。
「どうしたの? もう遅いよ」
「……さっき姫野さんからお電話がありまして」
思わず首を傾げてしまう。
姫野から園田に? どういう風の吹き回しだろうか。
だがそんな疑問がどうでもよくなるくらいに、神谷は凍り付くこととなる。
「姫野さん、泣きじゃくってましたよ。先輩はずっと無理をしてる、休んでほしいとどれだけ言っても全然聞いてくれない……って」
「――――――――」
絶句した。
何に驚いたかと言えば、何も覚えがないことだった。
休んでほしい? そんなこと、一度も……。
思わずスマホでチャットアプリの履歴を確認する。
そこには確かに神谷の身を案じる文面が何度も書き連ねられていた。
マリスの出現が激化してからずっと。
普通のチャットでこれなら、きっとボイスチャットで会話しているときもそうだったのだろう。
それらを全て聞き流していた――聞いていないふり、見ていないふりをしていた。
先輩は休んでもいい、フランさんだっている、自分も避難誘導や時間稼ぎくらいはできる、だから……と。
そんな神谷を想って紡がれた言葉を、全てゴミ箱に放り込んでいた。
「……それでも止まるわけにはいかないんだよ」
唇を噛み、うめくように告げる。
同じことを何度も繰り返した。大切な人を傷つけて、目的へと邁進する。
今回もそうだ。結局後輩を犠牲にしている。何度も同じことばかり繰り返して、何度も反省して、それでも変わることはない。
その時その時で都合よく変わろうと決心したところで、根本的に変われないのだ。
激化しているのはマリスの数だけではない。その被害もだ。
マリスに攻撃され死んだプレイヤーはパニック障害や記憶障害を発症するようになった。
それだけではない。まだ数は少ないが、マリスの攻撃によってマリスにされた者は意識が戻らなくなった。
もう冗談で済むような領域ではなくなっている。
パステーション社はブリッジング技術とは無関係だと主張しているが、このタイミングで白瀬が不在になったこともあり、雲隠れしたとまことしやかに囁かれ、そのせいで噂に信憑性を増している。
サービス自体は終了しないと運営は断固とした声明を出しているが、プレイヤー数は減少の一途を辿っている。
「神谷さん……今、楽しいですか?」
以前も光空に投げかけられた質問。あの時は即答はできなかった。
しかし今は――――
「楽しいわけないよ」
あまりにも自然にこぼれ出た。出て、しまった。
ゲームが好きだったのに、こんなことになるなんて思ってもみなかった。
「ゲームって楽しいものだと思ってたんだよ。それなのに今はこんなことになってる。みんなは、被害者の人たちは……もう楽しいなんて言えない……」
ゲームという世界を好き勝手に荒らしまわる誰かの悪意が、プレイヤーたちを蝕んでいる。
神谷はそれが許せなかった。
あの『アストラル・アリーナ』の捉え方は人それぞれだ。
夢の世界と呼ぶものがいた。
寝てから起きるまでに見る、一時の楽しい夢だと。
死後の世界と呼ぶものもいた。
現実のしがらみから解き放たれる、あの世みたいなものだと。
楽園と呼ぶものもいた。
願望を果たせる都合のいい世界だと。
今はそのどれとも違う。
今のミサキにとって、あの場所は地獄だ。
「わたしは前の『アストラル・アリーナ』を取り戻したい。それができるのはわたしだけ。だからわたしはみんなを…………」
「だからあなたが犠牲になるんですか?」
「…………っ」
「……もう認めてください。諦めてください。みんなを助けるなんて到底不可能だってことを」
毅然とした口調で園田は告げる。
彼女の言う通りだった。ミサキとフランが出来うる限りのフル稼働を続けても、被害者は出ている。
「ここのところずっとフラフラじゃないですか。どうしてあなたがそこまで頑張らないといけないんですか」
「だってわたしには、マリスと戦う力が…………」
「そんなの関係ないでしょう……!」
びくりと硬直する。
園田が声を荒げるのなんて久しぶりに聞いた。
唇を血が出そうなほどに噛みしめる彼女は小さく震えていた。
「姫野さんだけじゃないんです。私もなんですよ、あなたが心配なのは――アカネちゃんだって、光空さんだって……みんなみんなあなたが傷つくところなんて見たくないんです」
自分を犠牲にすれば、確かに誰かを助けられるかもしれない。
でもきっと他の誰かを傷つける。
傷ついた自分を見て悲しんでくれる、心優しい人を傷つける。
悪意に翻弄され続けて見失っていた。
自分は……愛されているのだと。自分のことを想ってくれている人が確かにいるのだと。
俯く園田の頭に優しく手を乗せる。
「……ありがとう。ちょっといろいろ見失ってたみたい」
ただマリスを倒しているだけでは黒幕にたどり着けない。
そんなことはわかっていたはずなのに、目の前のことに必死になりすぎていた。
「もうがむしゃらに頑張るのはやめる。ほんとにみんなを助けたいなら、大本だけを狙うべきだったんだよね」
「沙月さん……」
「困ったことがあれば呼ぶから、もうちょっとだけ見守ってて。お願い」
神谷の浮かべた笑顔に、園田は目尻の涙を拭う。
さっきまでとはまるで違う。神谷の瞳にわずかながら芯が戻っていた。
「……はい! でも無理はしないでくださいね」
「それはちょっと約束できないかも。でも、わたし一人じゃないからさ」
戦えるのは自分だけじゃない。
頼りになる錬金術士だってついている。
最近は一人で戦うことが多くて忘れがちだった。
「……さて、わたしはもう寝ようかな。みどりもありがと、おやすみ」
「はい……おやすみなさい、沙月さん」
そう言って園田は神谷の部屋を後にした。
訪れた静寂の中、神谷は小さくつぶやく。
「……そっちが悪意で来るなら、こっちもわるーい手を使っちゃおうかな」
本当に大切にすべきことは何か。
それがやっと定まった気がした。
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