【残留思念グラシーズ】

 空が泣いていた。


 シトシトと降る雨。そして、僕、倖田こうだそらも泣いていた。


 交通事故で、兄の様に慕っていた従兄いとこ伊達だてまなぶを亡くしたのである。喪失感で胸が焼ける。二月も後半だと言うのに、凍える様に寒い日。涙が止めどなく溢れてきて、まぶたが腫れて痛くなる程だ。


 中学生の頃、僕はいつも学兄さんと一緒に遊んでいた。いや……遊んでもらっていた、というのが正しい表現か。学兄さんは僕の人生の大半を構築してくれた。楽しい事も悪い事も、僕は学兄さんから学んだ。


 高校生になると、少し距離は出来たけれど、それでも恋愛や進学、人間関係で悩んだ時には、いつも学兄さんが相談に乗ってくれた。


 葬式で学兄さんの友人達が何人も泣いているのを見て、余計に悲しくなる。「人は死んだ時に、その人の本当の価値が分かる」って学兄さんは言っていたな。学兄さん、兄さんはとても良い人生を送ってきたよ。僕は胸の中で誇らしく思いながら、参列者を眺めていた。


 参列者の中に永田ながた晴子はるこを見つけて、僕は心拍数が上がるのを感じた。長い黒髪。涼やかな目元。高校入学当初の僕の憧れの先輩で、学兄さんの恋人。彼女は涙一つ流さず、意志の強い目で焼香の列に並んでいた。


 焼香を終えて、永田晴子がこちらにやって来た。


 丁寧に拝礼し、「このたびはご愁傷様でございます」と心を込めて、遺族である僕達にお辞儀をした。僕もお辞儀をすると、空くん久しぶりだね、と力が全く入っていない微笑みを返した。思わず声を掛けそうになったけれど、永田晴子はそそくさとその場を後にした。


 酷く落ち込んでいるのが、手に取る様に分かった。そりゃあそうだろう。ずっと愛し合っていた恋人が、急に居なくなったのだ。僕と同じ様な痛みを、若しくはそれ以上の痛みを永田晴子も抱えているのだろうか、と思って切なくなった。機会を見て、永田晴子に会いに行こう。僕は心の中でそう決めて、参列者が挨拶に来る度にお辞儀を繰り返した。


 葬式が終わってから数週間後、学兄さんの母親、つまり僕に取っての叔母に、遺品整理をするから何か欲しいものがあったら持って帰っていいよ、と言われた。少しでも学との思い出を共有したいんだよ、と言われて、僕は夕飯時に伊達家にやって来た。


「何でも持って行っていいからね。学は空の事、一番可愛がっていたから」

「うん。叔母さん、ありがとう。遠慮なく選ばせてもらうよ」

 二階にある学兄さんの部屋に入った。部屋は生前のままで、今にも学兄さんがドアを開けて、空、今日は何しに来たんだ?と笑いながら入ってきそうだった。


 ギタースタンドにあったエレキギターと、モダンな色をしたハンガーラックに掛けてあった、数枚のカッコいい衣類を手にして部屋を見渡した。すると、机の上にお洒落なメガネを見つけて、僕はそれを手に取った。学兄さんは視力が良かったはずだ。と言う事は、伊達メガネだろうか。確認の為にメガネを掛けて、僕は驚いた。





「おい!空!てめえ、指紋付けんじゃねーぞ!」





 学兄さんの声が頭の中に響いたのだ。


 僕は驚きのあまり、メガネを外して、様々な角度からメガネを確認した。恐る恐るメガネを掛けなおすと、また学兄さんの声が聞こえた。


「だから!指紋付けるんじゃねえって言ってんだろうが!メガネに乗り移ってから、ほこりとか指紋とかが、くっそ鬱陶しく感じるんだよ!」

「に、に、兄さん?本当に学兄さんなのか?」

「ん!?空!お前、俺の声が聞こえるのか?」

「き、聞こえるよ……」

「お!マジか!良かった~。必死で声出しても、母さんも父さんも気付いてくれなくてよ。いやあ、参った参った」

「学兄さん……まさかもう一度、兄さんと話せるなんて……」

 目頭が熱くなってきて、僕は思わずメガネを外した。


 メガネを外すと、学兄さんの声は一切聞こえてこなくなって、慌ててメガネを掛けなおす。


「ん?どうやらメガネを掛けてる間しか、俺の声は聞こえないみたいだな」

「うん。そうみたいだね。兄さん……もう一度話せて嬉しいよ」

「あー、それなんだがな」

「うん」

「天国で神様にお願いして、少しの間だけ現世に留まる事を許されたんだよ。しかし、まさかメガネに乗り移るとは思わなかったぜ」

「そうなんだ!でも少しの間だけ……か」

「そうなんだよ、空。俺には時間がない。お前に頼みたい事があるんだ!」

「何でも言って!僕に出来る事なら、何でもするよ!」

「お!何でもって言ったな?」

「う、うん」

 僕は少しだけ不安になったが、兄さんの願いを叶えたい一心でうなずいた。





「晴子を立ち直らせてほしい!攻略法を教えるから、お前、晴子の恋人になってくれ!」

「は?」




 僕は、言葉を失った。





「いやあ~実はさ、事故に遭う直前に晴子と喧嘩してさ。アンタの顔なんて二度と見たくないわ!って言われたから、売り言葉に買い言葉で、俺もお前の顔なんて二度と見たくねえよ!って言ってしまってよ……その所為せいで、アイツ死ぬほど後悔してんだよ。俺も死ぬほど後悔してる。ん?あ、そもそも死んでんのか、俺」

「学兄さん、そのギャグ笑えないよ」

「まあ、そんな訳だからお前、晴子の新しい恋人になれ。俺の事を忘れさせるくらいに幸せにしてやってくれ」

「いや……いきなりそんな事言われても……」

「でも、お前、晴子の事好きだったじゃん?」

「な、な、なんで知ってるんだよ!」

「高校入学当初、お前の言ってた憧れの先輩って晴子だろ?初めて俺が晴子を紹介した時、お前、ちょっとショック受けてたもん」

「学兄さんには敵わないなあ……」

 僕は、はあ~と溜息をいて、軽く頷いた。


「お!良かった!じゃあ、ずはアイツの好みの食べ物とか好きな作家とか、好きな映画とか教えるからメモしろ」

「うん」

 近くにメモ帳がなかったので、スマホのメモ機能を起動させる。学兄さんの教えてくれた情報を一つ一つ打ち込んで、学兄さんに確認して貰った。どうやらメガネで見ている風景は、学兄さんにも見えるようで、スマホの画面を見るなり学兄さんは完璧だ!と言った。


「でも、どうやって永田先輩に近づけばいいかな?とりあえず、葬式に来てくれたお礼に行こうとは思ってたんだけど」

「そうだな……俺も晴子の顔は見てみたい。作戦はその後で考えようぜ」

 学兄さんの言う通りにする事にした。叔母さんに、これを貰うよ、とエレキギターと数枚の衣類とメガネを見せた。叔母さんは、いいわよ、と笑顔で言ってくれたけれど、なんだかその笑顔が切なく映って、僕は居たたまれなくなった。そそくさとその場を後にする。


 学兄さんの家を出て、永田晴子の家を目指した。ここから電車で三駅。それほど遠くない。葬式での芳名録ほうめいろくで住所は確認済だ。急に家に行くと驚かれるかも知れないな、と思って、駅に着いたタイミングで永田晴子にメールを送る。


「永田先輩、お葬式に参列して下さってありがとうございました。今、偶々たまたまなんですけど永田先輩の家の近くに居るんです。時間があったら、お茶でもしませんか?」

 学兄さんにアドバイスを貰って考えた文面を送信した。数秒で返信が返ってくる。


「私の家、知ってたっけ?バイトが2時間後に始まるんだけど、それまでならOKだよ」

「芳名録に住所が書いてあったので。いつかお礼に行きたかったのと、学兄さんの話がしたかったんです」

「分かったわ。駅前の喫茶店に居て。ウチの駅には喫茶店、一つしかないから、直ぐに分かると思う。数分で行くわ」

 周りを見渡すと確かに喫茶店があった。ドアを開けて入店すると、ウェイターの男性がどの席でもいいですよ、と言ってくれたので、広いテーブル席に座った。


「学兄さん。僕達の目的は永田先輩を立ち直らせる事だよね?」

「ん?ああ、そうだな」

「このメガネを掛けて貰って、学兄さんが永田先輩に謝罪すれば良いんじゃないかな?」

「ん~。それもそうだな。なんか上手い事言って試してくれるか?」

「分かったよ」

 メールに書いてあった通り、永田晴子は数分で喫茶店にやって来た。


「空くん、こんばんは。お葬式以来ね」

「はい。数週間ぶりですね」

 ぺこり、と頭を上げて僕は微笑んだ。


「荷物多そうね。半分、こっちに置こうか?」

「あ!大丈夫です。実はこれ、学兄さんの遺品なんです。今日、形見分けしてもらって」

「そうなんだね」

「実はこのメガネも学兄さんのなんですよ」

「うん。気付いてた」

「ちょっと掛けてみてくれません?」

 永田晴子は少し不思議そうな顔をしていたが、僕の真剣な表情を見て何かを察したのか、僕が手渡したメガネをそっと掛けた。


「どう?似合う?」

 永田晴子は冗談っぽく微笑を浮かべて言った。


「全然似合いませんね」

「酷いな、空くん」

「似合ってたら、そのメガネ、先輩に渡そうと思ってたんですけど、やっぱりそれは僕が貰います」

「残念だわ」

「ちなみにメガネを掛けて、何か違和感とか感じませんでしたか?」

「違和感?何も感じなかったけど……」

「そうですか」

 メガネを返して貰って、僕は直ぐにそれを掛けた。頭の中で学兄さんの声がする。


「う~ん。やっぱり聞こえないみたいだな。ちくしょう!」

 仕方ない。別の作戦を考えるとしよう。


「今日は学兄さんの話がしたくて。永田先輩、落ち込んだりしてませんか?」

「そうだね……やっぱりまだ少し落ち込んでるよ」

「僕も同じです。僕の人生って学兄さんから、凄く影響を受けてるんですよ。ギターを始めたのも学兄さんの影響ですし」

「学の事だから、悪い事も教えたんじゃない?」

「ははは。バレてます?」

「あいつ、優等生の顔してたけど、割と遊び人だったから」

「でも、永田先輩にはベタ惚れでしたよ」

「愛されてた自覚はあったわ」

惚気のろけるの止めてくださいよ」

「……今、思えば、もっと惚気ておけば良かったなって思う」

 永田晴子はうつむいてささやく様に言った。


「……すいません」

 その後も、永田晴子と学兄さんの思い出話をした。バイトの時間になって、永田晴子が席を立った。


「ここは出してあげる。今度、何かおごってね」

「はい。また連絡します」

 僕はまだ半分以上残ってるアイスティーを飲み干した。




 帰宅して、学兄さんと作戦会議を始める。


「永田先輩に近づくのって難しいな。先輩は大学生で、僕は高校生だから行動範囲や時間帯も違うし……」

「確かにな。でも今度はお前から誘える口実は出来てるじゃないか。この前のお礼を、とかでデートしろよ」

「う~ん。それだと一回こっきりで終わるかも知れないし、そもそもあれだってただの社交辞令って感じしない?」

「それもそうだな……あ!」

「どうしたの?」

「俺と晴子が出会ったのって、同じバイト先なんだけど、お前、そこでバイトしろ!」

「バイトか!それ、良い考えかも!」

「そうと決まれば善は急げだ。直ぐに面接申し込むぞ!」

 僕はスマホからバイト求人のサイトを開いて、学兄さんが働いてたカフェのバイトに申し込んだ。数日後に面接に来て下さい、とサイトからメールが来た。


「学兄さん。僕、バイトの経験ないんだけど、履歴書の書き方とか面接の攻略法とか教えてくれる?」

「任せろ」

 学兄さんは力強く答えた。


 数日後、バイト面接当日。僕は指定された時間の30分前に店にやって来た。


「に、兄さん。こんなに早く来て大丈夫?」

「俺を信じろ!後、俺が教えた通りに質問に答えろよ」

「わ、分かったよ。分ったけどさあ……」

「なんだよ、不安なのか?」

「だって、こんな感じで本当に受かるの?」

「大丈夫!大丈夫!」

 店の中に入って、本日面接予定の倖田です、と店員に伝えるとスタッフルームに案内された。数分もせずにスキンヘッドのいかつい男が部屋に入ってくる。こ、怖えええ。兄さんに言われたアドバイスを活かして、直ぐに席から立ちあがり、大声で挨拶をした。


「初めまして!!!本日は面接の機会を頂き、ありがとうございます!!!」

 僕の挨拶を聞いて、店長はガハハと笑った。


「君が倖田くんか」

「はい」

「履歴書見せて」

「はい」

 震えながら履歴書を手渡す。さっと履歴書に目を通して、店長は直ぐに質問を始めた。


「志望動機は?」

「お金が欲しいからです!あと、従兄が昔、ここでお世話になっていて、とても社会経験を積めたと言っていました!僕も勉強させて欲しいからです!」

「ふむふむ。シフトはどの位入れる?」

奴隷どれいになります!何でもします!週七、本日からでも働けます!」

「ほう……」

 店長の目がギラリと光った。


「合格!君、良いね!死ぬほどこき使ってやるから、覚悟しとけよ!」

「はい!」

 店長は僕の肩をバンバンと叩きながら、仕事の内容の説明を始めた。





「な!店長はゴリゴリの体育会系だから、元気が良くて労働意欲の高い奴が大好きなんだよ。良かったな、期待のルーキーじゃん」

「確かに受かったけどさあ」

「なんだよ。何か文句あんのか?」

「このシフト、鬼じゃない?」

「週6の18時から22時のシフトなんて楽な方だよ」

「マジで言ってる?」

「18歳未満は22時まで、1日8時間以内、週40時間以内までって法律がなけりゃ、24時間でも入れられてたと思うぞ」

「うげぇ」

「まあ、何はともあれ明日から頑張れよ」

「はい……」

 帰宅して直ぐにベッドに突っ伏した。疲れた。


「俺も面接終わった日、お前みたいに精神的に疲れたな~」

疲労困憊ひろうこんぱいだよ」

「晴子とは同期でさ。所謂いわゆる、オープニングスタッフってやつ。それでさー」

 その後、延々と永田晴子との思い出話を聞かされた。初デート。誕生日プレゼント。クリスマスの思い出。バレンタイン。見る筈だった映画。そして……もう二度と返せなくなったホワイトデー。


「永田先輩と同じバイト先には潜り込めたけどさ、ここからどうやって仲良くなればいいのかな?」

「その辺も任せろ。晴子は仕事の出来る男が好きだ」

「え?僕、今回がバイト初体験なんだけど」

「大丈夫、大丈夫。アドバイスしてやるから安心しろ。とりあえず、明日に備えて、ゆっくり眠れ」

「分かった」

 僕は、そのまま眠りに落ちた。




 バイト初日。


 緊張しながらスタッフルームに入ると、何人かのスタッフが休憩していた。頭を下げて自己紹介がてら挨拶をする。そこには永田晴子も居た。


「え?空くん、ここでバイト始めるんだ?偶然だね!」

 本当は偶然でも何でもないけれど、わざと大袈裟に驚く振りをした。仕事内容については何でもきいてね、と永田晴子に言われて、笑顔で、ありがとうございます、と返す。僕は店長から接客マニュアルを渡されていて、昨日必死で読み込んでいたけれど、不安なものは不安だ。


 ホールに立った。


 永田晴子に、初めは注文を取るのではなく、バッシングを中心にやっていこうと言われた。バッシングとは空いた料理の食器やグラスなどを下げる仕事。客が帰った後のバッシングは簡単だ。ただ単に食器類を下げて厨房に運べばいい。


 難しいのは食事中の客の空いたグラスや食器などを下げるタイミング。早すぎても遅すぎても駄目。空いた食器を下げれば良いってものじゃない。早すぎると不快感を与えてしまう。それよりも重要なのは遅すぎない事。客に合わせたタイミングというものが大事なのだ。


 とは言ってもだ。僕はバイト初体験だし、今日が初日。バッシングだけに集中してね、と言われたので基本的に客が帰った後のバッシングを中心に行おうと思っていた。すると、学兄さんの声が聞こえる。


「おい、空!二番テーブル……えーと窓際のこっちから見て左側。若いカップルが居るだろ?あそこの食器下げに行け!」

「う、うん。分った!」

 学兄さんのアドバイスを受けて、さっと客の食器を下げに行った。


「あ!店員さん、お代わりくれる?」

「私も!」

 カップルが両人ともドリンクのお代わりを頼む。お代わり……この人達、何を頼んでいたんだっけ?一瞬パニックになりかけた僕に、学兄さんが声を掛けてきた。


「厨房で確認出来るから、『かしこまりました』ってだけ言っておけ!」

 心の中で頷いてカップルに、かしこまりました、と頭を下げた。


 厨房に行って、二番テーブル様ドリンクお代わりだそうです、と告げると、厨房の中に居た店長が笑顔で僕の肩を叩いた。


「おい、倖田!お前、中々やるな!やる気もあるし、動きもしっかりしてる。見込みあるぞ!」

「ありがとうございます!」

「おーい、永田!こいつ、バッシングは出来そうだから、注文の取り方も教えてやってくれ!」

 店長が永田晴子に、ガハハハッと笑いながら言った。永田晴子は、にこにこしながら、分かりました、と言って僕の傍へやって来た。


「えーと、注文の取り方なんだけど」

 永田晴子が手元にあるPDTを触り始めた。PDTとは、注文を聞く際に厨房へオーダーを通す機械だ。ウチのPDTは小型のタブレットの形をしていた。


「空!直ぐにメモを取り出せ!」

 学兄さんに言われた通りにメモとボールペンを取り出すと、永田晴子が笑顔になって、感心感心!と褒めてくれた。


 学兄さんって凄いな、と思いながらメモを取る。永田晴子に、次のお客様のオーダー取りに行ってみようか、と言われた。


 その日は永田晴子に色々な事を教えて貰った。周囲を見回して追加オーダーを取る、何か他にやる事がないか集中しながら仕事をする。メモを必死で取りながら、初日のバイトが終わった。


 偶然にも、永田晴子とバイトの上がりの時間が一緒になった。永田晴子が駅まで一緒に帰ろうか、と言ってくれたので、喜んで!と返事をする。帰り道に色々な話をしたが、学兄さんのアドバイスもあってスムーズに話せた。話が盛り上がってきたところで駅に着いて、ちょっと名残惜しいな、と感じた。ああ、僕はこの人に恋をしているんだ、と言う実感が湧いてきたけれど、学兄さんの恋人だった人だし、今だって学兄さんのアドバイスなしじゃ、こんなに距離を詰められる事もなかったんだろうな、と思って胸が締め付けられた。


 それからバイト帰り、上りの時間が一緒になる時は、いつも永田晴子と一緒に帰った。好みの食べ物も、作家も映画も、僕は学兄さんから聞いていたので合わせるのは簡単だ。バイトを始めて3ヶ月が経とうとしたある日、とある映画の最新作が公開されるという話題になって、一緒に観に行きませんか?と誘った。その発言に自分でも驚いてしまった。僕って、意外と積極的なんだな。


 永田晴子は、ふふふっと笑って、久しぶりのデートだわ、と明るく答えてくれた。やった!と眉を上げて、僕は直ぐにデートの日取りを相談する。その日の帰路では鼻歌が止まらなかった。学兄さんも、空!お前、よくやったぞ!と喜んでくれた。


 帰宅して、早速映画館の席の予約をする。デートは次の土曜日。待ちきれない。丁度、給料日の次の日だ。財布も分厚い。その日は興奮して、中々寝付けなかった。


 デート当日。朝から美容室に行って髪を切り、学兄さんに言われて少し大人っぽい恰好をした。インナーもジャケットも、学兄さんの形見。晴子とのデートで着ていった事はないから、俺を思い出したりはしないし、平気だよ!と言われた。


 待ち合わせ場所に着いて、ドキドキしながら、永田晴子を待った。少し時間に遅れてやって来た永田晴子は、桃色のワンピースに身を包んで、とても大人びて見えた。


 遅れてごめんね、と言われたけれど、僕は首を横に振って今来たところなんですよ、と在り来たりな嘘をいた。


 映画館に着いて、ドリンクとポップコーンを買った。前に喫茶店で奢ってもらった時のお礼です、と言って永田晴子の分のドリンクも渡す。永田晴子は、ありがとう、といつもの素敵な笑みを浮かべて受け取ってくれた。この人は笑顔の時が一番可愛い。これからも笑顔にし続けてあげたいな、と思った。


 映画は有名なアメコミの実写化作品で、人気作の続編だ。最新作な上に上映開始日からまだ日も浅いので、映画館の中は客でいっぱいだった。席を予約しておいて良かった。永田晴子は、空君って結構女慣れしてるのね、と言ったが直ぐに否定した。僕、女の子とデートしたのは人生で数回しかありません、と言うと永田晴子は意外そうな顔で、そうなんだ、と呟いた。


 映画が始まった。派手なアクション映画だったが、アクションのみの単調な作品ではなくて、涙あり笑いありだ。永田晴子はよく笑い、よく泣いた。僕は映画に集中出来ずに、ばれないように横目で永田晴子の表情を見ていた。


 ああ、僕は本当に永田晴子を愛しているんだな、と何度も自覚させられた。


 映画が終わって、近くのカフェでお茶をする。話題はさっき観た映画。永田晴子は興奮冷めやらぬ様で饒舌じょうぜつになっていた。正直、僕は映画の中身を殆ど覚えていなかったので、相槌あいづちを打つので精一杯だった。


 よかったら、この後、夕飯も一緒にどうですか?と誘うと永田晴子は喜んで!と笑顔で返事をしてくれた。僕は嬉しくなって飛び上がりそうだったが、それを悟られたくなくて出来るだけ無表情で、近くのレストランに予約を入れた。これも学兄さんのアドバイス。学兄さんは永田晴子の好みも知ってるし、お洒落なレストランにも精通している。このまま上手くいけばいいな、と思いながらも何だか兄さんの言うままに動いているの事に、少しモヤモヤした。例えるなら、攻略本を見ながらゲームをしている様な感覚だ。


 予約したレストランはリーズナブルな価格帯なのに、夜景が見えて、雰囲気が最高のお店だった。デートの締めには完璧な場所だな。永田晴子も雰囲気が盛り上がってきたのを感じたのか、アルコールを口にしていた。楽しそうにしている永田晴子を見て、僕は何だが胸のあたりが温かくなった。幸せな気分。一緒にコース料理を食べて、色々な話をした。何故か学兄さんの話題は出なかった。二人して、わざとその話題をしない様にしているのは、火を見るよりも明らかだった。


 帰り道、駅まで15分ほどの道を歩く事になった。頭の中で、学兄さんが大声で叫ぶように声を掛けてきた。


「おい、空!ここで告白しろ!雰囲気も最高だし、このタイミングを逃す手はないぞ!」

 僕は軽く頷いて、前を歩いていた永田晴子の手を握って、その歩を止めた。


「何?空君」

「永田先輩。少し、僕の話を聞いてください」

「うん」

 永田晴子は、おそらく僕の気持ちに気付いてる。動揺の感情が一切漏れてこなかった。


「学兄さんを今でも忘れられないかも知れません。いつまででも待ちます。僕の恋人になってください」

 その言葉に、永田晴子は悲しそうな笑みを浮かべながら、首を横に振った。


「空君の事、とっても素敵だって思うよ。でも、まだ学の事が忘れられない。私だけ幸せになんて……なれないよ」

 その言葉を吐き出す様に言った後、永田晴子の目からツーっと涙がこぼれ落ちた。


「学兄さんも、永田先輩に『俺の事は忘れて幸せになって欲しい』って言ってます」

「なんでそんな事が分かるの!?アイツの何が分かるのよ!私の何が分かるのよ!」

 感情的になって、声を荒げる永田晴子の手を離して、僕は言葉を続けた。


「分かります。信じてくれないかも知れませんが……」

「おい!空!お前、余計な事言うなよ!」

 頭の中で学兄さんの声が響いたが、無視して僕は永田晴子の目を見つめて言った。


「今でも学兄さんは僕の傍に居てくれています。信じてくれないかも知れませんが、このメガネに乗り移って、僕に様々なアドバイスをくれたんです。永田先輩との距離を縮めるために、色々と作戦を考えてくれました」

「そんなの……信じられないよ」

「初デート。誕生日プレゼント。クリスマスの思い出。バレンタイン。見る筈だった映画。そして……もう二度と返せなくなったホワイトデー。今日観た映画だって、学兄さんと観る筈だった作品ですよね?僕は何でも答えられますよ」

「……本当に学なの?学がそのメガネに乗り移っているの?」

「もう一度、掛けてみてください。あの時は声が聞こえなかったけれど、今度は聞こえるかも知れない」

 僕はメガネを外して、永田晴子に手渡した。メガネが鈍い光を放ち始めた。





 奇跡が起こるなら、ここしかない。





 永田晴子は緊張した面持ちで、ゆっくりとメガネを掛けた。


 声が聞こえる。学兄さんの声が、永田晴子がメガネを掛けている状態でも聞こえた。


「晴子。聞こえる?」

「学……学っ」

 永田晴子はこらえきれずに、その場にうずくまった。


「なあ、晴子。多分、俺がこの世に居られるのは、これっきりだと思う。神様もいきな事してくれるぜ。晴子。あの時、お前の顔なんて二度と見たくないなんて言ってごめん。愛してる」

「私もごめん!謝りたかった。ずっと謝りたかったよ!愛してる!」

「ありがとう、晴子。でも俺は、もうこの世には居ない。頼むから幸せになってくれ。もう時間がない。俺の事を忘れろ、とは言わない。俺の事を、その胸に抱いて……それでも幸せになって欲しいんだ」

「……」

 永田晴子は立ち上がって、メガネにそっと触れた。


「分かった。私、学の事、一生忘れない。でも、幸せになるね」

「晴子。俺もお前の事は忘れない。天国あっちでも、ずっとお前の事、見守ってるから」

 メガネが放っていた光が、段々と失われていく。


「そろそろお別れだ。空。晴子を頼んだぞ」

「うん。学兄さん」

「じゃあな、晴子、空。何度も言うけど、絶対に幸せになれよ」

 メガネが光を失った。


「空君。直ぐに空君と付き合う、って事は難しいけど……それでも待っててくれる?」

 永田晴子は涙を拭いて、僕の目を見て言った。


「何年だって待ちますよ」

「うん。じゃあ、出来るだけ早く立ち直るね」

「ところで、ちょっと話は変わるんですけど」

「何?」

「僕、永田先輩の笑顔がとても好きなんですけど、そのメガネ、本当に似合わないんで、返してくれます?」

 僕の冗談に永田晴子は軽く拳を振り上げながら、笑った。

























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