121.万影の天使
静まり返った聖堂。
ここには信徒も、賛美歌も、崇めるべき神さえも存在しない。
ただ。
そこには巨大な翼腕を持つ漆黒の天使と、錬金術士が対峙していた。
「――――
フランは左手を前にかざして呟く。
すると指輪の黒水晶が弾け、いくつもの水滴と化し、全身に装着されていく。
マリシャスコート『エイリアスジョーカー』。薄手の真っ黒なイブニングドレスのようなその装束は、マリスと化したミサキを倒すには必須の外装。
それを見た天使のマリスは動く。
巨大な翼腕を拳の形に握りしめ、フランへと殴り掛かる。
「っ!」
とっさに身体を引くと豪腕が鼻先をかすめた。
一瞬遅れて風圧がフランの前髪をなびかせる。
だらんと垂らされた本来の両腕は動く気配がない――が、代わりに背中から生えたいびつな翼腕がその役割を果たしている。
ミサキの戦法は徒手空拳が基本スタイル。彼女が変貌したマリスもまた、その性質を踏襲しているのだろうか。
現時点でわかることはあまりにも少ない。加えて絶対に負けるわけにはいかない。
ミサキがマリスに感染したのが、誰も入ってこられないこの場所でよかったと心から思う。
「【
かつん、と杖を床に突き立てると金色の光が走り、幾何学模様で構成された魔法陣を描き出す。
このスキルは一時的に今いる場所をフランのアトリエとして上書きするというものだ。これにより、この場での調合が可能となる。
「まずは……これ!」
天使の眼前へとアイテムを投げつける。
その名は《バイバイボム・改》。以前使った投げつけるとひとりでに増殖し起爆する爆弾の改良版だ。
カンストした投擲スキルによって的確に放物線を描いたその爆弾は、数十個にまで一瞬で増殖し、マリスの目前で起爆する。
広範囲に爆発が巻き起こり、炎と煙が広がった。
だが天使の翼腕が力強く振るわれ、うちわのようにそれらを吹き払う。
反撃とばかりに踏み込もうとした天使のマリスだったが、一瞬前まですぐそこにいたフランの姿が消えていることに気づく。
「こっちよ!」
その声は背後から聞こえた。
《バイバイボム・改》はダメージを目的としたものではなく、その真意は目くらまし。
それに気づいたマリスが振り返るよりも前に、腰だめに構えた電撃を流し込む針、《ビリー・ニードル》を背中へ突き刺そうとし――寸前で止まった。
「……これって……!」
影が。
マリスの足元から伸びる漆黒の影がフランの手元に巻き付き、《ビリー・ニードル》を押しとどめていた。
なんとか力ずくで押し込もうとした刹那、影によって空中へと放り投げられる。
「きゃあっ!」
ふわりと浮いて、一瞬の無重力。
しかし眼下には握りしめられた翼腕が待ち構えている。
回避は不可能と判断したフランは瞬時に防御用アイテムを取り出す。
「くっ、《バリア・チケット》!」
手の中から滑り落としたフリスビーほどの円盤は瞬時に青白い障壁を作り出す。
それとほぼ同時、障壁の上から巨大な拳が襲い掛かった。バリアに一瞬止められたものの、凄まじい膂力で砕き割り、フランへと直撃した。
空中から床へと一直線。声も上げられずに叩きつけられ、転がって倒れる。
「げほっ、なんって力……! チケット使ってなかったら死んでたわね……それに」
ふらつく足で何とか立ち上がりながら今の攻防を分析する。
あの翼腕によるパワーは脅威だ。だがそれよりも、あの影。
「”そっち”も使えるのね…………」
天使の足元で禍々しくうねる影を見て唇を噛む。
ミサキの持つマリスの力。マリシャスコート『シャドウスフィア』――影を自在に操る能力。
外部からマリスに感染したことで生まれたあの天使のマリスもその力を使用できるとなると非常に厄介だ。
何しろほぼノーモーションで使用できる。ミサキ本人は使いやすくするために自身の攻撃の単純強化に使うことが多かったが、本来もっと影の形は随意に変化させられるはずだ。先ほどのように、フランを捕まえる触手のような用途としても。
それに加え、ミサキはマリスの力に浸食されすぎないように意識して力を抑えていた。しかし今は完全にマリスへと変貌した状態。つまり心的リミッターはなくなっているものと考えたほうがいい。
何よりも恐ろしいのは、あのミサキがその力を、目の前の敵を打倒するためだけに使ってくるであろうことだ。
先ほどの一撃もまったく加減がなかった。
「いつつ……本気でやってくれちゃって」
マリスの攻撃はこの世界を逸脱している。
現実と比べて感覚が曖昧になっているゲーム内においても、現実と同じかそれ以上の痛みを与えてくる。
拳を受けた左腕が激しく痛み、熱を持っている。まるで骨にヒビが入っているのではないかと思えるほどの鮮烈な痛みだ。
フランにとってはずいぶん久しぶりの感覚。《薬草パイ》を口に放り込み減ったHPを元に戻す。回復アイテムはこれで最後だ。
「――――――――」
天使が声のような何かを発し大気を震わせる。
同時に、その足元から影が地を這いフランへと襲い掛かった。
「くっ!」
とっさに横へ飛び回避、間髪入れず攻撃に移る。
投げつけたのは《生きてるスノーマン》。自動戦闘する雪だるまだ。
雪だるまは着地すると素早く手袋の拳でマリスへと殴り掛かる。しかし翼腕に薙ぎ払われ、あっけなく四散した。
「これくらいじゃ通じないか……」
《生きてるスノーマン》はフランの所持しているものの中でもかなり上位に位置するアイテムだ。しかしそれが通じないとなると、対抗策は限られてくる。現在この場所がフランのアトリエと同化していることで、ストレージに保管してあるアイテムはいくらでも取り出せるし、その中にはきわめて強力なものもいくつかある。
だがいまだに躊躇いがフランの中でわだかまっていた。
(本気で戦っていいの……?)
威勢よく啖呵を切ったフランだったが、その内心は揺らいでいた。
使おうと思えば強力なアイテムを大盤振る舞いできる。だがこれはマリスの力同士の戦いだ。普通じゃない強烈な感覚。精神への汚染。加減なく戦ったとして、その後どういった影響が残るかいまだに不明瞭だった。
迫る影の槍を《バリア・チケット》で相殺しながら、なおも思考が深く潜る。
こうして戦えば戦うほど迷う。だが凌いでいるだけではいつか限界がやってくる。それはフランも、マリスと化したミサキも同じこと。
心身への影響が少なくなるようマリスの力を調整したマリシャスコートですら使用可能時間には限界がある。
だからできる限り早く勝負を決めなければならない。
だが早く決めようと勝負を急げば……そんな二律背反がフランを苦しめる。
だが、いまだに迷いを捨てられない彼女をあざ笑うように天使のマリスが動く。
突如その身体がとぷんと床に沈み、姿を消す。
「…………っ!?」
いきなりの静寂に一瞬思考に空白が生まれる。
しかしその直後、脳裏に特有のノイズが響き、とっさに振り返った。
「――――――――」
フランの影からずるりと這いだした天使がその翼腕を振りかぶっている。
とっさに杖でガードするが、彼我のパワー差はどうしようもなく、みるみる押されていく。
なんとか踏ん張ってはいるが時間の問題だ。
「だから、手加減しなさいって言ってるでしょう……!」
立っている床がひび割れ、本格的に窮地に立たされる。
どう逃れるか、それともどう受けるか――そう考えていた時だった。
『……………………さみしい』
「え?」
確かに聞こえた。
ノイズ混じりではあったが、それは間違いようもない、ミサキの声だった。
今までこんなことはなかった。マリスと化したプレイヤーはみな一様に理性を失ったモンスターへと変貌し、意思を表すなんてことは不可能だったからだ。
『………………さみしいよ』
それが、今。
こうして意志が表出している。
ミサキを襲ったマリス・シードが特別なのか、それともミサキ自身が特別なのか、それはわからない。
だが、フランにとってはどうでもよかった。
(さみしい、って)
その時だった。
フランを抑えつけているのとは別の、もう片方の翼腕が鎌首をもたげている。
それは拳を形作ると、容赦なくフランへと振り下ろされた。
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