57.影落つ玉兎

 

 界到そのことばを紡いだ瞬間、目の前が真っ暗になった。

 視界の端から一瞬で黒く塗りつぶされた。


 漆黒の世界で感じたのは、自分の身体が別の何かに作り変えられるような感覚。

 同時に、叫びだしたくなるような衝動がわたしの胸を渦巻いていた。

 暴れたい。壊したい。傷つけたい――あらゆるネガティブで暴力的な感情がわたしの全てを塗りつぶそうと胎動する。そして、それに抵抗しようとすればするほど全身に激痛が迸った。

 呼吸の仕方を忘れてしまいそうなほどに苦しくて、このままでは飲まれてしまうと思った。

 

 だが。

 ゲームの中だとは思えない壮絶な苦痛に、しかしわたしはあえて笑う。 


(――――こんなの苦しいうちに入らないんだから)


 この暴れ馬を乗りこなしてやらなければいけないことがある。

 フランを守る。そしてラブリカを救う。

 簡単な話だ。あのマリスを倒せばいいのだから。


 そう思うと真っ暗な中に光が差した。

 一番星みたいな金色の輝き。


 わたしは眩しい方へ向かって手を伸ばして、伸ばして……光に指先が触れると同時に、粘つくような闇は千々に引き裂かれた。






「…………『マリシャスコート:シャドウスフィア』」


 今のミサキが纏っている、ピアノの鍵盤を思わせる外装――マリシャスコートは一切の攻撃を受け付けないマリスに対抗する唯一の手段だ。


 そもそもなぜマリスが攻撃を受けないのか。それは彼らがプレイヤーや通常のモンスターとは違う”位相”に存在しているからだ。確かにそこに存在してはいるのだが、同時にそこにはいない――存在座標が別軸上に位置している。軸が違うから相手の攻撃は自身に届かない。

 しかし厄介なことにマリスは攻撃判定を別の軸にまたがって発生させることができる。だからマリスの攻撃はプレイヤーを容赦なく襲う。


(――――っていうのがあたしの考察。前回の戦いと、そしてその時戦ったマリスから採取された黒い結晶を調べたことで奴らのメカニズムをある程度理解できた)


 例えば2つの電車があったとして、それぞれが別の線路を走っているうちは絶対にぶつかることはない。しかしマリスは別の線路にも干渉できるといった具合だ。

 そして、その性質に対抗するために開発されたのがマリシャスコート。装着者をマリスのいる位相に同期させる――つまり、マリスが走っている線路に自身を乗せて追突を可能にするものだ。


「ミサキ! その外装、長くはもたないわ」


「…………みたいだね。わかるよ」


 フランの忠告に、深く息をつくミサキ。

 マリシャスコートには活動限界リミットがある――という意味ではない。

 これを纏ってから、ミサキの胸の中には黒い核のようなものが出現していた。しかもそれはアバターの内側から外側に向かって、まるで触手を伸ばすようにして侵食してきている。それが全身を染め切った場合、何が起こるのかわからない。


「だからさっさと終わらせるッ!」


 漆黒の足が草原を踏みしめ、ミサキの身体を砲弾のように射出する。

 ゼロコンマ1秒でマリスの眼前に到達――振るった拳が胸部に直撃した。


「当たった!」


 フランは思わず快哉を叫ぶ。

 自身の作った装備が通用している。


 だがミサキの拳を喰らったマリスは大きく仰け反ったかと思うと、ばね仕掛けのように勢いよく体勢を戻し、同時に右腕の槍を振るった。鋭い切っ先は正確にミサキの腹部を狙う。しかし柔肌が貫かれる寸前、目にもとまらぬ速度の膝蹴りが真下からその槍を打ち上げた。


 直後響く破裂音。

 ワンテンポ遅れてマリスが仰け反る。

 がら空きになった蜂人間の腹に、ミサキの拳が炸裂したのだ。

 

 だがそれで終わりではない。

 隙だらけのマリスに、もう一度。同じ部位に拳を叩きこむと、透明な粘液が口から噴出した。


「まだまだァ!」


 さらにもう一発。

 打撃が止まらない。執拗に、容赦なくミサキは漆黒の拳を振るう。


 その戦い方は明確に今までと違っていた。

 荒っぽく力任せ。胸の内で渦巻く衝動を発散しているかのような暴力。

 まるでそうしていないと呑まれてしまうとでも言いたげで、フランの目から見ていると危なっかしいことこの上ない。

 思った以上にマリスの力を纏うのはリスクが大きいのかもしれない。


「それでもきっとミサキなら――――」


 祈るような視線の先、何度目かの拳が振るわれ――マリスの槍のような両腕に阻まれる。

 ミサキとマリスが睨みあう。拳に力を込めてみるがびくともしない。

 小柄なミサキを見下ろす蜂の複眼にはなんの感情も宿っていないように見える。機械的に、ただ目の前の敵を殺すためだけに動く機械のごとく、マリスは少女を見据えていた。


「…………ラブリカ。ねえ、ラブリカ。聞こえる?」


 全身を駆け巡る荒ぶる感情の渦の中に居ながら、ミサキの瞳には確かな理性が宿っていた。

 荒い息をつきつつも、異形と化したラブリカへと静かに語り掛ける。


「たぶんこの戦いが終わったら……今こうやって戦ってることとかも全部忘れちゃってるのかもしれないけど……それでも言うよ」


 おそらくマリスの影響を強く受けた者――キルされた者、そして何らかの手段でマリスに変質した者は記憶を失ってしまう。

 それがただのショックによるものなのか、それとも意図的にマリスに搭載された機能なのかは現状知るすべがないし、仮にそうだとしても何のために、という疑問は残るのだが――とにかく。


 今異形と化したラブリカも、きっとこの出来事を覚えてはいられない。

 しかし、例えそうだとしてもミサキは声を上げる。

 言わなければならないと思ったから。


「ちゃんと話そう。ラブリカがわたしのことをどう思ってるのかとか、ラブリカ自身のこととか……わたし君のことを全然知らないんだよ。だからまた、」


 そこでミサキの声が途切れる。

 強烈な羽音が響き渡り、全ての音をかき消し――至近距離にいたミサキを襲った。


「あぐ……っ!?」


 思わず両耳を抑えるミサキ。

 頭頂部から生えた長い兎の耳はそれ自体が感覚器の一種だったようで、さきほどこの音波をフランが食らったときよりもなお効果的に働いた。

 

 壮絶な音をまともに受けるミサキは脳を直接揺さぶられるような不快感に揺らぐ。

 前後左右上下の判断がおぼつかず、そして……両手で耳を塞いでいるということは、つまり無防備を意味する。


 キシ、と嘲笑のようにも聞こえる物音がした。


「が、は」  


 よろめいていたミサキの動きが止まった。

 蜂のマリスの、槍のような腕が彼女の腹部を貫いていた。

 

「ミサキっ!」

 

 その光景を見ていたフランはなんとか立ち上がろうとし、足が動かないことに歯噛みする。

 受けたダメージは思ったより大きく、そしてマリスから受けたダメージはプレイヤーの力を奪う。

 

 しかし、今この瞬間。

 フランよりもミサキのほうが深刻なダメージであることは間違いなかった。


「……………………」


 ノイズまみれの赤黒いダメージエフェクトが腹から零れ落ちる。

 脳がスパークしてしまいそうなほどの激痛が全身を駆け巡る。

 白飛びする視界のふちが赤く彩られ、一撃でHPが危険域に到達したのがわかった。


「…………ジジ」


 耳障りな音がマリスの口から響く。

 勝ち誇っているかのように身体を揺らし、それに合わせて貫かれたままのミサキも揺れる。


 フランは戦慄する。

 ミサキという最後の砦が崩れたらもう――そんな絶望感が足元から這い上がってきた。

 マリスに攻撃が通用すると言っても、それはイコール勝てるということではないのだ。思い上がっていた。自分の作った装備なら、と。

 これから起こる蹂躙を想像し、思わず目を閉じようとして、


「――――こんなのでわたしは倒せないよ、ラブリカ」


 バキン、という破砕音。


 マリスも。

 フランも。

 この少女のことを侮っていた。


 ゆっくりとマリスはその複眼で見下ろす。

 ミサキが、自身の腹部を貫く右腕を握りしめているのが見えた。

 次に、その腕が切り離されているのがわかった。

 目の前の少女に握りつぶされ、引きちぎられていた。


「…………縺昴s縺ェ!?」 


 動揺の色を深く滲ませるノイズ音と共に、ミサキの足元から漆黒の影が奔流となって迸る。

 ノーモーションで蠢きだした影はマリスの全身を穿ち数メートル吹き飛ばした。


「な、なんなのあれ」


 動揺の色を隠せないのはフランも同じだった。

 そんな機能を付与した覚えはない。確かに作っている最中、素材となった黒い結晶のブラックボックスの多さに辟易はしたが、こんな現象は想定していない。

 自分が作ったのはマリス特攻の外装というだけのはずだったのに。


「そっちがその気ならもういいよ。話は殺した後聞かせてね」 


 ぎゅる、と影がミサキの右腕に巻き付く。

 それと同時、小さな身体が消えた。

 直後、マリスの残った左腕がちぎれ飛んだ。眼前に現れたミサキが影を纏う右腕を振るったのが辛うじて見えた。


 うろたえる蜂のマリスは背の薄羽を震わせ飛びあがり、そのままどんどん高度を上げていく。

 黒い蜂は深紅の空へと逃げようとしている。


「このままじゃ取り逃がす! ミサキ……!」


「わかってるよ!」


 黒い影が腕から脚へ移動したのを確認すると、ミサキはマリスへ向かって真っすぐ跳躍した。

 だが高度が足りない。届かない。

 しかし。


 トン、と。


 まるで空中に足場でもあるかのようにミサキは連続で跳躍を繰り返す。

 何もない虚空を踏みしめ、何度も高度を上げていく。

 それはまさに無限の空中ジャンプ。黒い兎が月を目指すように、飛び逃げるマリスとの距離を見る見る縮めていく。


「ジジ……………………ッ!」


 背中から迫る脅威を、マリスもまた察知する。

 空中で体勢を変え、ミサキの方を向くとちぎれた腕の断面がうねり、新しい腕を生み出す。

 それはハチの巣のような形状で、表面には六角形の穴がびっしりと空いている。

 一度全身を震わせたかと思うと、その穴から大量の黒い蜂が飛び出した。


「…………!」 


 空を埋め尽くしてしまいそうなほどの数を誇る無数の蜂は、女王に迫るミサキを打ち落とさんと殺到する。普通なら明らかに対処不可能な質量――だが。


「せやぁっ!」


 ただの一振り。

 影を纏うミサキの脚が、文字通り黒蜂の大軍を一蹴した。

 蹴りに伴い扇状に膨れ上がった影が、群がる蜂を一匹残らず打ち落としたのだ。


 攻撃が通用しなかったからか、それとも自身の子が全滅したことへの動揺か――それを知るすべはないが、マリスは空中で硬直する。

 直後、ミサキが虚空を蹴り加速した。

 

 発射された砲弾のように、一直線。

 影は再び拳を覆う。

 漆黒の右手を握りしめ。


「はああああぁぁっ!」


 赤い空の中、二つの黒が交差した。

  

 片方は黒い飛沫となって四散。

 もう片方は運動エネルギーを失い真っ逆さまに落下する。


「――――落ちて、」 


 フランの口からこぼれたその言葉の通り、ミサキが落下し……地面の直前で軽く跳ねたあと着地した。


「攻略完了…………」


 マリスを倒したはずのミサキはちっとも嬉しそうではなく。

 フランの目には、その少女が酷く憔悴してしまったようにしか見えなかった。

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