38.侵食汚染


 気が付くとそこは真っ白な部屋だった。


「…………」


 少女が立っているのは円形の空っぽな部屋だ。天井は少し低めで、色は白。曲線を描く壁も白。下を見てみれば床も白だった。

 ドアも窓もない。そんな場所を部屋と呼べるのか、とは思うが、ミサキにとってここは部屋以外の何物でもない。

 それでも、何もないこの部屋の景観には一抹の寂しさを覚える。まるで、あした住処を移す者の暮らしていた場所のようだった。


 いや、そんなことはとりあえず置いておこう。この部屋がどんな色だとか、どんな形をしているだとか、今はどうでもいいことなのだ。


「さっきまであのへんなモンスターと戦ってて、あのビームを食らって……」


 直前の出来事を辿ってみるも、そこから先の記憶が無い。

 必死で攻撃を防いでいたから良く見えなかったが、最後の瞬間、あのカラス人間がすっ転ぶところまではかすかに見えた。

 そういえば、あの攻撃をまともに受けた両手はどうなっただろうか、とおもむろに両手を眺める。ノイズに侵食されていたはずなのだが、こうしてみると綺麗なものだ。すべすべの小さな手。


 いや。

 それはそれでおかしい。この手にはフランが作ってくれた装備が装着されていたはずなのだ。素手なわけがない。

 そう思い自分の姿をよく見てみると、ゲーム内のアバターであるミサキではなく、ラフな部屋着に身を包んだ神谷沙月であることに気付いた。

 

「ログアウト――はしてないはず、だよね」

 

 神谷は自室のベッドに寝転がって『アストラル・アリーナ』にログインしたはずだ。こんな白い部屋にいたわけではない。

 ならばこの状況は何なのか。もしかしたら夢なのではないか――と半ば現実逃避に身を投じようとした瞬間だった。


 がし。


「がし?」


 右手首に掴まれたような感覚。

 変だな、と思う。ここには誰もいないはずなのに。

 気のせいかとも考えたが、先ほどからグイグイと手を引くこの感覚はまぎれもないリアルで、だからこそ”それ”を直視するのを恐れている。


 だが見なければ始まらない。

 おっかなびっくり、じわじわと右下――右手の方に視線を下ろすと。


「いっ…………」


 悲鳴を上げる寸前で留まったことを褒めてほしい、と思った。

 確かに掴まれていた。真っ黒な手がそこにはあった。

 床から触手のように伸びた漆黒の腕……腕と言っていいのか、そこの先端から生えた、赤ちゃん程度の小さな手が神谷の手首を握りしめていた。

 壮絶な嫌悪感に慌てて振り払おうとするも、いったいどういう握力なのか、接着でもされているかのように離れない。手で直接指をほどこうと試みるが堅すぎてびくともしない。


「離してよ!」 


 本気で引きちぎってやろうか、と強硬手段に出ようとした瞬間。

 ぞぞぞ、とさざ波のような音と共に周囲の床から一斉に黒い腕が生え、神谷の身体のいたるところに掴みかかった。

 腕。胴体。足。首。拘束され、立っていられなくなって両膝をつく。

 

「こっの……!」


 何がしたいんだ、と憤慨する。

 こうして縛り付けて、いったいどんな意図が――と何とか逃れようとした、その時だった。


 ぶち、と。


 肉のちぎれるような音。

 遅れて――脇腹に強烈な激痛。


「いっぎ……あああああああっ!」

 

 黒い手に脇腹をむしり取られた。

 そう気づいたのは突然の痛みに絶叫した数秒後だった。

 どうして、どうして、どうして――混乱が巡る頭で必死に考えようとする。だがそれは次の激痛によって途切れてしまった。


 ぶち、ぶち、ぶち、ぶち。


 次々に襲い掛かる黒い手は神谷の身体のあちこちをちぎり取っていく。もう声も上げられない。ちぎるためなのか拘束は解かれていたが、もう指先を動かすほどの余裕もなかった。


 引き付けたような呼吸。

 身じろぎするたびに悲鳴を上げる身体。

 段々と意識が遠のいてくる。

 

 とはいってもそれは痛みによる気絶ではない。身体をむしり取られるたびに、意識自体も同時に削られているような感覚があるのだ。

 存在自体が奪われていく――そんな予感がした。


「ふっざ……けて、る……」


 どうしてこんな思いをしなければいけない。

 神谷がこのゲームを始めたのは楽しむためだ。もちろん強くなりたいという意志は十二分にみなぎっていたが、そもそもその願望はゲームによって果たされなければならないわけではない。

 だから、最初にあった想いは『楽しそう』という、その一点だった。


 ここで――神谷はこの世界に来て、初めて本気の怒りを覚えた。


 このゲーム……『アストラル・アリーナ』は本当に楽しかった。

 最初に少し、というか致命的な躓きはあったが、それでもだ。

 

 いろんなことがあった。

 いろんな人と出会って、いろんな人と戦った。

 そのひとつひとつが本当に楽しかった。


 そうだ。

 今、フランはどうしている。

 今もあのモンスターと対峙しているのではないか。だったら、こんなところでこんなことをしている場合ではない。こうして自分を蝕んでいる魔の手が、あの子にも襲うことになるなんて許せない。

 そして何より――何より、フランの目の前で情けない姿は見せられない。


「っ、だああああああああっ!!!!」


 まとわりつく黒い手を力任せに引きちぎる。

 ちぎってちぎって、まとめて鷲掴みにして、叩き付ける。そうするとようやく黒い手はおとなしくなった。


「…………」


 床で痙攣する黒い手を見下ろす神谷の瞳が金色に瞬く。


「こんなところで止まってられないんだよ」


 黒い束を握りしめる神谷の右手から、真っ黒な霧が溢れ出す。

 霧は小さな手の束よりもなお黒く、それらを取り巻いたかと思うと――握られていたそれは跡形もなく消えていた。





 氷の床で転んだカラス人間が起き上がる。

 くちばしを開き、漆黒のエネルギーが充填されていく。先ほどの莫大な閃光を再び放つつもりだ。

 それを前にして、ミサキはいまだ糸が切れたように地べたに横たわったままだった。

 

「ミサキ! どうしちゃったのよ、起きないとまたアレが来るのに……!」


 その肩をフランは懸命に揺らす。

 先ほど敵の粘液を食らって機能を失った左足には少しずつ力が戻り始めている。もう少し待てば立って歩けるようになるかもしれない。

 しかしそれには時間が足りない。あと数秒が何より遠い。


 こうなったのは自分のせいでもある。

 ミサキはフランを庇ってこうなった。だからいざというときには、今度は自分が盾になって――そう決意を固めようとした時だった。


「…………ぅ」


 ぴくり、とミサキの肩が動く。

 ともすれば聞き逃してしまいそうなほどにかすれた声は、彼女の意識が戻ってきたことを意味していた。


「ちょっと、あなた大丈夫なの」


 聞こえているのかいないのか、瞬きを繰り返しているミサキは、視線をカラス人間から離さない。

 今まで見たことのないような、威圧感を孕んだ雰囲気に、フランは思わず息をのむ。

 まるで別人――いや、ミサキのこういった面が、今まで出てくるような事態に置かれていなかっただけなのか。


 そんなふうにミサキに目を奪われていたから――反応が遅れた。

 その気配にモンスターの方へ目を向けると、同時に極大の閃光が発射された。  


「やば……」


 思わず身体を硬直させ目を閉じる。

 これは防げない。万事休すか、と覚悟を決める。

 だが。


「…………?」


 いつまでたってもその時がやってこない。真っ黒なビームに飲み込まれる、そのはずだったのに。

 恐る恐る瞼を開くと、いつの間にか立ち上がっていたミサキが片手でその閃光を止めている。さっき喰らった時とは違い、完全に止め切っている。


「いえ、これは……」


 黒い閃光は止められているのではない。ミサキの右手に収束し、吸収されているのだ。

 その黒光をひとかけらも逃さず吸い込まれたカラス人間は放射を止める。表情は無いが、困惑しているというのがありありとわかる。


 吸収しきったミサキがその右手を開く。そこには黒く澄んだ闇色の結晶が握りしめられていた。

 歪だが、確かな光を発しているその結晶は、この世界では見たことのないものだった。


「これ以上好きにはさせない。わたしの目の前から、もう誰一人消させない」


 ミサキはその結晶を自身の胸に、叩き付けるように取り込んだ。

 結晶はずぶずぶと彼女のアバターに沈み込み――直後、爆風が巻き起こった。

 耳をつんざくような振動と共に、ミサキの身体が変容する。


 両腕の、その内側。そこから黒い結晶が次々に飛び出し、形状を変え、腕全体を覆う。

 苦渋の表情を浮かべているところを見ると、確かな痛みを感じているのだろう。その顔に、首元から昇ってきた黒い靄が纏わりつき、刺青のように半ばまで覆い定着する。

 足元からは同じような黒い靄が際限なく立ち昇り続けていた。

 

「なにこれ……こんなの見たことない……」


 異様な光景だった。

 新しい装備を手に入れたわけではない。クラスチェンジしたのとも違う。パワーアップと呼ぶにはあまりにも、ミサキの浮かべている表情が苦しげに見えて仕方がなかった。


 それに――ミサキは確かに目の前にいるのに、どこにもいないような、そんな違和感。こうして視覚と聴覚で彼女を感知しているから存在を見失わずにいられるが、目を閉じても、もしくは耳を塞いでも、ミサキを見つけられなくなるような気がする

 このままだと彼女がどこか遠いところに行ってしまいそうな予感をフランは感じていた。


「――――いくよ」

 

 凄まじい勢いでミサキが駆け出す。衝撃で踏み出した路面が少し砕けた。

 突然の疾走に、カラス人間は慌てて迎撃しようとする。だがそれでは遅すぎた。卓越したスピードで疾走したミサキはすでに懐に入り込んでいる。

 モンスターの強靭に膨らんだ胸――そこに右拳が叩き込まれた。


「当たった……」 


 大きく仰け反るモンスターを目の当たりにしながら、フランの口から驚愕が零れる。

 さっきまで何もかも通用しなかったのに、今は当たり前みたいに攻撃が当たっている。それはおそらくミサキの新しい力のせいだろう。

 あの黒い閃光を吸収し、姿が変わってからだ。フランの目には、敵の力を吸収したように見えた。通常の攻撃は通用しない。だがあのモンスター自身の力なら効果がある――そういうことなのだろうか。


 フランが考察を続ける中、さらに攻撃は続く。

 がむしゃらに振り回された敵の翼腕をひらりとかわし、強烈に蹴り上げる。カラス人間はうめき声を上げて怯み、隙を晒した。


 この段階でもまだHPゲージは表示されていない。だが確実に弱っていることがわかる。ミサキの攻撃は相手の命を確実に削っていた。

 しかし相手が弱っていくのに比例して、ミサキもまた憔悴していくようだった。


(内側から蝕まれてる……? あの力、いったい……)


 カラス人間が飛ばす無数の羽根を、かすりもせずに間をすり抜け顔面を殴り飛ばす。よろけたところにもう一発。さらに一発――そこでようやくカラス人間は背中を地につけた。


 そして。

 合わせるようにミサキがすでに跳びあがっている。

 拳を構え、真っ逆さまに落下。ぐんぐんと勢いを増し、黒い流星が直撃する。

 

 爆発。

 あたりに粘液が撒き散らされ、モンスターの悲鳴が鳴り響く。

 謎のモンスターはあっさりと、あっけなく撃破された。


「たお、した」


 フランは呆然としている。

 目の前で起こったことが信じられなかった。ミサキがまるで別人のように姿を変え、戦い、ついさっきまで手も足も出なかったような相手を薙ぎ倒した。

 あの力はいったいなんなんだ。

 いや――そもそもその力の由来と思われるあのモンスターは、いったい。


 謎だらけの中、困惑するフランの視界でミサキの姿が傾いだ。

 慌てて立ち上がり――もう足の力は戻っていた――駆け寄って抱きとめる。いつの間にか姿は元に戻っていた。まがまがしさなど欠片もない、いつものミサキだ。


「……えへ、攻略かんりょー……」


「ばか、無茶しすぎよ」

 

 弱々しくピースするミサキ。

 疲れ果てたような表情で、今にも眠りについてしまいそうだった。


「フラン、これ」


「……? さっきの結晶?」


「うん。たぶん大事っぽいからフランが持ってて……」


 先ほどミサキが握りしめていた黒い結晶――あの力の源と思われるそれを恐る恐る受け取る。

 これが全ての鍵になる。フランはそう確信していた。これで完全に終わりだとはどうしても思えない。あの謎のモンスターへの対抗策は、用意しておいて損は無いはずだ。


「任せなさい。この天才錬金術士があんたの相棒よ」 


 自信に満ちた笑顔を貼り付け頷く。しかし、天才という、自分で発した言葉がフランの胸に傷をつける。

 今回の戦いでは何もできなかった。足手まといになって、代わりにミサキが傷ついた。

 だから。この少女が誇れる相棒になるために、この結晶は絶対に無駄にはできない。

 ほのかに温かい結晶が、フランの手の中で煌めいた。






 そして……未曽有の被害を出したこの事件により。

 一時的に意識不明になったプレイヤーが数人確認された。

 どれもあのモンスターにキルされたプレイヤーだった。


 『アストラル・アリーナ』運営はこの件を調査するという名目で、終了時期未定の長期メンテナンスを開始した。

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