73.いつだって切り開いてくれたあなたは


 石見万智。

 それが私の名前。


「ぃしみ……ち……です……」

 

 自分の名前が嫌いだ。

 声に出して名前を発するとき、いつだって誰かの目に晒されているから。

 自己紹介なんて消えてしまえと何度呪ったことか。

 誰も私のことを知らなくていい。


「…………あー、石見さんね、はいじゃあ次の人」


 白髪交じりの担任教師の諦めたような声が私を蝕む。

 私が精いっぱいの勇気を振り絞って放ったか細い声は誰の耳を震わせることもなく、教室の空気に溶けて消えた。

 私の情けない自己紹介は誰かが今日の嘲笑のネタにして、やがて忘れ去られていくのだろう。


 高校生にもなって人前でまともに自分の名前も言えないことが恥ずかしい。

 恥ずかしがりはいつまでたっても治らない。恥ずかしいから克服の場にもまともに立てず、ずるずると引きずっていくしかない。

 

 悪循環。

 その通り。


 親は『そのうち人見知りも治ってくるよ』と優しい言葉をかけてくれる。ありがたいが、私は今困っているのだ。仮にいつかまともにコミュニケーションが取れるようになるとしても、救われるのはその時の自分でしかない。

 

 …………こんなネガティブな考えが一番よくないのはわかっている。

 

 でも例えば昼休みだとか、体操服や教科書を忘れた時だとか、移動教室を忘れていた時だとか、そういった時に途方に暮れるたび、何もかもが嫌になる。

 どうしてみんながあたりまえにできていることが自分にはできないのかと。ただ自分のフルネームを言うだけのことに、どうしてあそこまで苦労しなければならないのかと。


 でも、そんな自分を変えたかった。

 いつまでもがんじがらめなのは嫌だった。

 劇的に、180度変わることはできなくても、少しくらいマシな自分になりたかった。


 そう思って応募した『アストラル・アリーナ』のβテストに参加できたのは僥倖だった。


 ここでなら違う自分としてスタートできる。

 失敗した現実の自分をいったんリセットして、まっさらな自分でスタートできるはず。

 そうしたら友達の一人でも作れるんじゃないかと、そう思っていた。


 だがそんなに都合よく自分の性質が変わるわけもなく。 


 結局今の私は『スズリ』というガワで自分を覆い隠している。

 そうすれば普通に他人と接することができるというのは進歩と言っていいのか、それとも。

 スズリでいるために見た目も変えた。毅然とした表情を保てるように意識した。


 この世界にいるときはいつだってスズリに頼っている。

 人と話すときも、戦闘においても。そうしないと誰とも関われない。

 これでいい。誰も損なんてしていない。だって誰も本当の私を知らないんだから、スズリが仮面だなんて分かりっこない。


 勇気を出して加入したギルドのみんなは私を温かく迎えてくれた。

 素の自分を出すことは未だに出来ていないが、それでも楽しく過ごせている。

 友達と呼べる子たちもできた。


 だけど。

 だけど、それでも……他ならぬ自分の声が私を蝕むのだ。

  

 ――――本当の私はこうじゃない。

 ――――私はみんなを騙している。


 スズリでいる間、いつも後ろめたさが背中を這いまわっているような嫌な感覚があった。

 いつだって何かに追い立てられているような罪悪感に支配されていた。

 結局この世界でも私は私を縛り付けている。


 偶然にも素の私を見せることになってしまったミサキはそれを肯定してくれたけれど――ああ、クルエドロップの言う通りかもしれない。

 みんなを騙している私は、きっと大嘘つきだ。





「違う!!」


 その声に、スズリは衝撃に備えて瞑っていた目蓋を開く。

 見れば自分の首を狙っていたクルエドロップの刃がミサキの両腕に阻まれている。


「騙してなんかない……嘘なんかじゃないよ!」


 力任せに刀を弾き、クルエドロップへと拳を連続で振るう。

 だがその攻撃は舞うようなステップでかわされていく。


「わたしが触れてきたスズリはいつだってスズリだった! 話し方が違うとか、態度が違うとか……そんなの関係ない!」


 戦いの時に見せた凛々しい剣士としての顔も。そのあと覗かせた引っ込み思案な少女としての顔も。

 それのどちらもがスズリだった。両方合わせてスズリだった。偽りのガワではない、あれもまた彼女自身なのだと拳と剣を交えて感じることができた。


 例え現実の――普段の自分と違う見た目でも。違う話し方でも。

 それは偽物ではないとミサキは主張する。


「は、じゃあその子はなんでそんな顔してるんやろうね? 罪の意識、良心の呵責――それは騙してるのを自覚してるからなんちゃいますか?」


 紙一重で命をやり取りする最中、ミサキは一瞬だけ後ろのスズリに視線をやる。

 へたりこみ、顔からは血の気が失せ、今にも嗚咽を漏らしそうに俯いている彼女からは剣士スズリが剥がれ落ちているように見えた。

 

「――――――――スズリ!」


「…………っ」


 その呼びかけに、弾かれたように顔を上げる。

 クルエドロップの容赦のない剣戟に必死で食らいつきながら、ミサキは叫ぶ。


「その『スズリ』は……あなたの理想なんでしょ? こうなれたらいい、こういう自分なら胸を張れる、みんなの前でも平気でいられるって作り上げたものなんでしょ!?」


「私の……理想……」


「だったら胸を張って認めようよ! 誰でもない、スズリ自身が肯定しないと本当に偽物になるでしょうが!」


 ――――思えば。


 この世界に足を踏み入れてから、ずっと誰かがそばにいてくれていたような気がしていた。

 

『…………私は…………スズリ。スズリ……うん、スズリだ』


 『スズリ』でいれば背筋を伸ばして街を歩くことができた。

 すれ違う人から顔を背ける必要もなくなった。

 恥ずかしいスキル名の宣言も、胸を張ってできるようになった。


『スズリならこんなことで尻込みしない。よし……!』


 アリーナで開催されているトーナメントに出たのは自分を変えたかったから。そして、その一歩を踏み出せたのはスズリがいたからだ。

 誰かと鎬を削る楽しさも、彼女から教えてもらった。


『だから君には全力で臨みたい。受け止めてくれるか?』


 あのミサキとの戦い。

 スズリと自分の境界が溶けていくような不思議な感覚を覚えていた。


 その時、きっともうわかっていたのだ。

 いつだってそばにいて助けてくれたスズリが、他ならぬ自分自身だったということを――――


「あの時聞けなかった答えをちょうだい、スズリ」


 ミサキはもう振り返らない。

 

「スズリはどうしたいの。どうなりたいの」


「私は…………」


 折れた剣の柄を強く握りしめる。


 始めて手に取った武器は剣だった。特に理由は無かった。一番強そうだったからというだけで、こだわりはない。

 でも『スズリ』にはよく似合っていて、そのうち気に入った。

 剣一本一本に思い入れがあるわけではないけれど、それでも自分にとっては彼女を象徴する武器だった。


 空中に高速で幾重にもワイヤーフレームが描かれる。

 躍るように何かの輪郭を形成していく。


 折れても終わらない。

 剥がれても消えたりしない。


 自分が自分である限り――スズリはずっとそばにいてくれる。


「――――私はスズリでいたい。私自身がスズリだというのなら、いつだってありのままで胸を張りたい!」


 彼女の想いの発露に呼応するかのように空中に形成されたのは六本の剣。

 そのうちの二本を両の手に携え、残りの四本はスズリを守るかのように宙に浮き彼女の周囲を回っている。


「…………六刀流」


 思わずつぶやくミサキ。

 どういう理屈で、どういうシステムが働いたのかはわからないが――スズリはひとつ壁を越えたようだった。


「行くぞクルエドロップ。これが『私』の……本当の初陣だ」 


 突きつけた剣の切っ先は、少しも揺らいでいなかった。

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