6.9.研ぎ
葛篭はスラム街を歩いていき、一つの井戸の前で立ち止まった。
そこから水を汲み、その辺に転がっていたボロボロの桶に水を汲む。
スラム街だとしても井戸はまだ生きている。
それが幸いしてスラム街の住民は何とか飢えを凌いだりしているようだ。
都市が発展している分、おこぼれにも預かりやすい。
ライアはそのことも確認しながら、周囲を探索していく。
彼の目的はこのスラム街の住民をスカウトして兵士にする事だ。
他の場所でも同じようなことをしているとなると、今後の兵力が恐ろしいことになりそうではあるが……それはもう気にしないことにした。
「あ、じゃあ僕はこれで」
「もう行っちゃうんですか?」
「はい。まだ決まっていないことがいっぱいあるんですよね。ほら、屋敷を買わないといけないし、冒険者として育てていかないといけないし。意外とやること多いんですよねー。僕はあんまり人を見る目はないんだけどなぁ……」
「意外としっかりしている……」
「はは、始めの人選間違えると後が大変だって……前にローダンが言ってたんで……」
ライアは頭を掻いてそう言った。
ローダンという人物が誰かは分からないが、恐らく彼の友人なのだろう。
だが彼の言う通り人選は大切だ。
恩をあだにして返すような人物でなければ、最悪な事態は起きることはない。
しかし子供ばかりを助けていては駄目だ。
これからの進捗に大きく関わってくるからである。
なのですぐにでも大人の兵をここから集めて行かなければならないのだ。
その人選を選ぶ仕事が、今ライアに任せられている。
責任重大。
失敗するわけにもいかないので、ライアは早く仕事を終わらせたいと言った。
だが一ヵ月もすれば冒険者活動で資金を稼げるような経営をしていくと意気込んだ。
「ということで、僕はここでお別れです! もしよろしければ手伝ってくださいね!」
「っ!」
「スゥちゃんばいばーい!」
手を振るスゥに、ライアは手を振り返す。
元よりこういった貧しい者たちを助けようと尽力するつもりだったのだ。
こちらの仕事が終われば、向こうに合流することにしよう。
だが今は少し休みたい。
先ほどの攻撃がまだ腹に残っている。
骨や内臓は痛めていないようだが、未だにじんわりと痛みが腹部に広がった。
とりあえず近くにあった木材に腰かけ、背を壁に預ける。
「……」
この間にも葛篭は砥石を水に漬けて準備をしている。
既に職人の顔だ。
刀を握ってその切っ先を相手に向けている時の表情をしている。
沖田川とは違う、集中力の高さ。
人を斬る為の道具を研ぐ者と、何かを編み出す者の研ぎは全く持って雰囲気が違った。
その様子を、三人は見守っていた。
レミとスゥは純粋な興味を持って研ぎを覗いている。
近くにいるのでうっとおしそうにするかもしれないとは思ったが、彼は鑿と砥石にしか興味を示していないようだ。
いや、どちらかと言えばそれしか見えていないのかもしれない。
葛篭は一本の鑿を取り出した。
その柄は長年使っているからか艶があり、年季の入った濃い色をしている。
ここからでも地金、面、首、
鋭く、鋭利な刃物だ。
三ミリしかないその細い刃だが、鋭さは研いだばかりの刀程あるかもしれない。
葛篭はそれを優しく手に置いた。
左手の人差し指と親指の間に柄を置き、細い裏先に左手の人差し指と中指の先を添える。
更に右手の人差し指だけを同じように裏先に置く。
右手の人差し指に力を入れ、両手首を固定して前へと滑らせる。
──。
音は何も聞こえない。
鑿を砥石に当てたはいいが、結局動かしたのは九ミリ程度。
砥石の角を使っただけだ。
それを次第に右へと動かしながら、小刻みに研いでいく。
本当に研ぐことができているのか不安になる。
だが、刃を滑らせた部分が少し変色している事から切刃がしっかり砥石に当たっていることを教えてくれた。
「……」
不意に鑿を砥石から離し、日の光に当てて様子を見る。
そして刃先を人差し指で触った。
レミとスゥはそれを見て少し驚いた。
普通刃物を指先で触って切れ味の確認はしない。
確かめ方といえば何か適当な物を切るか、用途に合わせた物を切るかのどちらかである。
葛篭は目を瞑って指先の感覚だけを頼りに切れ味を確認していく。
指紋をぞりぞりと逆撫でするような感触が指先に伝わった。
「
まだ荒い。
中砥石であるのである程度荒くても問題はないのだが、まだ荒いと彼は感じた。
この感触よりもっと鋭く。
指を抉らんばかりの鋭さがまだ足りない。
もう一度一分鑿を砥石に置き、小刻みにゆっくりと動かしていく。
それの繰り返しだ。
四度目の確認の末、ようやく太鼓判を押せる鋭さになったのか、小さく頷いて水気をふき取った。
「……触ってみる
「え!?」
「これこーして、そいそいってな」
「え、あ……いいですか?」
「
レミはおずおずといった様子で、その鑿を受け取った。
そして教えてもらった様に触ってみる。
「ッ!!?」
途端、ぞわっとした感触が指先から全身を突き抜ける。
細かく振動するように指が削ぎ落されたようだ。
実際には切れてはいないが、その感触は鳥肌を立たせるには十分すぎるものであった。
「はっはっはっは! 良さげだんなぁ」
「こ、これ刃物……?」
「ええ鋼
「すご……」
レミは心の底から称賛した。
それを待ってましたと言わんばかりに、葛篭は笑う。
職人とは、意外と単純なのだ。
人に凄いと言ってもらえれば喜ぶし、こうして刀と同じ程に大切な商売道具も簡単に手渡して称賛の言葉を貰いたがる。
要するに、褒めてもらいたいのだ。
葛篭は貸していた鑿を受け取ると、布の上にそっと置いた。
そして次の鑿を砥石に置き、また同じ様に研いでいく。
すべてで九本の鑿。
それを丁寧に研いでいく。
レミが触れたあの切れ味の鑿だが、あれはまだ中砥石でしか仕上げていない。
次に仕上げだ。
これ以上に切れ味が良くなるということを知ったレミは、触れてもいないのにぞっとする。
道具というにはあまりにも美しく、危険な代物だ。
芸術品と形容するのが正しいかもしれない。
研ぎの集中と繊細さ。
木材と相対するときの丁寧さと器用さ。
そして大太刀を振るう程の強靭な肉体と体幹。
彼の強さは、ここにあった。
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