122.ひとりじゃなくて
寂しい。
わたしの傍には誰もいない。
ひとりが嫌だった。嫌で嫌で仕方なかった。
たったひとりになってしまったあの日から、わたしは何より孤独を恐れるようになってしまった。
これ以上ひとりぼっちになるのが怖くて何もかもを遠ざけた。拒絶した。
でも、ただひとつのきっかけで変わった。
辛いことも悲しいこともたくさんあったけど、今のわたしには皆がいる。
もうひとりじゃない。
でも、ひとりじゃなくなったからこそ失うのが怖い。
ずっと考えていた。得れば得るほど零れ落ちてしまうのではないかと。
温かなものに囲まれるほどに失ったときの寒々しさを想像し、奈落へ落ちたかのような心地になる。
わたしが強ければこんな想いをすることもないのだろうか。
こんなちっぽけな手なんかじゃなくて、もっとどんなものでも守れる力があれば。
伸ばせばどこまでも届く腕。
どんなものでも掴める手。
どこへでも飛んでゆける脚。
大切な人が危ないときはいつだって助けられるようになれば、誰も失うことはない?
それともいつかひとりでも平気になる時が来るのだろうか。この空白に慣れるときがくるのだろうか。
でも、今のわたしはひと時だって独りになんてなりたくないと、強欲にも願っているのだ。
壮絶な破壊音。
ミサキの――天使のマリスが振り下ろした両の翼腕がフランを叩き潰した音だ。
破壊不能オブジェクトである床が砕け、ワイヤーフレームが露出する。フランの細い身体が埋没して、見えなくなる。
『――――――――さみしいよ』
天使はきょろきょろとあたりを見回す。
ふらふらと、まるで親とはぐれた子どものようなしぐさで徘徊する。そのたびに力なく垂らされた本来の腕が揺れた。
そうしていると、下半身のシルエットがぐじゅりと崩れた。足元の影と同化し、歩かずとも移動できるようになった。
『ひとりにしないでよ』
ざざ、ざざ、と。
マリスが声を発するたびにノイズが走る。
腰から流れ落ちるように波打ち、タッキングスカートのような形状を作り出している影が床を舐めると、テクスチャが削り取られてその美しい装飾が消え去った。
全てを求め、全てを無にする。
それが今のミサキの姿だった。
その時、砕けた床から何かが飛び立つ。
「《ヘルメス・――――」
フランだ。
その手に取った小瓶のコルク蓋を口で乱暴に開き、
「――――トリスメギストス》!!」
一気に飲み干した。
とたん、彼女の身体をオーロラのベールが覆う。
《ヘルメス・トリスメギストス》。
一度使用するだけで、ATK、DEF、MAT、MDF、SPDといった基本ステータスだけではなく、クリティカル率にクリティカル威力を始めとした特殊なバフの数々を付与するアイテム。非力な錬金術士をひと時だけ稀代の近接アタッカーへと変貌させるこの薬品だが、代わりに効果が続いている間は一切アイテムが使用できないというデメリットも持つ。
「ふッ!」
近くの柱を蹴って加速したフランが杖を振るい、マリスの右翼腕を切り裂く。
切断され、ぼとりと床に落ちて消える翼腕だったが、一瞬で再生した。
『いたい。やめて――――』
乱暴に振り回される両翼腕を杖でいなし、懐に飛び込んだかと思うとすれ違いざまに肩口を切りつける。
そのまま次の攻撃に移ろうと思った手が止まる。全身に影が絡みつき、身動きが取れない。
『――――わたしにさわらないで――――』
影が蠢き、再び脚を形成する。
そのまま鞭のように振るわれ、無防備なフランの腹に一度、二度打ち付けられる。
「がふッ……」
三度目のキックで拘束の影を引きちぎるほどの勢いで吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
ずり落ちてうなだれるフラン。そこへたたみ掛けるように地を這う影のトゲが迫る。
「っ!」
ダメージに落ちかけていた瞼を半ば無理やり開き、一息で飛び上がる。
地上の影を飛び越してマリスの懐へ入ったかと思うと、杖と翼腕の打ち合いが始まった。
両の翼が凄まじい膂力でもって振るわれ、その一撃一撃を杖でしのいでいく。
力の差をかろうじて手数で補っている状況。しかしそれもいつまでも続かない。この立ち回りを可能にしているのは薬品の力で、効果時間には限界がある。
『――――だれか、だれかいないの』
先ほどから聞こえるミサキの声はうわごとのようで、脈絡も意図も感じられない。
ただ感じたことを感じたままに、ミサキの感情が表面化しているのだろうとフランは推測した。
マリスは精神に作用する。マリス・シードを所持していただけのラブリカでさえ、その情念を異様なほどに高ぶらせていた。
初めてマリシャスコートを纏ったミサキは破壊衝動に飲み込まれそうだと語っていた。
だからおそらくこれはミサキの心の奥底に沈められていた、彼女の”核”とも言える代物だ。
こんなものをずっと抱えて生きていたのだろう。
フランにはミサキの苦悩はわからない。何があって、どう感じて、そして今に至るのか。想像することしかできない。脳裏に浮かんだのは彼女の母親のこと。もう二度と会えないと零していたあの雪山での出来事がよぎった。
本当の意味で誰かを理解するなんてことは不可能なのだと思い知らされる。
ミサキがこんな孤独を抱えていたなんて思わなかった。マリスに感染しなければ、きっと永遠に知ることはなかったのではないか。それほどに普段は隠されていた。もしかすると、本人ですら見えなくなるほど深く。
相棒だと言いながら彼女の心に寄り添ってやれなかった後悔で胸が軋む。
しかしそれを越えて余りあるほどの熱がその胸にくべられた。
絶対に許せないことが、フランにはあった。
『――――いつまでひとりでいればいいの』
マリスの足元から伸びる影がフランへと纏わりつく。
それを力任せに振り払い、捕まえようと迫る翼腕をくぐり抜け、そのまま杖を渾身の力で胸を貫き、突き倒す。
『だれかいないの――――』
もう、限界だった。
「――――あたしが! ここにいるでしょうが……!!」
ぴたりとノイズが止んだ。
「あの時あなたと出会った錬金術士は誰!? あなたの相棒は……ここにいるあたしは誰!? 言ってみなさいよ、知らないなんて言わせない! ずっとずっとあなたの隣にいたこのあたしを、いないみたいに扱わないで!」
ぽたぽたと、この世界に存在するはずのない涙が落ちる。
許せなかった。目の前にいる自分を無視して、ひとりが嫌だ、寂しい、誰か誰かと彷徨うミサキがどうしても許し難かった。
ミサキを想うこの心が悲鳴を上げていた。
ずっと一緒にいたのに、それでも孤独を埋められていなかった自分が一番腹立たしかった。
「知ってた? あたし、ずっとひとりだったのよ」
この世界に来て、たったひとりでアトリエを営んでいた。
誰も来なくて静まり返ったアトリエをひとりで守っていた。
その時は何とも思っていなかった。
でも、ミサキと出会って。
ひとりじゃなくなってようやく気付いた。
ああ、あの時あたしは寂しかったんだ、と。
「ミサキのおかげで”ふたり”になれた。なのに、なんでそのあなたが……そんなこと言うのよ……」
わかっている。
彼女の抱えている鬱屈とした感情を極限まで肥大化した結果があのマリスの言葉だというのはわかっている。
そんなこと、たとえ彼女の全部が理解できなくたってわかる。いままでずっと隣にいたんだから、過ごした時間を本気で楽しんでいるかどうか位はわかる。
それでも許せなかった。どうしても。
『――――フラン』
「え……」
ノイズが響く。
ここでようやくマリスはフラン個人を認識した。ミサキの意志が濃くなっている。
……だが。
マリスの胴体が、縦に裂ける。
『なら、ずっとわたしのなかにいて』
それは巨大な口だった。
縦に開かれた口。その中にはずらりと牙が生えそろい、奥は暗闇でよく見えない。
そこから影が舌のように飛び出し、フランを迎え入れようとする。
「この……バカ!!」
素早く引き抜いた杖で影の舌を切り飛ばし、後方へと飛び退る。
天使のマリスはゆっくりと起き上がり、足元で影を蠢かせる。虎視眈々とフランを狙っている。
その目的は、排除から吸収へと変わったようだ。
「……ミサキのわからずや。ひとつになんてなったら……ひとりのままでしょうが」
虹色のベールが消滅し、《ヘルメス・トリスメギストス》の効果が終了する。
しかしもうフランの覚悟は決まった。
「二人だからこそ一緒にいられるのよ。あなただってそんなこと、本当はわかってるはずでしょう?」
このマリスだけは何があっても絶対に倒す。
なぜならミサキに言ってやらねばならないことがあるからだ。
決意を新たに、錬金術士は杖を握りしめた。
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