4.君はそんなにも嬉しそうに

 午後5時を過ぎ、竜宮に夕暮れが訪れる。遥か西の海面にゆらめく光が少しずつ赤色を帯び始める。

 スイミーと蒔絵、それ以外には誰もいなくなった教室で、二人は向き合っている。

【君はどうして、いつも、笑ったままでいられるの】

 蒔絵がスイミーに問いかける。スイミーはいつもクラスメイトに話しかけられたときと同じような、少し怯えた顔をした。

 ――スイミーを見ていると、胸が苦しくなる。

【あんなふうに扱われるのは、いやじゃないの】

【あんなふう、って?[hm]】

【ひどい言葉をかけられて、そんなふうに、身体の鱗を捨てられることだよ】

 逆光になったスイミーの、ところどころが剥がれた鱗が、当たりを引けなかったビンゴゲームのように真皮の赤を光らせている。蒔絵にはそれを見つめることができない。彼女の姿が痛々しく、一瞬でも目にするだけで、自分の皮膚まで剥がされるような気持ちになる。

【自分がされていやなことは、はっきりいやだって言っていいんだ】

【……[hm]】

 スイミーは怯えた顔をやめ、無表情になり、そして小さく首を振った。

【それは、できないことです[hm]】

【どうして】

【わたしたちハームドロイドAIの設計思想において、人間の暴力行為に対する拒否が禁止されているからです[hm]】

 スイミーの言葉が流暢になる。蒔絵も驚いた顔になる。それは、対話相手の知的水準に合わせて話の質を変えるハームドロイドAIの学習機能によるものだったが、蒔絵には知る由もないことだった。

【ハームドロイドは人間の悪意を受け入れ、解消するための存在です。現実世界におけるコミュニケーション上のネガティブな問題の発生を、わたしたちの効率的な振る舞いによって抑える必要があります[hm]】

【……わからない】

 わからないよ、と蒔絵は言う。

 彼女が傷つけられることに嫌悪感があった。

 ハームドロイドが現実世界において果たしている役割、ハームドロイドが暴力を引き受けることによって、現実世界における暴力事件、ハラスメント、さまざまな諸問題の発生件数が激減していること――そんなことは初等教育の範囲だった。6歳程度の子供だって知っていてもおかしくないことだった。

 知識や常識の問題ではなく、何一つわからなかった。

 なぜ、彼女が傷つけられることが辛いのか。なぜ、自分には現実と仮想バーチャルの区別がつかないのか。自分は異常な人間ではないのか。なぜ、ハームドロイドだけが、人間の悪意を引き受けなければならないのか。


 なぜ、彼女のことを想うだけで、こんなにも胸が痛くなるのか。


 スイミーが表情を緩めた。

【蒔絵は、わたしのことをどう思っているの[hm]】

 こそばゆい吐息が額に触れる。蒔絵は弾かれたように顔を上げる。

 一歩。スイミーとの距離が近づいている。

 見つめ返したスイミーの瞳は、黒く潤んでいるように見えた。薄く開いた可憐な唇から、白い吐息が繊細な泡となってこぼれ出た。心臓がにわかに激しい脈動を始め、身体と心が茹で上がるような感覚にとらわれる。

【ぼ、ぼくは……】

 真っ赤になった蒔絵の口から、続く言葉が紡がれる。

 それは彼自身思いがけない言葉だった。だが同時に、彼の頭の中の奇妙に冷静な部分が、そういうことだったのか、と納得していた。

【きみのことが好きなんだ……】

 

 ハームドロイドAIの設計思想においては、人間と恋愛関係に陥ることが考慮されている。

 それは、人間の趣味嗜好の中に『自分の愛する存在を傷つけること』によって幸福を得るケースがままあるためである。

 一瞬で演算を完了したハームドロイドのAIスイミーは、蒔絵の態度から合理的に導かれる、『男に愛される女としての最適な振る舞い』を演じた。

 

 ウェアラブルデバイスに出国ログアウトの指示を出した後、自分の部屋に戻ってきた蒔絵は、ふらふらとベッドに倒れ込んだ。

 顔が火照って仕方がない。何かを思い出すように唇に当てた自分の指がひどくなまめかしく思えて、それが無性に恥ずかしくなって、思わず枕を殴りつけてしまう。

 逆光の中で照れたようにはにかむ、彼女の姿がフラッシュバックして……。

 机の上のウェアラブルデバイスが音を立て、新着トピックスの到着を告げた。蒔絵はそちらに目を向けたが、確認する気にはなれなくて、蓑虫のようにシーツを自分の体に巻き付けた。

 

『速報……速報……ハームドロイド規制法が今国会で成立……』

 ウェアラブルデバイスの新着トピックス欄に、そんなニュースが流れている。

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